2008-11-13 ゆめゆめつばすることなかれ

  尊天は御気性が荒いご性格をお持ちである。
天部の仏様であることからも人間の心に限りなく近いということもあるがその中でも頂点に
いらっしゃる方であってご性格の強さも一番である。(だからといって怖いだけではないきちんと約束事、
また人が当たり前のきちんとした、また心のこもったお付き合いをしていればたとえ如来であろうとも
絶対にまけない絶大なお守り、功徳を下さる。)それだけに信者の皆様にはしっかり心得を読んで、
尊天の信仰をいよいよ深め、襟を正し、尊天に臨んで欲しいものである。
  なぜこのような事を言うかというと、最近やっと落ち着き信者様とお電話などで接する機会が増えたのだが、
恐ろしく尊天様に対する信仰の形に間違えて接している方が多いことに気づいたからだ。
まずは礼拝など接し方は形から入って当たり前なので新しい方はよろしい。
しかし私が驚いたのはもう何度も尊天の素晴らしい奇跡に触れて、その度に御自分の心の嵐にまかせ
全てを壊しているにも拘わらず、尊天と私の不眠の努力と河口の支えでまたの奇跡を見ている方々
なのであるが、まずこの方々(自分で心あたりはよく見ておくように)は自分だけが不幸であからさまに
ご自分がしでかした大変な事件に理由をつけ言葉だけは反省しているがよく聞いていると反省が全くない。
また不安でいっぱいなのはわかるがその際、今回のお題にさせていただいた
ゆめゆめつばすることなかれという尊天の言葉にあからさまに反し尊天の存在などなく
ただどうすれば連絡が取れるか、意中の相手が自分の思い通りになるか、まるで血のかよっている人間をも
人形扱いであり、尊天が全く不在なのである。
ここに注目してほしい。
尊天に対する態度はこの方たち(あなたですよ)はまるで都合のいい時に利用する道具のように
機械のようになっているようだと、古い信者様、また新しい方でこれからという人は感じないであろうか。
それとともに自分の意中のかたに対するおもいも人形、機械のように比例されていると感じないであろうか。
尊天のすばらしいところはここにある。
ゆめゆめつばするなというのは、たとえ心の中でも私を馬鹿にするな、叶わないと思った時点で裏切りであり
罰をあたえるということばは、何もただ厳しく、そして無理やりな威圧をしておられるのではない。
まずいたらない我々はよく悩みすぎて、御仏の前で願うことすら動悸などがしてろくにできない時がある。
だれしも経験なさっていると思うが、全て尊天に預けた、うまくいくんだと半分強制でも思う事ができたら
どうだろう(尊天はそれが言葉だけではなく本当に叶うのだから不思議である)
皆、真剣に時間を無駄にしないで御仏の法、行者の法とともに成就を願えはしないだろうか?
そして、ここである。
尊天に感謝、また信じてついて行くという姿勢は、人間を信じ、なんの利得もなく愛す、
裸のままの思い人を愛すとい姿勢につながらないだろうか、よく尊天、神仏に向かう姿勢は
その人の生き方の姿勢に通じると言われるが尊天はこの言葉で、私を無償に愛し、
そと姿勢の如く相手に臨めといっているのではないであろうか?
誰でも自分を性の捌け口や人形のように扱われたり。わがままし放題の相手にされるのは嫌なのである。
しかし尊天は御自分に全てをささげついてくるものは全てを救うという考え、誓いをお持ちの方でいらっしゃる。
こういった方々がいつものカッとなり荒れ狂う癖、泣き叫び相手をなじる
癖を見せる前に、心に尊天と思うことを忘れていないか、
いまだからこそ、そしてなんども奇跡をみさせていただいたからこそ尊天を思い出し、
心に浮かべようとしたらどうだろう。
尊天は愛を皆様に下さっています。
愛を下さっておられる、偉大な方を思い浮かべた心で相手を攻撃、にくめるであろうか?
逆に尊天が下さった愛を思い出し、相手にも愛をあげようをささげようとおもわないであろうか?
思うはずである。
_ 尊天は願を叶える代わりに、その課程において流す心の汗、学ぶ愛を己のものとし、
仏性を開花させるという。心願をおもちの仏であります。
私もそれを活動の主眼においております。
ですから尊天の思いを汲むため、尊天の愛から生まれる奇跡を間違ったものにしないためにも
形の信仰もさることながら、心の信仰にも励んで欲しいものである。
そうすれば成就は間違いないのである。
  今日言われた人は、気にしてはいけない。わたしもそういった指導に気を配っていなかったのだから。
皆さまはまだ信仰でいえば赤ん坊と同じである。
どうすれば尊天に近づけ、どうすれば功徳といただけ、そうすれば尊天に喜んでいただけるかは
これからこうやって学んでいけばいいし、学ぶ幅が多いということは、もっともっとお守りをもらえる、
実践をすれば楽々といただける幅が誰よりあるということなのだからこれほどいいことはないのである。
  昔の信者はよく私に泣くまで怒鳴られたものである。そして皆めげないで成就なさっていかれた。
今日書かれた沢山の方もそうあって欲しいものである。
尊天は絶対に見捨てない。私もである。 合掌

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