2010-02-02 続けるという事

 よく信徒の方の中に「どうすれば尊天様に対し熱心になれるんですか?」という質問をなさる方がある。
篤信な方や、成就、またはいつも功徳を頂いている方には、縁遠い質問と思うし、
中にはなんという愚問を尊天様にと思う方も少なくないと思う。
ようするにこのような質問は、尊天様に頼んだのはいいが信仰心まで尊天様、
八海先生任せということで、どこかおかしい感想を持たざるおえない。
私はよくこのような方にはまず大変怒る。
それは尊天の信仰は、尊天に愛を持って向っていく信仰であるから、
それでも、それでもと向かわせたいからである。
結果、その格闘のような尊天への信仰が成就たらしめるのだが、上記の質問は
要訳すれば私はぜんぜん満足はしていない、毎日のお勤め、決まり、御約束を私は守れない、
守れないし、信仰心をどうしても持てないのは尊天様、先生のせいだ、
はたまた河口のメールが遅いから、私の心がかわいそうになって熱心になれなくなり、
それが悪循環になり、私にいいことがないのだ、付け加えれば、尊天様、私は自分でなにも
動きたくないし、みんな誰かが自分の為にすればいいし、いらいらしたら全部人のせいだと
思ってるぐらいの人間なのだから、心の衣服、ご飯の世話まで尊天様、あなたしなさいよ
ということなのだろうが、皆さまはこのような質問に対し、いろいろな考えがあるとはおもうが
皆一応に思うことは、幼いという感想ではないだろうか、あまりにも心が幼いゆえに、
すぐ飽きてしまう、いつも補助をたのみにし、よく赤ちゃんが母親に世話をしてもらっているのに
その手をわがままに振りほどいてみたり、はたいてみたりするのと同じで、
まずまずこの幼さにつきものなのが嫌いなことであっても決められた事に集中、
継続が出来ないことなのだ、
だからこそ小学、中学、高校と授業の長さが段々成長に合わせ長く教育していくのである。
上記の質問は、子供のように尊天に飽き、いらいらし、一言で解釈すれば
投げてしまっているのである。
 そこで今日は私が皆様のご祈祷、修行を通し、悟った事を書き教化しようと思う。
そこで今日の題目である続けるということ、で得るものを教えたい
子供のように、ましてや尊天までも投げ出さないで、思い続けるという
大切さを教えたいとおもうのである。
 私は基本的には自分で尊天のお供え、下げ物の作業をする。
ましてや、浴油の準備からその片付けも毎日に及ぶものである。言ってしまえば簡単である。
でも篤信な毎日のお勤め、また十一面様を毎日熱心にご供養なさっているかたなら
おわかりなのではないだろうか、皆さまはお水とお酒ぐらいだとはおもうが
それでも毎日続けるのはおっくうなはずである。絶対にさぼっている事もあると思う。
それもたったお水一つ、真言百回がめんどくさくてである
だからといってなにも恥ずかしくはない、私も心の中では、あー面倒だ、あー早く休みたいなどと
要するに心のさぼりを多々することがあるのだ、しかし、そのさぼりは、篤信な方と同じぶん
投げるさぼりではない、信仰の波のサイクルの中の一つなのである。
人の心は、コロコロなどといって、波が多少はあって当たり前である。
ある時間は人を思い、ある時間は空腹に襲われ、ある時間は正しくあれと思い、やがて眠る。
信仰の波も同じで、ある次期はめんどくさくかんじ、それがすぎれば火のように
熱が入る時期が来たかと思えば,生活が楽しくてそれどころではなくなり、どうすれば簡易的に
御勤めを済ませられるかなど、そればかり考えたり、かとすればどうすれば十一面様の御機嫌を
とるために上げ物を増やしてみようとしてみたりなのである。
言えることは皆途絶える事を考えもしない信仰しようという意欲の繋がりがサイクル、
輪を作っているのである。そんな中私は気づくのである。
その信仰のサイクルの道筋を振り返ってみると、去年の私、その前の私より、より一層尊天を
近く感じる事ができているのである。
例え去年はあんな荒行に挑戦しようと思っていたのに、今年は骨が折れて難儀になってしまった
などという惰弱な心でもであってもその近いというのは、正確ではないが
自信のようなものなのだと思う。
大学出で宗教学にかぶれた僧侶や、近代の宗教感からしたら、続けるよりも、
なぜそういうことがひつようかという歴史観、宗教観、倫理観、要するに倫理が大切であって
教科書のように理解していればそれでいいと百人が百人そう言いきる。
上記の質問をする方々も何をいっても聞いてくれないのが、そういった頭があるからとも云える。
しかし、篤信な信徒の方々、今、ともに振り返ってみて
その道筋が例えムラがあった道筋であってもその道筋を作ってきた事がなんと深く、神々しく、
言葉で軽く表現などされたら冗談ではないと思う、誇り高いものではないだろうか?
そしてその道筋には必ず尊天様が供にいらっしゃたのではないだろうか。
振り返った時、例えその時があまり熱心でなかったとしても、その高く積まれたビルの如き
信仰の道筋の山は、今だけ深く祈ろうとした者の功徳の引き出しを
軽く超えてしまっているのであります。
 そこには先程いった自信があるのです。
 きっと尊天は私が好きであるという自信。
尊天は絶対に微笑んでくれるという自信。
私がよく皆様に早く成就する者より遅くのほうが私はいいと思うと言葉にも書いていることは
こういったことからもいえるのです。
人生は長い、一つの悩みが終わると、また一つが生まれる。この道筋の山は
その長い人生のあらゆる悩みを絶対に深く、そして高く、解決し、御導きしてくださる
大切な対価となるのである。
このような深い信仰を現出する事ができるのは、ひとえに尊天様の他の仏とは違うご性質と
存在であるのだから、誠にありがたく、尊天の信徒様が世に名を成すかたが多数だというのも
神仏を崇める人間の方からみても誠に納得させられる理である。
 どうであろう私ばかりでなく皆様の続けてきた事とうことは、こういう自信という悟りを
もたらしてくれるのである。
 続けて、私は真言を皆様が想像を絶する程唱え向かう。先日は一万回したが、この一万回は
尊天の真言の一万回に付け加え、他の仏も供養するのだからざっと見積もっても、
尊天の真言三万回から五万回の回数に至ると考える。
この二万回の差は何だと言われればその日の調子である。
なにかしら今日はすらすらというときと、一つひとつなぜか重く一歩一歩という時の差である。
では先程の頭だけで信仰をとらえている方々、考え方からすれば
私の真言の回数にこだわった祈祷、修行は意味は無い、心を込めて、二、三回でいいんだと必ず言うと思うし、
上記の質問の信徒の方は確実にそう思っているからこその質問だと思うが、これが不思議である。
当の唱える本人も心を込めたら少しでいいということが本当だったら、そうであってほしいものだと思ってしまう。
なぜなら本当に難儀であるからそれが本当であったならば、こんなに楽な祈祷は無い(笑)
しかし、これはしてみると違う。
上げ物と同じで、内心、(あー大変だ)と思いながらしていてもである。
それは二、三回、七回、百回など短ければ力が入る、気合がみなぎる。
しかし、千回、二千回、三千回、一時間、二時間、三時間、四時間と例えめんどくさいと
思いながらも唱えた境地が、月とすっぽんなのである。
そこには確かに、長時間の正座でうっ血してしまった足に気をとられ、ましてや面倒だと思う心があったとしても
その思う心の壁の向こうに到達感ではない、何かの存在、二、三、百回で感じ、
感想していた尊天とはまったく違う、息をし、ありがたいその御血が脈打つお姿を感じるのである。
これは先日体験したものよりも簡易な現象ではあるが
まさに常識では集中力も落ちてなんの意味もないといわれるかもしれないが
その集中力もこれはもたんだろうという壁を超えたときに、意識が怠惰であっても
否応なしに現れる症状なのである。これを俗世の理屈で説明はできないであろう。
しかし、これはやったことがない人間にすればありえない境地だが、
恐らく挑戦したことのある人間ならわかりえる境地だと私は思う。
この真言の数を唱え続ける境地と毎日の少しの事ではあるが御勤め、お決まり事を続けつづけるにいたる
先程書いた境地と比べ皆様はどう思われるだろうか?
私はとても似ているような気がする。
 ご真言とは神仏そのものである。それを何度も何度も呼ぶ事、例えどんなに怠惰に思っても、
我を呼べば即座に現れるというお言葉を信じ、呼べ、唱えろという教えに耐え、実行しようと呼び続ける
その姿は、毎日のお勤めの波を越えて得られる自信の境地、尊天を間近に感じる自信の境地、
尊天を呼び、呼び、呼び重ね、まるで心に招いたかの境地。
 全て、続けるという行為が作り出す、私は尊天様がお住みになる世界に自分からむかって行こうとする
尊い信仰の旅、功徳を頂く為の真実の心の旅の姿だと思うのである。
 であるから、「どうすれば熱心になれるんですか?」ではなく、
それでも熱心に尊天に会いに旅をするのです。
およそ神仏の中で最高の現世利益をもたらすと古来から言われる
尊天の息吹を感じて私は欲しい、だからこその中身の濃い成就、軽率でない成就を私は喜ぶ。
私の祈祷で尊天は必ず皆様の近くにいらっしゃっておられる
しかし、その近くにいる尊天様を感じるには、近いようで遠く、遠いようで近い。
 もしその質問のなかに尊天に私は功徳を真剣にもらいたいのですという気持ちがあるのなら
熱心に信仰してみるのです。
篤信な方や、成就経験者はわかると思うが、尊天信仰において本当に挑戦し、それでもという方は
長文になったがこんな愚問はしないものである。絶対にしない。
信仰の道筋を通ってきたものなら異口同音みな知っているはずである。
私は、尊天は、頑張る。頑張る。
 しかし、本人が挑戦、要するに続けること、やってみる事を投げだすのならしょうがないことなのである。
それでも駄目なようだったらお辞めになればいいと思う。私も御祈祷を辞める。
 実は一人私はご祈祷を辞めさせていただいた方がいるが、
私から祈祷を辞めたがこれは悲しいことである。
もし信徒様の中で先生に言えなかったけどほんとは今日のような
質問をしたかったという人がいたならこれを読んで頑張って欲しい。
そうしてくれれば本当にうれしい。
 私の目指すところは全員成就である。
 一割、落としてしまう。理由の如何はどうあれ、一割が成就しない。残念である。非常に残念だ。
今日はあまりうまくいっていない人の為にも書かせていただいた。
 最後にこれだけは間違えないでほしい。私は九割の成就者の為に祈祷するのではない。
 一割の者の為に、昼夜、祈祷をし、そして米を絶ち数々の断ち物で飢に
日夜さいなまれているのである。
であるから、先生ももっと頑張る。
みんなも泣きながらでも頑張ろう。 
そして成就した者は自分だけの喜びに浸らずに、毎日のお勤めの中でも、
この一割の方の成就を祈ってさしあげるようにして欲しい。 合掌

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