令和参年春の大祭等行事の御案内

 

❖バレンタインデ-、ホワイトデーの御祈祷❖

■期間

2月10日~2月14日バレンタインデ-

3月7日~3月14日ホワイトデー

■受付

両行事当日まで

■法目

一律三万円~以上お心の次第により。

(二十万以上お布施をなさる方は期間中だけ特別秘密供を施させて頂きます)

■趣旨

2月14日、3月14日は

世間一般では男女の思いを告白し、また確認し

愛を深め合う大事な行事になっている昨今、

聖天教では、これら通例になっている行事に際し

「意中の方との良き交わりを得たい、心を確かめ愛を得たい、

そして成就を得たい」等の

沢山の信徒様からの懇願要望の中、それに善く応えるべき祈祷を

修しております。

毎年恒例の聖天教の信徒様の個人的な秘密祈祷であります。

※)特別秘密供とは油を別に煮上げ、香木など尊天の趣向にあつらえた特別なものを造上し、お体を拭く懐紙には兆象自ら祈願者の名前を願とともに書き入れ祈祷焚き込んだ物を使い、個別に更に謹んで尊天に哀願するというもので非常に功徳の高い秘術であります。

 

 

 

❖東北大震災鎮魂慰霊祈祷❖

※東北大震災鎮魂慰霊祈祷は

今年をもって終了します。

■期間

3月9日から3月11日の三日間

■受付 無し お祈りだけ捧げて下さい。

■法目 無し お祈りだけ捧げて下さい。

■趣旨

2011年(平成23年)に東北で起きた大震災に際し

被災により

亡くなられた方々並びに一切衆生及びその息づく万有の地への祈りと

それによって生じ未だに苦悩せられ解決を見ない様々な苦悩を

聖天様への祈りによって導かんとする行事であります。

                            

 

 

❖歓喜童子大祭(春の大祭)❖

■期間 

開白 新月三月十三日(旧暦二月一日)から

結願 新暦三月二十九日(旧暦二月十七日)迄の十八日間

■受付 新暦二月一日~新暦三月五日迄

■法目 下品八万円 中品十一万円 五拾五万円(上品には秘密供養有り)

※)功徳大変好まれます大祭期間中の

各種 秘法 仏像 御守り

等については

ご相談の上、厳選を以ってその旨お返事させて頂く形になりますので、

どうかご理解下さい。

※)歓喜童子仏像は在家で安置できる聖天様の権化仏の中では

これ以上は無い最上の御仏像であります。

まさに聖天様そのものです。

よって絶対に御給仕できる自信の有る方のみとさせて頂きます。

加えて何よりこの御仏像ご依頼については特に強く精査させて頂き

開眼造像させて頂きます事

どうかご理解下さい。

※)歓喜童子様をご自宅にお祀りなさって

居られる方は、歓喜童子様のお祭りですので

必ずご参加なさいますようにして下さい。

 

■趣旨

歓喜童子様とは

江戸時代の高僧木食以空上人様が

歓喜天のお姿が

余りにも仏教的な常識を超えたお姿。

つまり、象頭人身であるばかりか

色欲を禁じます教えに反するように

男女交歓するそのお姿である事に加え

また何にも増して

そのような御二人柱のご様子を

行者以外の人間が覗いたならば

大いなる罰が与えられる事から

それでは歓喜天に帰依する人間は

余りにも不憫では無いかと

同情され

どうにか一般の人々にも披露できる

智慧が無いものかと

大阪は箕面のお滝場で願を掛けました

処、見事にその感応に応えられた

歓喜天様が現れ

一般の人々でもお姿を見て祈る事が

できる尊像を

有難くも上人様に提示されたのでした。

それこそが聖天信仰独自の権化神

歓喜童子様なのです。

そのお姿は美しい吉祥天の童子形で

頭に二双象頭をあしらった天冠を

備え、一面四臂の

その御手には歓喜団と大根

宝棒と索が握られており

歓喜団と大根は

余りある宝と増力。

索は

望んだ愛縁願う異性を

引き寄せるばかりか

信仰せぬ者を

鉤召改修させ。

宝の棒は

怨敵を打ち破り

その心魂の清浄を実現

するものです。

つまり歓喜童子様とは

その大いなる大神力から

見れば歓喜天そのもの。

お姿からすると

歓喜天のお子様。

またその御手にある持仏が表す

功徳から見れば

歓喜天の理想の果実そのものなのです。

 

そして

そのように功徳著しい稀有なる神仏。

世に数多ある歓喜童子様の中でも

傑出したお力を世に示し続けられる

最も優れた歓喜童子様こそ

八百万大小聖天の帝にして

全ての神々の主。

愛染聖天様の功徳果実の

権化神にして網羅神。

愛染歓喜童子様なのです。

そして

その愛染歓喜童子様の御祭りこそ

愛染歓喜童子大祭。

通称春の大祭なのです。

 

私達聖天教では

この素晴らしい世に稀有なる権化神で

あられます愛染歓喜童子様を

一年に一度

教団を挙げてお祀りする事で

その歓喜鳴動による大功徳を実現し

調伏を望む者には

宝棒による怨敵滅却。

増益を望む者には

歓喜団より余りある

富を与え。

敬愛。

つまり恋愛成就を願う者には

索により

心願異性の魂の

襟元に

逃げられぬよう

その刃を突き立て

強引に

祈願者の元に引き寄せ

成就に及ばせます。

 

また心体の悩みには

大根の計り知れない功徳を

もって

あらゆる病難を清浄し

力を与えます。

 

何故教主様の開眼される

愛染歓喜童子様が

信徒様の間で

不思議な現象を様々起こすのか

この功徳の在り方からも

想像に難く無いのであって

教主様の歓喜童子様への供養秘法も

このようなご功徳を強く

意識発揚され祈願されるもので

すから

このような歓喜童子様がご自宅に

あればそれは自然と

何かが起きるのです。

 

信徒の皆様。私達聖天教で行われる

大祭とは一体何でしょうか?

 

それは教主様からのお言葉を

お借りすれば

沢山の教えがあるでしょうが

この聖天教三宝である

私が悟り得る

大祭という存在意義の見解の

一片を信徒の皆様におの場を借りて

教化するとすれば

 

それは私達の心にしっかりと神の姿を

据え置く。

その事で

しっかりと神の果実を

止めど置く。

その為の欠かせぬ心の大作業。

大行事なのでは無いでしょうか。

 

私達が生活する現実の空間。

そこで私達は

沢山の人間と行き交うばかりか

共に関わり合い生活しています。

しかしその中の誰をとっても

本当に真実

阿吽のような繋がりが

皆さんの心とありますでしょうか?

 

いえ、例えあったとしても

必ずすれ違いを感じずにはいられない

時が

どんな関係にもあるはずです。

では礼拝作法の時に感じる。

御本尊様や教主様。

そして聖天教三宝並びに聖天教の神々

とではどうでしょうか?

 

皆さんはきっと

実際に会った事の無い

聖天教の神々に対しては

実際に嫌という程

関わり続けている

現実に在る人間達よりも

深い交わりを感じるのだと

思うのです。

 

何故なら

礼拝作法で懸命に祈る

その心の在り方を

考えて下さい。

その時の皆さんの心は

純真そのものであり

その祈りの心の

先にある聖天教の神々は

決して

皆さんの願いを拒まず

懸命に聞いてくれようと

皆さんの心に

立たれているはずです。

 

つまり

そのような純真無垢な

やり取りと関係が

そこには成り立っている

はずなのです。

 

それは

実際の人間関係で繰り広げられる

交流、概念を簡単に超えて

心に於いて

現実以上の現実の交わり。

真実の交わりを

実現させているのです。

 

だから

礼拝中、もしくは終わった後

孤独では無い安心感に包まれるのです。

何故なら

礼拝作法中、確かに     

皆さんの心と神の心は重なって

いるからなのです。

 

そしてこのような

礼拝作法で行われた

心の中心に神をしっかりと

据え置き

心を通わすという作業。

つまり

信じる作業。

殉じる作業。

純真に願う作業。

つまりそれは

神に愛して頂く作業であり、

心に安心と、現実に功徳を頂く作業

なのですが

 

しかし人は

これをどうしても

礼拝作法以外の日常の心に

常態化する事が

中々出来ません。

 

日常の目に見えるものに

強く影響され

歩まれるその心は

目に見える存在に心を惑わされる

ばかりに

見えなくても尊く満足を

下さる存在である神を

心から度々忘れさせます。

 

トラブルや悩みを抱えた時等は

尚更です。

目前の出来事ばかりを考慮にいれ

それにより同様するばかりの

心には

目に見える人間関係や事象ばかりを

大事にし、目に見えぬ有難い存在に

よる神の功徳の存在を

二の次にしがちなのです。

そのような時こそ

信じなければいけなく

また神より信仰を試されているかもしれない

のにです。

 

でもそのような時こそ逆に

神をぞんざいにせずに、

神を心にしっかりと置き

その心からしみじみと浮き出てくる

『あーこれが愛染聖天様のきっと

お心だわ』という悟りに耳を傾けてみたら

どうでしょう。

その時はじめて

人は心に

正しい方向を思い付き。

心の安定を得て。

決して目の前の問題が未だ解決して

いなくても

やがて解決する為の

未来の心と問題に対する智慧の糸口を

得る事が出来るはずです。

 

そしてそのように

常にどのような事があろうとも

心に神を据え置ける方法。

それはやはり強い信仰しかありません。

 

時折沢山の事象に心を惑わされ

神を心から薄めてしまう事から

始る不幸。

 

それからの脱却の果て。

 

そこには

計り知れない未曽有の

愛染聖天様の心願成就の

果実の宝袋が

心の真ん中に据えられていると言って

良いのです。

 

私はそれを可能に出来る

とても強力な方法の一つが大祭だと

思っています。

 

何故なら大祭とは

私達が礼拝作法以外で、いえ礼拝作法に於いても

心で見失い、その為に陥る私達の不幸と悪運を

信仰者一人では無く

全て一丸となって心に祈り据え置く作業だからです。

 

その事によって

成就の功徳果実を心に植える置く事が出来る。

 

これは

私達の心の中に神は存在する

という教主様の先日の年頭の言葉にも

通じる事ですね。

 

そして歓喜童子様とは

愛染聖天様そのものであり。

愛染聖天様のお子様でもあり。

愛染聖天様の願いであり。

つまりそのどれをとっても

愛染聖天様の愛の権化そのものであり

願いの果実そのもの。

 

その正に成就そのものである

有難くも尊い果実を

信徒それぞれの心に意識させ

現実に招来させ

大愛の果実を

愛染聖天様から頂く聖天教の大行事こそ

この聖天教春の大祭。

愛染歓喜童子大祭なのです。

 

去年の話になりますが

ある信徒様のお話です。

 

その信徒様には

約束まではしていませんでしたが

何年も交際し

結婚は当然という深い繋がり

だったはずの男性がおりました。

しかし

その信徒様は大変な焼きもち焼きで

交際していた男性を

毎日のようにあまりに疑い

そして責め立て、遂には

彼はその信徒様の前から

とても悲しい事ですが

消えてしまったのでした。

 

彼は何カ月しても戻って来ません。

 

そしてその信徒様は遂に

聖天教の門を叩き信徒になられた

のでした。

三カ月程して状況が動きました。

連絡や存在一切も解らずきりだった

彼から信徒様の所に連絡が入り

始めたのです。

 

信徒様は喜びました。

『沢山の行者様を頼りましたが

こんな事は初めて、愛染聖天様は生きています』

 

でも喜びばかりではありませんでした。

 

彼は信徒様が最も心配していた

他の女性からの略奪にあっていたのです。

 

連絡が取れた功徳と共に

信徒様はその功徳への喜びと同じ程の

怒りと憎悪を露わにし

悲しまれました。

 

そんな信徒様を教主様と私は

『略奪者ばかりを責めてはいけません。

彼も悪いから略奪はなりたったのですよ。

いま必要なのは、冷静になって

この出来事から学べる信仰、ご本尊様の

大愛を探ってみる事。それが成就の道ですよ』

と、状況が愛染聖天様の功徳により

見通せたからこそ、心に愛染聖天様を

しっかりと据え置き

今度は目に見える事象よりも

功徳を頂いたからこそ

心の在り方を大事にしなさいと指導したのです。

 

ですが中々それをその信徒様は

出来ませんでした。

それは当たり前かもしれません。

長い間信徒様達を指導する私だからこそ

そのような状況の時の信徒様達の心は

痛い程解りますから。

 

またお若い時は

そのような時は懸命に信徒様を

叱りつけ指導し成就に結び付けた

教主様も

最近ではぱったりとそのようで

無くなったせいで

それは良い面もあれば

悪い面もあり

 

聖天教三宝の私からすれば

このような時こそ

教主様にしっかりと叱って

頂き、信徒様を成就に導いて欲しい

と悪い面を感じたものでした。

 

案の定

信徒様の心の在り方の影響は

状況に現れ、

何度か彼と会う事が出来たものの

彼は略奪者との結婚を考え始めて

しまったのでした。

 

その状況までなって

初めて信徒様はこう思いを

伝えて来られました。

『私は、真剣に心を学ぶ事をして

来ませんでした。

彼と連絡をとれる奇跡を頂いてから

半年、私の心の在り方と状況が

まるで比例している事に

彼が彼女と結婚を考えている事を

聞いて初めて真剣に気付きました。

私は心の中心にしっかりと愛染聖天

様を置きたいです。だから

私に歓喜童子様を造像して下さい。

許可を下さい』

 

仏像造像の許可を私が教主様に

聞きに行ったその時の事です。

 

教主様は仰せられました。

『私の開眼する仏像は生きている。

だから不信心、お裏切りは

逆に恐ろしい不幸を頂く。

しかし○○さんの信仰は浅くとも

これまで全くの裏切りは無かった。

きっと私の開眼する歓喜童子は

○○さんの心に感応据え置かれ

見事なる奇跡をもって○○さんを

成就に導くであろう』

 

教主様の仏像開眼は一年から

一年半かかるのは当たり前です。

 

その間

信徒様の信仰は本当に変わりました。

 

それまで自分の状況ばかり

を伝え一喜一憂していた信徒様は

苦しい時でさえも

信仰とご自分の心の在り方を

本部に伝えるようになっていたのです。

 

そして去年の春の大祭。

遂に奇跡は起きたのです。

 

その日

仕事を終え帰宅した信徒様は

礼拝作法を終え

リラックスしながら

報道番組を

を見ていたのだそうですが

すると

路上でインタビューを受ける

カップルが映し出されたそうなのですが

よく見ると

それは彼と略奪者の二人だったというのです。

『私は憎悪の心のあまり、幻を見たのかも

知れない。私の心はまだまだ駄目です。

ご本尊様教主様御免なさい』

 

そう彼女が心で思ったその時です。

 

信徒様の耳元に大きな

野獣のような声が響きました。

『私も居るぞ、忘れるな』

 

その声とともに

突然テレビが消え、焼け焦げた匂いが

周囲に立ち込めたそうで

信徒様が配線を確かめると

配線が焼け焦げ、配線板がうっすら

黒くなってしまっていたそうです。

 

驚いた信徒様は

大祭前に頂いた

『歓喜童子大祭は、歓喜童子様を

持っていない信徒様にも、開眼の仏像を

持っていると同じ功徳が顕れる

特別な期間です。

だから尚更仏像の保持者は

参加すれば宜しいのだから

あなたは必ずそうしなさい』

という教主様から頂いた指導の

お言葉を思い出しながら

急いで

歓喜童子様の前に座り

『大祭おめでとうございます。

歓喜童子様も絶対に忘れていません

すみませんでした。

どうか私の心に降り立ち

私を護り導いて下さい』

 

そう神妙に願い

信徒様はその日礼拝作法も

もう一度修したその夜の二時頃の

事です。

 

よく教主様の成就の奇跡は

夜中に突然、不思議な形で現れると

言われますが

 

その日の深夜二時頃

大祭で教主様が

調度油をお掛けしている時間です。

 

突然彼が彼女の部屋に手荷物をもって

現れて

信徒様は成就したのでした。

 

そしてこれは本当に不思議な

事ですが

やはり信徒様が報道番組視聴中に

みたカップルは

彼と略奪者だったそうで

配線が焼け焦げた事件を考えると

信徒様は非常に恐ろしくなった

そうなのです。

そればかりではありません。

略奪者は彼の子供を

二人堕胎していて

子供が産めない体になって

しまっていました。

 

その事で険悪になった

二人はすれ違ったのでしょう。

 

略奪者と別れ

信徒様の元に帰って来たのでした。

 

成就の厳しい道のりにより

成長した信徒様の悟りは

素晴らしいものでした。

『私は、略奪した彼女が堕ろした

赤ちゃんの菩提と、何より彼女の

これからの幸福を祈りたいです。

その為にどうか教主様に歓喜童子様に

彫られている私の名前の横に

彼女と二人の名も無い赤ちゃんの

出来れば戒名を刻んで下さい』

 

私は教主様とその信徒様のお言葉を

読んで

その信徒様は

真実の成就を手に入れたのだと

大変喜びました。

そして

先月その信徒様は

見事入籍を果たされたのでした。

 

私達は

常にこの信徒様が頂いた功徳の

道筋のように

常に心に

神を据え置く事を忘れてはなりません。

その神を忘れず

心に神を据え置く大作業こそ

大祭であり

 

愛染聖天様の愛であり

果実である

摩訶不思議な功徳を世に示す

歓喜童子様の功徳を

仰ぎいただく行事こそ

歓喜童子大祭なのです

 

この大事な行事を

私達聖天教信徒は一丸となって

成功し信仰に篤みを増させ

その強力な

御護り教化を是非実現成功

させなければなりません。

 

去年

教主様は毎年の事ですが

数々の奇跡を私達に見せて下さいました。

それを挙げれば本当にきりがありません。

 

しかし

そのような教主様しか

この日本ばかりでなく

世界に於いても

起こし得なかった奇跡。

それを実際に私達はまるで三度の食事の

ように見せられる喜び。

 

その事を私達は

しばしば忘れがちですね。

 

忘れかけている方は急いで

過去の教主様の活躍を

再度見返すべきです。

 

9割の予言を的中させ

実際に癌を消滅させてしまう

その強大な神通力をです。

 

それを見返したなら

是非反省して下さい。

 

如何に自分の心が

常に神、教主様

そして信仰を据え置こうとする

行為に薄い事かを。

 

春の大祭。

私達の心に吹く

気まぐれな春一番の風から

私達の信仰と功徳を

しっかりと取り戻す

それこそが大切な大祭です。

 

聖天教 兆象千宰

 

 

 

 

■抱負

いよいよ歓喜童子大祭が始まろうと

している。

本日はその抱負を述べたいと思うが

縷々とした

この大祭の意義詳細は

既に充分に千宰が趣旨に於いて

教化、説いたと思うので

敢えて私はそのような説明的な

話は大胆に割愛し

別の側面。

つまりもっと大きな視野である

現在の聖天信仰、

そして私達『聖天教―愛染聖天信仰』

に於いて

この私が説く

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

を一人の西洋哲学の巨人の論を

通して語り大祭とは如何なるものかを

教化したいと思う。

 

私が聖天信仰に出会った時

もう既に

『聖天信仰』

その全ては末期的症状を迎えていた。

近代化された末世で

生きた行者達は

快楽を止めず

享楽に耽り

大寺は誇らなければならない

連綿と続いて来た

歓喜天の純真なる神の思想の

継承を説かず。

富と権力ばかりを誇り。

その功徳を語る時は

過去の大功徳を大いに

喧伝。

今を語る事は皆無であった。

 

私も人間である。

『全ての歓喜天は死んでしまった』

という風潮だけでは無く

真実、些末な功徳さえも無い現実の聖天信仰を

周りで見聞きし、

あるのは強烈な罰。

つまり、その修する行者の精神と魂の

頽廃は

かつては大変な救済力を誇った

大歓喜天をも既に

荒玉悪玉に変えていたのだ。

 

私に歓喜天の秘法を授けて下さった

方の奥様で

神仏とお話が出来た故人の

御子息に至っては

聖天行者として前途を有望視され

人間的にも最近には

まず見られない

素晴らしい行者様だったにも

関わらず

浴油祈祷中、何故か卒倒され

天に召されてしまった。

しかも故人は

他のお子様も不幸なお亡くなり

方をしていて

山の水で生活し

何一つの贅沢を捨て

13歳の時から肉魚一切を断ち

神仏と会話まで自在に出来る

そのお方が語る事と云えば

いつも

『既存の聖天信仰』により

子供を失った悲しみばかりで

あった。

 

そして他に語る事が

あるとすれば

『あなたは歓喜天と大変縁のある御方だ』

『過去世も来世も何度生まれ変わっても

いつもあなたは歓喜天と伴に居る人だよ。

そう聖天様が言っている』

そう言って語る故人は

決まって、誰も居ない空中に向って

良く聞こえるように耳に手を添え

『うん、うん、そうですか』

と言ってその歓喜天のお言葉を

私に伝えてくれるのだった。

 

私はその頃はまだ若く

内心この故人の言葉を聞く度に

『ぼけておられるのでは?』

という若年に有りがちな青くさい

どこか反論的な感情をもった事

もあったが

事実は違った。

 

私に対する歓喜天の愛は凄まじかった。

祈れば何でも叶った。

その奇跡は普通では無かったのだ。

私のような人間が会えるはずもない

大変な方々に知己を得、

それまで私が味方すると必ず負けていた

弱い勝負運も

野球からバスケット、ご近所の

運動会に至るまで

悉く心で念ずればそこに勝利が

降り注いだ。

すると

私に祈願を頼む者が自然と現れ

しまいには

とある旅館で

私の部屋の襖越しに

一日中

『聖天様。聖天様』と

拝まれる不思議を体験するに至り

後日私を導きし

唯一の奇跡を起こせし

生きた歓喜天

『愛染聖天』が御降臨されるのだが

 

しかしどのように

どの聖天信仰者、行者でさえ

体験した事の無い功徳を頂いても

私の心は

絶望していた。

 

そう私は世に神を心から

求める者に共通した

強い絶望を己の心に抱えていた

人間だったのだ。

 

私はどうしようもない

汚く、おぞましい心をもった

弱く、ちっぽけな、私こそ

死ぬべきゴミのような存在であった

のだ。

 

幾ら功徳を頂いても

癒す事の出来ぬ絶望。

 

私はその当時

現在破綻してしまっている

現在の『聖天信仰』の

二つの悪点の問題点の一方に埋もれ

正に心の底から絶叫していた

のだった。

 

二つの悪点とは

つまり現在全く破綻してしまった。

『聖天信仰』には

『全ての歓喜天は死んでしまった』と

その人々に云わせる如くに

絶対的存在である

『歓喜天』という神の存在が

完全に存在しないという絶望が

当時もそして

現在も

既存の『聖天信仰』を志す者の心を

蝕んでしまっている事実という問題。

 

そして

私のように例え大いなる神の存在を

確信出来る功徳を頂いたとしても

決して癒される事の無い

絶対的思想の不在という問題。

 

私はこの

現在既に破綻した『聖天信仰』の

二つの問題点に

かつて励んで読んだ

ニーチェの著書

『ツァラトゥストラはかく語りき』

の全くの酷似と

そして克服の両面を

見てとったのである。

 

その正に西洋哲学の傑作である

著書の中で

ニーチェは

ツァラトゥストラという山中で

悟りを得た一人の人間の口を借り

自分の思想を語り尽くす。

 

ツァラトゥストラは説く。

 

現代に生きる私達の心に在るものを

 

それは

科学的文明の進歩により

それまでの神という絶対的真理は

失われてしまった事による、

それによる

大いなる不安と絶望であった。

 

それ迄の西洋哲学には

哲学と称しながら

絶対的真理としての神の存在

が素地基本となっていました。

例えば

プラントンにしても

ソクラテスにしても

その思想は全て

神が持つ絶対的真理を

解き明かす為の論理であり

思想だった。

 

しかし

ツァラトゥストラは

その有名な言葉な言葉

『神は死んだ』という言葉と

ともに

絶対的神の存在を

死滅させ

この世にある真理も

つまりは消し去ったのだ。

それは

東西を問わず

世界のそれ迄の全ての

哲学だけでは無く

宗教思想までも否定したと

言ってよかった。

 

しかも彼は

その神という存在の殺人は

私達が人間が成したものだと

説いた。

科学の発展と伴にである。

 

どうであろう

このツァラトゥストラの説く

絶対的真理、存在である神の殺人の件と

それによる

人々を襲う、不安と絶望の現代を生きる

人間の心の悲惨な状態。

これは全く現在既に破綻した

既存の『聖天信仰』で囁かれる

『全ての歓喜天は死んでしまった』という

常態と酷似していないだろうか。

 

それに照らし合わせると

全くもってその経緯までも同じである。

 

放埓な行いで歓喜天を荒玉悪玉に

貶めたこれまでの行者は

つまりは

ツァラトゥストラの云う

神殺しであり

それにより

『全ての歓喜天は死んでしまった』

と限り無い不安と絶望に苛まれる

その信仰者達の心は

正に

ツァラトゥストラの説く

それと同じなのだ。

 

そしてツァラトゥストラは

このような状態を

 

ニヒリズムと提唱した。

 

絶対的真理を失った人間とは

どういったものか

それは神を基本として

出来上がって来た

社会への不振にもつながる。

何故なら

絶対的神という真理が裏付けて

来た、正義や善。

愛が無くなるのだから。

それにより

それまで絶対と思われていた

親兄弟への愛。

恋人との愛。

友人への友情。

勤め先への信頼。

当たり前に

生きて死ぬまでの道程

その全てが

今まで当然と思われていた

真理や価値、信頼を

失ってしまった

らどうであろう?

 

そこに在るのは

何を信じていいのか?

全てに価値を見出せないばかりでは

すまない

不安と絶望がそこに広がるのみ

なのだ。

正に自分という存在さえも

全く意義を見出せず、

苦悩に苛まれるこれは状態である。

 

彼は説く。

 

このニヒリズムに苛む人々は

この心の在り方から

是非とも脱却しなけらばならないと。

 

何故なら

このニヒリズムの心が悪化した

先にある最終的かつ

最悪な心の末路、形態である

『末人』と呼ばれる人間に

成る事を避けなければいけない

からである。

即ち

不安と絶望のあまり訪れる

全てに無関心である

希望も抱かず

ただ流されるままに生きる。

簡単にいえば機械のような

心の在り方の人間に

なってしまうからと云うのです。

 

そこでツァラトゥストラは

末人にならず

ニヒリズムから脱却する

唯一の手法であり

ニヒリズムに喘ぐ

世の人々を救う哲学史屈指の究極の

人間の到達概念を私達人類に提唱する

 

それこそがかの有名な

『超人』である。

 

超人は三つの段階を経て成り得る。

 

即ち第一に

『駱駝』という精神の修行を獲得し

『獅子』という全てに於いて創造と前進に溢れた精神。

『幼子』駱駝と獅子への変身成長によって獲得された

全ての悩みや拘りから解放された自己肯定の悟りと

真の自由精神。

 

この三つの成長を絶対的真理の無い世界で

成し遂げる

それが超人への道なのである。

 

つまり超人とは

全ての自己否定を止め

完全なる自己肯定の世界を獲得した

今という自分だけを最大限に楽しみ

過去に一切捉われない

超越した肯定の精神を持つ人間をいう。

 

これは誠に大変な作業である。

何故ならそこに行き着く為の

具体的答えは無く、その為ニーチェ自身も

はっきりと明確な概念を説いていない。

 

しかしながら

その超人という概念に到達しなければ

ならない意味付けとして

彼は一つの世界観を説いているのだ。

 

その世界観こそ

『永劫回帰』である。

これは輪廻思想に近いが

そうではない、人生とは同じ事が

永遠に続く不思議な

繰り返しの世界観の中で

生き続ける事だという概念である。

 

つまりツァラトゥストラは

人は未来永劫に繰り返される

その世界に生きるのならば

心に様々な不安や絶望をもって

生きるより

どうせ永遠に続くのなら

常に自分を肯定し、全ての悩みから

解放された超人となって

生きる事を選ぶ事が

最善だ。だから超人の道を

歩めとしたのである。

 

また、その永劫回帰の中で

見事超人に成長した人間の

獲得する愛こそ

自己の全てを愛し

その運命の全てまでも肯定

愛し続ける愛。

即ち『運命愛』だと説いたのだ。

 

そして私は

絶望の中にいながらも

唯一人

歓喜天の大変な功徳を頂く中で

その永劫回帰という

ニーチェが説いた世界観を

当に克服していた事を知ったのであった。

何故なら

絶望しながらも

絶対的神という普遍的真理を

知っている私にとって

彼が否定し殺してしまった

その神と真理こそ

永劫回帰という

ツァラトゥストラ即ちニーチェが

説く絶対的世界観

そのものであると

私のそれまでの信仰経験が

如実に悟り得る事が出来たからだ。

 

愛染聖天の御経でもそれは

明確に述べられている。

 

神とは三千大世界そのものであり

輪廻転生そのものなのだと。

 

つまりはツァラトゥストラ

絶対的存在を否定しようとも

自己の思想を説く為に

やはり絶対的存在に頼ったの

であって、

彼の思想の中には

絶対的神と真理が

実は息づいていたのだ。

 

しかし

彼の思想の全ては否定される

べきでも無いし

全てに於いて素晴らしい。

 

例えば仏陀の教えの中で

人間の実相とは

虎に追われ

崖から垂れさがる一本の綱に

ぶら下がりながら

下方の海面には

三匹の龍に狙われ

頼る命のその綱は

ネズミに噛まれいつ落ちるかも

知れぬ状態。

ネズミを振り落とそうと

左右に揺らすが

崖上の木から滴り落ちてくる

甘い蜜に気付くと

その一滴を味わおうと

揺らす努力を人間はやめてしまう。

 

この話は人の人生の

無常を説いているのですが

 

ツァラトゥストラもまた

超人の実相とは

動物と人間の間に渡る

一本のロープを

綱渡りするようなものだ

と説いています。

 

しかし彼は無情という言葉で

その危うい状況を諦らめるように

悟る事を説きません。

 

全ての絶対的真理が無い状態

である心は危うい。

まるでそれは

動物の心でもあるし

それ迄の人間未満であるとする

心境の中で生きるからである。

そして

その実相を表した

綱渡りの構図の中で

敢えて彼は超人になる事を

私達に説き、見事その思想的

結実を導きだしているのです。

 

そして私は遂に

大きく悟り、また大きく

覚悟したものである。

私は彼の世界観による

思想の行き詰まり

つまり永劫回帰という思想

から見えた矛盾を知った者。

そしてその超人思想という

素晴らしい人を

絶対的肯定思想に誘う

理論を

更に開花させられる者だと。

要するにそれは

絶対的真理を殺さず

超人思想を実現する行為を

実行する者。

 

それはつまり

以前の私のように

神の存在を知っても

尚、絶望する者を救済する

大いなる思想。

 

それを

私は

私なりの超人への道を

歩みながら

探り当て

遂には皆の完全なる救済を

実現したい。

 

あの日

そう思った私の信念は

今実現したかどうかは

自分でも解らない。

 

しかし

私の心の中には

あの若かりし時のような

絶望など今は無いのだ。

 

愛染聖天様が御降臨され

私の身の上に

いよいよ

奇跡が光のように

如実に現れ始めると

私はあの

私を聖天様へと強く

意識させて下さった

故人のように

神と自在に話が出来るように

なった。

私に頼るもの

血縁を持つ者に

裏切りが無い限りは

『生きた神の存在』を

功徳をもって知らしめる

事が出来るようになった。

 

そしてそのような歩みの中で

生れたのが

愛染聖天様のお導きに

よって生まれた

『大愛の思想』であり

それを実現する為の具体的手法

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

なのである。

 

愛染聖天様の説かれたこの思想は

まさに

愛染聖天信仰を辿る事によって

ツァラトゥストラの説いた超人に

なり、そしてそれさえも凌駕できる

教えがそこにはある。

 

何故なら

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』とは

『愛染毘奈耶迦順世の法』という

愛染聖天様が持つ神力とその教えを

殉じ辿る事。

即ちその中から

四つの価値を探り獲得する事によって

得られる最高の奇跡と悟りの

実現なのだ。

その四つの価値とは

つまりそれは

第一に心願の価値、

第二に信仰の価値、

第三に存在の価値、

第四に輪廻の価値なのであって

 

この思想の結実にあるもの

それは

『大愛の思想』の真の結実に

ある。

 

これをニーチェの

『ツァラトゥストラはかく語りき』

超人思想と照らし

合わせるとすれば

 

第一の心願の価値は

心願追及による自己創生である

これは、超人思想では『駱駝』であり

第二に信仰の価値は

自分の歩む道に絶対的自身を持つ

云わば超人思想で云えば

『獅子』であり

第三の存在の価値に至っては

その自己の存在の高尚さを

知る事は

これは正に絶対的自己肯定の完成

であり為に

これは超人思想でいえば

『幼子』である。

 

そして

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』には

超人思想には無い

四つ目の段階がある。

それこそが輪廻の価値であって

これは

ツァラトゥストラが説いた

永劫回帰という絶対的普遍的

世界観を

辿り己のものにするという

もので

この点に於いて

私達聖天教の説く

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』とは

あのニーチェの説いた

人類哲学史に巨大な功績を残した

強大な肯定思想を

凌駕した事になるのである。

即ち『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

には超人思想には無い

この四つ目の成長過程があるからだ。

 

そしてその

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』の

結実にあるものこそ

それは

『大愛の思想』の結実であり

これは

『ツァラトゥストラはかく語りき』の

超人思想最大の到達的思考

『運命愛』を

まるきり

超越した愛が

そこには在るのである。

 

この思想の

詳細は近直発売される

私の著書に書いているので

信徒の皆にはよく勉強して

欲しいが

 

今日私が何を皆に説きたいのか

その一番の心を説くとすれば

 

私達聖天教は

既存の既に崩壊した

神力不在

『全ての神は死んでしまった』

と言わしめる程の

既存の『聖天信仰』と違い

 

往年の聖天信仰の功徳を遥かに

超える功徳と奇跡力を

唯一この世に示し続けている

 

しかしその中でも

それぞれの成就の道筋に於いて

何故功徳が頂けないのかと

右往左往される方もいる

 

また

私が見るに

成就功徳を頂いている人であっても

尚心に悲しみを持つ人が

沢山いる。

 

そのような悲しや不安を

取り除くのは

私はやはり

上記の聖天教の思想。

愛染聖天様が説かれた偉大な

思想を勉強する事。

つまり

ニーチェの云う

超人になる事を目指す事なの

だと思うのだ。

 

そして大祭とは

その超人になる為の

信徒それぞれの

実践の場だと私は思っている。

 

私がここに至るまで

つまり

上記での絶望を感じながら

愛染聖天様の招来を実現し

その負の思いを払拭できるまでは

大変な心の苦労があった。

 

それまでの歩みは

良い功徳も悪い功徳も

全てが人智を超えていて

私はその度に

恐ろしくもなり

なんども逃げ出そうとした。

しかしその度に

愛染聖天様は

私を

ある時は苦しめ

ある時は功徳の雨を

下さりながら

神の仕業としか

考えられない経緯を

もって、私は

この聖天教を開基するに

至った。

恐らく

歓喜天の信仰宗教を開いたのは

この日本で私だけのはずだ

それだけ

不思議な事が

私に起こり続けたのだが

 

振り返り

その苦労や功徳の果実

の果てに

気付けば

私は、私の全てを

肯定し

幸せな気持ちになれる。

 

そのような

私がずっと求めて来た

本当の境地。

 

それこそが本当の功徳。

 

功徳を頂く心に

全くの肯定こそあれ

絶望の皆無なき

そのような

心境に至れたのは

やはり

自ら常に

心の糧を信仰に求めていたからの

だと私は思うのだ。

 

その追及より

自然と奇跡が生れて来たのだ

しかも

とても良い奇跡がである。

 

信徒皆よ。

明らめるな。

幸せになれ。

 

ツァラトゥストラになるのだ。

超人になれ。

 

いや我等が唯一生きし

大神の力と教えで

超人を超越するのだ。

 

その為に皆が真実真剣に

なれる期間。

それが大祭であろう。

 

そして皆が

あのツァラトゥストラのように

悟りを得

山を下り、我が大聖天の教えを

世に高らかと説法をせんと

心から思ってくれた時

我等の教えは大成し

世の人々の心に

強く強くそれは鳴り響くであろう。

 

最後に先日愛染聖天様の感応の

お言葉が下った事を

信徒の皆に伝えたい。

 

私は今年年頭の予言で

コロナは治まると予言したが

御本尊様の新しきお言葉によると

鳥や豚のインフルエンザが変異した

ウイルス。

もしくは

強いインフルエンザや

コロナの変異体が

中国から伝わり、韓国、日本をはじめ

世界で大変な数の人に被害を

及ぼすかもしれない。

そしてそろそろ大地が揺れ始める。

という事である。

 

また私が今年年頭で予言した

仮想通貨の予言だが

私が予言した横にすると

目になる三文字の仮想通貨

ADA(はじめのAを左に倒し、Dはそのままか

自由に位置を変えてもいい。

そして最後のAを右に倒すと見事に

目になる)が年末を待たずして

大高騰を見せているという。

現在世界の仮想通貨で既に

急激に高騰を見せ、時価総額

第三位にまで成長しているという。

さすが愛染聖天様の予言霊験である。

その通貨は元々カジノ専用の通貨らしく。

愛染聖天様から頂いた

感応による私の抱いた想念は

その三文字の目のコインが

パチンコ若しくは

スロットの機械

に投入され

機械の取手(レバー)が

倒されたその瞬間。

世界の全てが周り出し

すると

その目のコインは

突然立体的になり

右のAと左のAを両翼とし

真ん中のDが起き上がり同体を

形作ると

それは火の鳥。

つまり偉大なフェニックスと

なって天空に駆け上がり

世界を制覇したのだ。

驚く私に向い

聖天様曰く

『見よ。あれが世界を操り司る最も

力ある尊い大王のコイン。火の鳥のコインだ。

世界はやがてあの火の鳥が席巻するであろう』

そう云われたのだった。

そして予言は

また見事に現実となった

 

そして

今日聞いた処によると

私が大変気に掛けている

愛知の信徒様の事だが

以前よりいじめていた

調伏相手の

若い社員が遂に子宮癌に

なり手術する事になったという。

恐らくもう子供は無理で

あろう。

私がそうなるようにと

祈願はいちいちはしていないが

何かの神意があっての事であろう

事は解る。

その人間の菩提を私は祈りたいと

思うし、成就させた信徒と伴に

そうしたいと思っている。

この調伏は二年近く懸ったが

やはり我が愛染聖天の調伏は

必ず相手を滅ぼす。

ただ注意して欲しいのは

去年から今年に掛け

既に調伏だけで六人の願いが

叶ったのだが

その内の一人の信徒の事であるが

長く調伏の祈祷を修してやり

それが奏して

その相手は絶えず悪性の腫瘍が出来

る体になり

手術を繰り返すようになったのに

関わらず

私に依頼した事を

本人も忘れているのか

知れぬが

『調伏の功徳を頂いて良かったですね』

といったら

『あーわかりません』と言った者が

あった。

調伏の願いは

忘れた頃に成就したりもするが

しっかりと年頭に置いておき

お礼と

調伏相手の菩提を弔わねば

必ず自分に返ってくる。

皆もこういった信徒にはならないように

して欲しい。

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

 

気持ちの高揚は

人に様々な可能性を引き出す

切掛けとなりうる。

 

しかし時として

高揚とは

心の箍を緩ましてしまうものだ。

 

高ずれば

思ってもみない

汚き言葉まで発してしまい

自分でも驚いてしまったりもする。

 

これは

私達が怒りを発する

早き血流鼓動の様子の時と

酷似している為

体と心が錯覚するからだ。

 

私は私の著作

『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』

では、

そのような時

大金剛輪陀羅尼を唱えれば

その行い、心は正され

それだけでは無く

より一層様々な功徳に心輝やかす事が

出来るとある。

 

では大金剛輪陀羅尼とは

なんであろう。

 

答えは簡単である。

神様と同じ心になりましょうと

いう事だ。

 

それこそが最高の悟りなのだ。

 

そして愛染聖天様の心とは

昼に夜に

日月と

全てを捨てて

全ての生命を照らし導く

全ての神々さえも

憧憬やまぬ

最高の神の心に他ならない。

 

 

信徒の皆様

遅ればせながら

旧暦明けましておめでとう。

これからが本当の令和参年。

勇んで信仰にこの霊験の道を

伴に歩まん。

 

 

※旧暦本正月の準備に追われ

告知の遅延を起こし

バレンタイン祈祷に影響が出た事

教主である私から

慎んでお詫び申し上げる。

その代わり

今年のバレンタインの浴油は

本正月の三が日のご祈祷と

重なるので良いものと

なるだろうから

ご参加の方は

急ぎ本部の者に参加の意志をお伝え

下されたし。