遅ればせながら、信徒の皆様に私から夏の大祭が無事結願したことをご報告させていただく。
とにかく震災後のご祈祷等も重なり、また、教会の成長も相まって、例年よりも多忙を極め、ご報告が今になったことをお詫び申し上げます。
教会の雑事に加え、欠かせぬご祈祷、御神籤など、信徒の皆さんと僅か五分でも会話をする時間も割けないほどであった。
やっと九月半ばから前後して、入魂した仏像や額縁、また御厨子の御寄付をされた方々に、我が尊天に御上げした歓喜団などを下賜できる目処ができた。
本当に猫の手でも借りたいほどの忙しさであり、信徒様達から昔よく聞いていた、やれ占いなど霊視など、なんの法でもできるとのたまく自称「行者様」などは、実際はご祈祷などはしていないのだろう。日々の行法を中心とした私の生活から見ると、そう思わざるを得ない。
とにかく、時間がない。
行に集中し、聖天と一体になれば、一日などはあっという間なのだ。
話はそれたが、九月半ば頃、皆さんのご善意で購入した御厨子もお披露目できると思う。
中にはご尊天様の金の蓮台も特別に誂えた。
大変お喜びであり、今回、千宰の方に寄せられている成就報告は凄まじいものである。
全て今回の大祭の後始末ができたら、随時、「声」に成就報告を掲載させようと思っているので、皆、これを糧として、まだ成就していない人は頑張って欲しい。
本当に御厨子に工面してくださった信者の方々は、功徳極まりないであろう。
何故なら、こういう話があるのだ。
私がまだ若い時、ある有名な尊天のお寺に、私はまだこういう仕事をしている者ではなく普通の人間であった時分、私はそこの尊天を拝むのではなくて、だきに天に願をかけておった。
何も起こりはしなかったが、信仰心の厚い私は当時のお金で三百万円出し、二百年ぶりにその御厨子を作りなおした。
驚いたことに、秘仏といわれたその仏様を住職が見せるというので、拝見させていただいた。
何と、そこには大黒天と、だきに天と、弁財天とが一体になった大聖歓喜天がいらっしゃったのだ。
今思えば、それが一番はじめの尊天との出会いであり、そこのご住職は先代は良かったのだが、如何せん現代の仏道からみたら極めて毒されて情報の中で生きてきた人間である、実生活もだらしなく
尊天の不思議さというものをどこまでも大学で学んだ科学的、学術的解釈しかしない方であり
トラブルも多かった。(それゆえ限りない断ち物による尊天への究極の同一を試みる私の験力に頼る
皆は当時の私に比べたら幸せ者である)
その尊天は阿部の清明などが本尊としたものであって、住職はあまりに歴史が深くだれもすててしまったその仏の正体さえも興味がなかったのだ。現代の寺院に拝みにいってもなんの功徳もないのは
この退廃図がもたらした、仏の魂抜けに起因するのだ。
私はそれでも大金をひねり出した。
数年後、私の処に現在のご本尊様がいらしたとき、ご高名な行者様になんとこういわれたのだ
この本尊は愛染の魂をもっているが、貴方の処にもう一つもとても古い四つの顔を持つ歓喜天が
入ってきておるぞ、そう言われ、私は実はこれこれこうと、その方に上記の流れを告白したところ、
あーそうか、君は大変尊天に愛され、近年に見る苦行をもって尊天に臨んでいる稀有な人間であるので強力な愛染聖天も君にこのように降臨され、また御厨子を何百年ぶりに新調した恩を君に感じ
ついに一番古いといわれる、異形の尊天が君の処に魂を移動なさったのだよと、言われたのだ。
当然、その功徳凄まじく、今にいたる。
どうだろう、私の尊天以上に説くには恋愛のことで奇跡をみせた尊天がいただろうか?
逆に他の寺院では、戒められ罰せられ、相手がいなくなり、お金は入ったが恋愛は駄目だとか、片手落ち、まるで鬼のいたずらのような功徳が多いのではないだろうか?
話をもとにもどそう、今回の御厨子を尊天は大変喜ばれ歓喜なさっている。
上記の話のように、今回御厨子にご協力してくださった方々は必ずや私以上の功徳をいただける
こと必定であるからして、献金なさった方々は楽しみにしていなさい。
尊天になりかわり礼を申します。
合掌
追伸
題名にある尊天様のお力についても書こうと思ったが、話が長くなったため、その話は次回に書こうと思う。
また、御神籤も大変遅くなって申し訳なく思っている。
日々の雑事やご祈祷のことを考えると、到底追いつかなくなってしまうため、今後おみくじは上品五万円と、最上品十一万円だけにささえていただく。
誠に勝手ではあるが、精魂を込めた祈祷で神籤を時間をかけて引いているため、ご理解いただきたい。
成就した者、必ずそれ以上の尊天に対する感謝の心を忘れないこと。
少しこれはいかんと思う成就者が十二名いる。
この中に、自分が入っているかは、これを見たらその者はわかるだろう。
あまり目に余るようならば、私が尊天に頼み厳罰を願うと言いたいところだ。
よく反省するように。
新しく入った人も同じだが、うちの尊天様が力があり、他の古い寺院が力を全くなくしてしまったというのは意味がもうひとつあるのだ。
それは、そのご本尊を信奉する行者並びに、何より信徒がご本尊に対し、真面目であり、礼節を
厚く持って接しているかどうかにかかっているのだ。
これが薄れていくとどんな素晴らしい方が入魂した仏像でもたちまち魂抜けをしてただの
仏像に変わってしまうのだ。
私は信徒の皆さんに信仰に対し、時には怒鳴るぐらい厳しくあれとしどうする。
そう教えられ、日々どこよりもまじめな信仰心をもった信徒の集団がこの私を中心に本尊に
願い申し上げる地場は、まさに現代では考えられない尊天の奇跡の理想郷を現出しているのだ。
この二カ月前後私がいそがしさに翻弄されていたうちに、千宰から聞かされていた
一部の信徒の退廃に私は激怒し、怒髪天を抜く思いである。
皆の共通した深い信仰心が突出した尊天の力をうんでいるのに、これらの不信心達は
皆の足をひっぱているのだ。
心に覚えのある人間は、改心を願う。