平成31年聖天教年頭の言葉 

 

およそ大聖歓喜天と申せば

数多の曼荼羅の神仏の中で

最も強力な効験を表す神として

知られているが

では

どのように違うのか、何をもって特質とするのかを

答えられる者は居るまい、

まして

実地の修行に於いて体感し

その何たるかを知り、

歓喜天の真理を語り伝えられる人間は

全くもって存在しないと言っていいだろう。

 

そのような混迷たる聖天信仰のさ中に於いて

我、思う処これ在り、

本日、この聖天教年頭の言葉に於いて

私がその境地のなんたるかをば

信徒に語ろうと思う次第である。

 

但し

いつもながら、我が語る内容は

大円鏡智を妙観察智

第六を第九

観音部を金剛部

と肝心は知られぬようにしているが

心で読み解けばきっと解かる。

これもそれも歓喜天秘法を

守る為であるということお許し願いたい。

 

歓喜天を語るとすれば

まず、

信徒の皆にもよく聞かれる事なのだが

「教主様、私の願いは不倫です。このような間違った願いでも

私は宜しいでしょうか?」

「私の願いは、人を呪う事です。この願いでいいんでしょうか?」

「私の願いは、他を引きづり落とし、自己が利益を得る事です

この願いでいいのでしょうか?」

 

普通の行者なら

こう答えるはずである。

「聖天とは、どんな願いでも叶えるご誓願があるので

大丈夫なのですよ。

そうやって叶えてあげる事で

成就のあと

いかに自分の願いが空しかったのかを

悟らせてくださるのが目的なのですから」

そしてその先の「それは何故ですか?」

と言う質問には

絶対に答えられないのだ。

答えるとすれば

十一面様に神話で約束をしているからとか

足を踏まれているのだとか

うんぬんと

申されるはずだ

(この十一面様の事も後で申そう)

 

然るに

我が受持せりその最奥と

私が日々欠かすこと無く

何年という歳月の中、秘法を修養せる事によって

感得せり秘儀に於ける

真実義を

我が信徒だけに語るとするならば

それは

 

『欲の中に美しさを見いだす』

 

という言葉に尽きるであろう。

実に端的明快な言葉ではあるが

実はこれには海程の深い意味がある。

そしてその深い意味を

心から得心せねば

以下申す事は

信徒にとって強烈な毒になるかもしれない

危険を孕んでいるので

どうか、私が前にも教化したように

自分の心の一番綺麗な部分に聖天は居わします

事を忘れず、その心を持って

聞いて欲しいのである。

そうすれば必ず真実を得、毒を制する事が出来るはずだ。

 

以下語る事は私にしか語る事が出来きない真実義である。

 

それは私が数々の秘儀を通じ、実際に奇跡にて人を救済し

本物の歓喜天と唯一の邂逅と、神通、交信によって

数えきれない霊視による救済を成し遂げてきたという

修練の道を辿った者だからである。

 

重ねて云う。

以下申す事は

絶対に悪用してはいけない、聖天教信徒は

普通の人間は入会させていない。

私がきちんと千宰と伴に

選び、許した人間の集まりである。

それ故の

以下申す処の深い意味を

己の中の美しい仏心に照らし磨瑩し

一幅の名画と成し

それぞれの心に飾り纏うのだ。

 

絶対にこれは人が交わる性交の話では無い

これは神々の美しい真理の性交である。

 

本題に入ろう

皆が欲を欲する時、

どうであろう?

いつもは何事も面倒でたまらない事柄でも

「あの服が欲しい。ダイヤが欲しい。

あの家が欲しい。

あの男性が欲しい。あの女性が欲しい」

こう欲を発すれば、

今まで面倒に思えていた事でも

まるで人が変わったかのように

目的に向かい、人間力を燃やすはずだ。

 

しかしその欲とはなんであろう。

沢山のきらびやかな装飾品も

お金も家も

なんの為に欲しいのか?

 

ただ生きる為ならそこまで余計な欲は

いらんだろう。

 

ではなんの為に?

 

何をそこまで自己を顕示するのか?

 

欲を得て人の羨望を浴び

何を満足させようとしているのか?

 

もっと掘り下げれば

何を引き付けようとしているのか?

 

このように欲望を深く深く

掘り下げていけば

 

その欲の欲するところが行きつく処、

それは

男性は女性を

女性は男性を

そして子供は母と父を

老人は己の産んだ家族と(愛する異性もありましょう、恋愛に年齢は無いのだ)

等等

我らが生き物としてこの世に降り立った

原点たる愛を欲するという欲求がそこにはあるという真実に

行き着くのではあるまいか。

 

要するに聖天秘法とは

欲の中にある真実の愛を気付かせ

その愛を獲得し成就させてやる事を

聖天様の

いや聖天様のみならず

我々一切生命の悲願であり大事と説いているのだ。

 

そして我々が

如何にしてこの気付きと成就の喜びの世界へと

聖天法によって

導かれて行くかを

語る事が

冒頭でも語った本日の年頭の言葉の主題を円満

する事なのだ。

 

以下まず曼荼羅の世界から入ろう。

 

曼荼羅の世界

それは

神仏一人で存在は出来ない。

絶対的

他が同時に存在するからこそ

それは

宇宙永遠の法則と伴に成り立つ。

そういった中から私達は産まれ、そして死に輪廻し

また新たな生命がこの膨大な空間の宇宙に

産み落とされていくという世界に

神々と私達は生きているのだ。

 

私が常々、聖天教曼荼羅の奥義で説く。

我は夢の中に存在する我に等しいという世界観

をもって更に論ずるなら

この宇宙には、いやこの地球には

沢山の我という意識があり

それは皆我と等価である事を知らずに存在している

また

そう存在するからこそ、愛と永遠が存在する。

なぜなら、この絶対的な等価という意識の存在の

羅列が

それに対立しながら

絶対的自己という意識の羅列の存在という

信徒様方個々に例えるなら

一つの生命の存在の中に

実は他人は自分という真実と

実はどこまでも自分は自分という真実という

相容れない

二つの真実が共存しているという矛盾がある

と言ったら解かりやすいと思うが

そういった矛盾が

宇宙に広がった世界だからこそ

この世が存在し

その中で

人を好きになり、また子供を産み、家族を愛し

社会が産まれていくのだ。

(なぜなら、全てが一つだという真実だけなら

世界はお互いを吸収し消滅するし、

全てが相いれない自己の意識ばからりだと

世界は結び付かず今度は崩壊する)

 

その意識の中心たる存在が

聖天様なのである。

 

星を見上げてみて欲しい。

あの燦燦と光る星々は過去から来た光である

それも何万光年も過去からやってきた過去の光である。

そして私達が見上げたように

他の星の生命が我々の地球を見上げた時

その生命達にとって、我々は

何万光年もはなれた過去なのだ。

もし

我々が沢山の悩みを解決したいとしたならば

因果、

要するに

原因と結果、

過去と未来を処置しなければならない。

 

もし私が神だとして

この地球にある生命の悩みを解決するには

見上げた星の輝き

要するに過去の輝きを

現在に収束しなければならない。

 

しかしどうであろう。我々の諸事の悩みを解こうと

過去の星々の光まで収束したならば

我々を過去とみなし

星々と仰ぐ天体達はどうであろう。

その影響をもって新たな変異がもららされ

星々が消滅する程の新たな悩みをこの星間にもたらすはずなのだ

そしてその悩みは

必ずや我々にも影響する

それは

私達は広大であるが同じ空間、世界を共有しているからだ

私達は夢の如し、同じ意識であり

この宇宙は夢を人の脳が創るように、意識が作り出した

広大な物語の如くなのだ。

 

この問題を解決するには

意識の解決を

広大なこの夢のような意識の構築によって創られた

その宇宙の原点に

収束、集約していかなければいけない。

要するに天空に広がる無限の星々の因果を一つにするのだ。

その中心が聖天様なのだ。

この作用が行われた時、全ての過去未来が解決される。

 

そうなのだ輪廻とはこの全ての解決へ

向う時の流れ、

意識の変化であり、

子とは、我々であり意識の輪廻の結晶なのだ、

そして、聖天法とは要するに

広大な輪廻を司る根本たる大法なのだ。

 

上記で申した世界は

その為、常に風が吹き、火が起こり、水が起こり、容を成し

草花が生まれ

生命を潤し、そしてそれを飲み込んで行く、

これを皆それぞれの夢の世界と映し合わせて

考えてみなさい。

 

あなたの中で行われている現象が

宇宙の風と人と水と容を創っているのだ

それはあなたの意志とこれらは等価なのだ

 

そしてその等価の在り方が

生命を作っているのだ

要するにあなたの内面の愛が

そして、上記で申した、絶対的等価として他という

意識の羅列と絶対的自己という意識の羅列の

内面の触れ合いが

我々の内面の意識の外部への反映「夢の如く」

として反映されるのが

風であり火であり、またもっていうなら

四季であり、歴史なのだ。

だからして

皆が掃除をしないでだまっていれば

部屋がホコリだらけになるように

ただの小さな草のよな存在が気が付けば大木になっているように

大なる事象でも小なる事象でも

 

それは、内面たる意識の触れ合いが成しているのだ。

これらは必ず生命を産み、私達を潤す。

 

要するにすべての事象は愛なのである。

 

そうである

欲望とは愛なのである。

全ては愛なのである。

 

しかしこの私達の生きる世界の欲。

六道という罪の意識、寂しき意識、本当の愛の共感を

知らない世界に生きる私達の目に見える世界の欲は

これにあらゆる

誤魔化しの着物を纏うのだ。

 

美しい着物が欲しい。

ダイヤ、車、

 

全て本当は愛が欲しいのにである。

 

主題に入る。

 

皆は人前で性交をしたりすると恥ずかしいと感じたりもするだろう。

またそういったお仕事に従事する方も信徒様にも多数おられるが

そういった方々も

愛していない人間と性交すると

空しくなったり、

例え男性であっても、これではいけないと感じたりする

なぜならそれは上記の曼荼羅の愛の世界は

風が吹き四季があり歴史が積み重ねられているのは

絶対的神の意識に輪廻する愛の作用が

この広大の宇宙には流れているからだ。

 

そして真実の愛を見つけた時

恥ずかしいと感じたり、空しいと感じたり

罪悪感を感じたりはしないはずだ。

 

 

皆、どんな人間も

また愛し合いたいと心の底からおもうはずだ。

 

そこで冒頭

私が信徒の皆に厳しく注意した。

 

絶対にこれは人が交わる性交の話では無い

これは神々の美しい真理の性交である。

 

といった言葉の真義が必要になってくるのだ。

 

人は異性と交わる時

いや、全ての生命は、子孫、愛を残そうと

愛を肉体で交えた時

どのような

感触を得るだろう。

それは

人間の肉体が得る愛による究極の感触の境地

外国語で言えば

それはオーガズムであり。

聖天の言葉では歓喜なのだ。

 

そうなのだ

人間は、いやどんな生命も

欲と呼ばれる、あらゆる形の中に

これを欲せんとする真実が隠れているのだ

動物や虫に至っては

誰にも教育をされずとも

おのずと性交の仕方を知って生れ落ち

生命を輪廻させて行く

これは非常に強い力なのだ。

 

しかもこれは本当の姿は実に美しい

先程申したように、

本当に愛した人間との

情交で得られる歓喜は

神を語るに等しき

美しさがあり、

その歓喜を言葉では絶対に表現など出来ない。

 

私達六道で生きる罪人は

誤魔化しを愛という欲に纏いながら

実は

このような美しき

真実の愛

愛だけではない

真実のオーガズム、神の歓喜を

隠し、そして求め

願い、生きているのだ。

 

また知らないから人間であり、罪人なのだ。

 

また実はこれを欲しているからこそ

だからこそ欲をはっするとき

もの凄い生命力を人は発揮するのだ。

 

そしてその本当の美しい愛と極致を

知っているのが

上記の曼荼羅の中心の話でもしたが

絶対的神である

聖天様だけなのである。

 

ここに於いて

私は先程、この六道では

愛という欲に

誤魔化しの欲を纏うと申したが

では、はじめからあの人が好きだという

誤魔化しを纏わない

愛の心願についてはどうなのか?

もうそれだけで真実の愛の願いではないか?

もうこの時点で

不倫、略奪愛等の願いについてはどうなのか?

と矛盾を感じると思うが

 

この矛盾を解決した時

全てでは無いが

私の厳しく申した、

 

絶対にこれは人が交わる性交の話では無い

これは神々の美しい真理の性交である。

 

といった言葉の真義の本当の姿が見えてくる。

 

説明しよう。

 

皆、

上記の真実の愛のオーガズム、歓喜の感触が

この世にある、すべての存在への救済に感じられたらどうであろう?

先日子供が虐待死して話題になったが

もしそれを救わんとする意識に

いやそこまで行かずとも、朝近所の人間に挨拶をして

相手に気持ちいい心を持って貰おう

など身近にある簡単な行為に対しても

それがあったらどうであろう。

そしてそれから類推して見て欲しい。

そのような細かな善行でさえ

愛の歓喜を感じるならば

その愛を求め

生み出す究極の愛の姿である

情交に於いてのオーガズムと歓喜に至っては

どのようになるものなのであろう。

まさにそこには

聖天様しかしらない善行たる

偉大なる

絶大な歓喜が存在しているのだ。

加えていうならば

そのような諸事に於いても

絶大な歓喜オーガズムを持つ

聖天様が

信徒である皆を見た時

それはどんな気持ちで

見ておられるか考えて欲しい。

それは

私達人間では考えられないくらいの

愛する目で私達を見て

そして救おうとしているのだ

まるで

心願の男性や女性を望む気持ちを

更に増幅させた気持ちでである。

(これでなぜ聖天様の衆生を救わんとする

気持ちが他の神を超過するのかが

解かったはずだ)

 

続けよう、

先程も申した。

私達は生活し、いや、息をし

生命として、いまここに存在しているだけで

愛に包まれていると

風、火、等等もうしたはずだが

 

私が何故、秘法に於いて奇跡を有するか

この歓喜の真実を御本尊様と追及しながら

修法に於いて身につけたる意識の在り方が

絶対的にそれは他の者達と違うからなのだ。

 

何故なら

生命が存在しうる意識において

意識(風)火(熱)水(方便、愛)容、作用(容、作用)

魂(これはこの一点に集約する)

を五つの根本たる意識として

漠然たる意識をもって平等の性智うんぬんと続き

大9の意識がある中で

 

上記で説いた曼荼羅の思想に於いて

神も人も一人では存在せず。

圧倒的多数の存在があるからこそ

永遠なる輪廻の世界があるのだと申したが

その世界にこの意識を

深く浸透させ、感応させる事により

絶対的他がある故に

この九つの意識に

厳密に云えば

四つの意識(うん)に

究竟を加え

生命を私は生じさせるのだ

 

言いやすくすれば

意識とは

自分の中で昇華してしまうもの

要するに

漠然なる意志(無意識)これは風であり

有意識(心)

愛(方便)

行動、作用、容

これには一つの体という枠の中に収まるので

普通の行者は

意識として自己をここで完結してしまう。

しかし私は

この括りを一つ塊として他に四つの意識を内面で作り出すのだ

それはあたかも

漠然と意識を

作用をもった一つの生命として

この世に立脚し

次には息を吐き、他に風を起こし

内面に人を愛する行為の究極をこの時点の意識に於いて成し

オーガズムと歓喜を為す、

他面に於いては

植物などあらゆる物質の伸張を為し

次の意識に於いて息を吸う、これは他面に於いて

あらゆる物質を原点に返す

要するに

解かりやすく言えば、愛する人間の過去をも

分かち合いたいという境地、

真実の抱きしめるという境地

草花が前の境地では咲き誇りながら

次の境地では土に戻り、また生命の口にはいり

肥料となり、次の生命に帰していくという意識である。

そして次の意識に於いて

その真実の愛の意識、肥料の意識、愛ての過去迄も

抱きしめる意識が

まるで光り輝く生命になる意識こそ

私の秘法の意識なのだ。

 

どうであろう要するにこの私が説く処の意識は

信徒の皆が

息を吐き、吸う行為までもを

凌駕し、新しき生命を意識の中で産むのだ。

 

この説明を聞いて既にわかることと言えば

この意識の触れ合いを元に

聖天様の説く

いや、今まで私が上記の中で説いてきた

真実の欲、愛の景色に当てはめてみればどうであろう。

 

人が聖天様に導かれ、愛した人を抱きしめた時、いや

愛した時、いや見つめ呼吸した時から

新たな生命が産まれているのである。

 

漠然と立脚し(もちろんこれも素晴らしい歓喜だ)

息を吐き歓喜オーガズムを交換し合い

息を吸い真実の愛を感じ合う(この時の歓喜は計り知れない)

そして生命を産む(これも計り知れない美しい歓喜だ)

 

要するに、常に聖天様の神の愛の功徳にけん引され

真実の愛と歓喜オーガズムを知るということは

それを知るものは

ただそこに存在し

呼吸するだけで

男女の愛だけではない

全ての存在を愛するという思想を内在しながら

また他面に於いて実践し

そのすべてに

究極のオーガズムと歓喜を獲得していくという事なのだ。

 

要するにこれは

すべての生命に対す愛である。

そしてその中心は聖天様の

男天と女天の愛の姿とお二人が産み、そして思う

全ての生命に対する愛と歓喜オーガズムであり、

その教えにより獲得した

真実の愛、

即ち、信徒それぞれの男女の愛と

それを中心にした、

一切生命に対する愛なのだ。

 

だからして

先程の残された矛盾は

この導きに於いて

真実の愛と変容し、それを成就し悟る事によって

この宇宙一切の成就に繋がっていくのである。

 

だからこそ私は

あなた方の不倫や略奪愛を

これに於いて

全く否定はしないのであるし、

人を愛し、結婚したいという一見真っ白く見える

心願に於いても

妥協はしないのである。

 

更に教化を続けよう

 

だからして

行者も信徒も

単純にオーガズムを求め感じる事を

聖天秘法と思うとそれは駄目だ。

 

そういった浅はかな考えでは

必ず

罰が下るし、上記に記した、精神、悟り、教えを知らずして

聖天法を修すれば

例え肩書がどんなに偉い行者でも

災いに見舞われる

それに願う者も大変な災いがもたらされる、

何故かというと

そこには悟りを得ていない

聖天の恰好をした

悪魔ビナヤカ、もしくはビナヤカの恰好をした

人を呪って死んでいった

怨霊が固まって神の姿をした魔物になって

現れ、人の魂を食らおうとするからなのだ。

こういったものに祈願すれば

必ず成就はしない。

例え私が祈願し直しても難しいのだ。

 

このように

歓喜オーガズムとは自分の愛する者を中心に

多種多様の生命に対する

歓喜オーガズムが存在し

その本当の真実を知るのは聖天様だけなのだ

なぜなら

天体の過去未来の話でも申したように。

聖天様は全て因縁、因果の基であり

この世の意識の基にあるからなのだ

それを知らねば、その魂は永遠にこの六道を輪廻し続ける

さ迷える、上記でもうした怨霊のように

間違った愛と妄執と性にとらわれ、憎み合い、殺し合う世界に

永遠に生きる事になるのだ。

 

マリア様がキリストを抱いているのも

あれはこの世に数限り無い愛の容の一つを美しく

形容し、人々に本当の神に愛を教え導いているのだ。

 

人間の浅智慧の歓喜とオーガズムは危険なのだ

だから聖天様が姿を隠すのは

そのような意味もあるのだ。

 

それは間違えば、圧倒的な堕落を来す。

 

それ故

十一面様がいるのだ。

 

聖天信仰に於いて十一面様の仏像の本当の意味を知っているか?

 

それは聖天様が曼荼羅の主神

大日如来の化身としてその中心に坐した時

胎蔵界の十一面様が

聖天様の御眷属に変化し

我々、聖天様を願う一切の生命それぞれの

真実に愛する

異性になって

秘法中

祈願者と情交を交え、歓喜オーガズムを

祈願するものにもたらしてくれる為にあるのだ。

そうであろう。

聖天様は

油を掛けながら、一切の生命を上記に私が記した

意識の掛け合いの中で導き、産み、輪廻させ、本当の

愛を成就させて行く

祈願する我々は、それにより本当の愛の成り立ちをしり

聖天様と

一切の生命を祈るという

本当の究極の思想と歓喜オーガズムを知り

伴に祈る境地に至らなければいけない。

その時、自分一人では無理なのだ

そこには

十一面様の心を持った

(これがビナヤカだととんでもない事になる

あくまでも十一面様の心がなければならない)

悟りをもった聖天様の眷属が

皆の愛する人に変化し

その行法、祈りを支えるのだ。

そしてやがて

その者は歓喜し成就して行くのだ。

 

この秘密を行者が知らなければ

絶対にいけないのだ。

 

故にこの私の秘法は

聖天様の真実の奇跡を見せるのだ

 

私が恋愛の祈祷で

何故

日本で唯一特殊なる成就を見せるのか

それは

そのすべてを

以上申した

聖天法の全てを

誰より、感得している者だからなのだ。

 

但し

行者は人間の世界の歓喜に

意識を絶対に置いてはならない。

 

行者は

神との教えと

光ある情交を交わし

その世界に神との子を成し

その秘法の数だけの子と伴に

この世をこの六道を

例え神々でさえ

真実の愛と歓喜オーガズムの元

輪廻の救済という

大愛の実現と成していかなければいけないのだ。

 

それ故

聖天行者は

なるべく精を現実世界で

解き放ってはいけないのだ

解き放つ時は

聖天秘法に於いて

瞑想異次元たる世界の中のみで

神の世界に於ける

光ある、意識の中でのみ歓喜を得ながら

信徒を導く意識の歓喜、救済の歓喜を

そのオーガズムの究極なるものと

して放たなければいけないのだ。

(要するに瞑想の中のみそれは許され

実際の行為はなるべく避けなければいけない)

 

故に聖天行者は妻帯(結婚)を決してしてはいけない。

聖天行者というものは

十一面様の心をもった

歓喜天の眷属と

生きながら、神仏の世界で

夫婦になるのだから

これは絶対に許されない。

これが聖天秘法を修する者の

聖天法に向かう姿勢であり、掟であり、

厳しい定めなのだ。

もし

これに背いた者が

聖天秘法を修したなら

たちまちにその災いは

行者のみならず

祈願者にも及び

やがて、それは寺社一門にも及ぶ

例え過去に

大変高名な高僧が

開眼した聖天様でも

高名なら高名な程

その災いは深く降り注ぎ

やがてそれは途方もない

不幸の山を築くのだ。

歓喜天を奉ずる者にとって

これは避けては通れない

恐ろしくも厳しい

そして寂しい決まりなのである。

しかし、行者は

その定めの中に

常に人心救済の心に華を咲かせ

現世に生きず

神仏の世界に常に身を置き

そこに現実に我が身を転生立脚させ

日々の歩みに

歓喜の花をさかせるという悟りを得られれば

必ず、この定めを

乗り越えられるはずである。

くれぐれも

一般の祈願者と同じ

欲や願いをもってはいけないのだ。

その悟りをもって

自身もまた

この世に降り立った歓喜天にならなければいけない。

 

 

であるから故に

真言立川流やそれに似た考えは

(現実世界でのSEXや情交を行ったり

ふけったりする行者)

外道なのである。

それと同じような

考えの行者もまた

外道なのである。

信徒はくれぐれも気を付けて欲しい。

 

三月、いよいよ春の大祭がある。

十一面様に並び

歓喜童子様とは

聖天法の大金剛輪陀羅尼を表しているといっていい

光明真言のようなものだ。

長くなったので

解かりやすく言おう。

 

私達はどんな真言を唱えても

どんな言葉を話しても

上記で私が語った

風の流れ一つとっても愛であり

そして実は一つである。

その離れているように見えて

実は一つであり

流れゆく精神は同じ風や火や雨の

如くな愛である。

これは洗浴供養の精神

究極の聖天法の精神に起因するのだが

聖天様の曼荼羅の世界を

二体では無く

ただ一体で表した神

それが歓喜童子様なのだ

 

更に言えば

冒頭で言った曼荼羅の世界からすれば

この世界はあらゆる生命が

存在しなりたっているが

実は一つだという矛盾の中で成り立っている

これは実は皆は他でありながら

感じる感性は実は同じという道理でもあって

要するに

宇宙の歓喜オーガズムの本来の姿は

一つの共感のもとにあり

その一つの共感した歓喜の姿を現している

神なのだ。

 

歓喜童子とは即ち

聖天のみならず全宇宙の

歓喜要するに

成就を表しているのだ。

 

歓喜オーガズムの本来の姿

真実の姿とは

成就の姿とは

童子様のように

童の如く清く美しいのものなのだ。

 

そして

我々はこの大祭に於いて

この美しい成就そのものの神を

供養し、祈るのだ。

己の美しい成就を祈るのだ。

 

だからこそ

愛の欲望に纏われた者は

中々見えづらいだろうが

この神は私達が捉えにくい

先程申した歓喜オーガズムを間違って

認識する外道をも

救わんとする事も出来る、

その存在で、聖天の何たるかを

表している強力な神様なのだ。

何故なら、童子様が成就そのものなのだからである。

 

だから私の歓喜童子をお持ちの信徒は

皆夢をみるのだ。

歓喜の夢をである。

まさに聖天様を超えた存在といっていい

聖天秘法の中核を為す神様なのだ

だから私は歓喜童子様を

物凄く厚く毎夜報じている。

だから皆成就していくのだ。

 

その大祭が始まる。

とても楽しみである。

 

最後に旧暦になってあまり実感が私も無いのだが

遅れながら新年の挨拶で締め括らせて欲しい。

 

信徒の皆さん明けましたおめでとう。

私は今年も身命を注ぎ

皆の為に祈りますよ。

 

 

合掌 聖天教教主兆象大宰

 

 

追伸

 

今まで、私は聖天秘法に於ける情交の秘事を

隠匿してきた。

では今日何故いきなり皆に言ったかというと

私の予言はすべてというか

大体的中する

それがもとで

あまりの忙しさが祟り

振り返ると、教化をまったく書いておらず

怠りの極致だったという事に気付き

さすがに信徒に

悪い気持ちでいっぱいになった。

それでどうすればよいか考え、

この秘事を教える事にしたのだ。

これは

殆どの行者が知らないことだと思う。

今日書いた事は

この歓喜オーガズムの感覚故に

宗教学の最たる秘法と

歓喜天が説かれる由縁で

私は唯一それを

行法に於いて

すべてを体現、実践している者だからこそ

多様な不思議が歓喜天から表出するし

だからこそ

恐ろしいほど教えも守り実践している。

 

だから今日書いた事は

皆にこれからの信仰に役立てて欲しいし

またこれだけの秘密を秘めながら

日夜信徒の為に私は頑張っているから

どうか自信をもって欲しいという心から

書いた。

 

私の礼拝作法が遅れているのも

この秘事を引用するか否かで

自分の中で葛藤しているからだ

 

今日書いた事で

成就する人と

堕落し滅していく人間と二つに別れるかもしれない。

 

でも私は前者に賭けよう。

私が人生そのものを

偉大なる御本尊

愛染聖天様に賭けたように。

 

またこれを読み引用しようとする

教団以外の玄人の方も

くれぐれも外道に落ちてはいけない。

歓喜天とは難しい。

祈祷していて、厄災が自分のみならず

祈願者にも降りかかるようなら

即座に聖天様を拝むのは止めなさい。

それは外道に落ちている証拠であります。

あなたには向いていないのだ。

なかなか私のようには愛される人間はいない。

まさに聖天は人を選ぶのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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