端的に申し上げて、断ち物とは、特に尊天に対する断ち物とは絶対的な魂の契約である。
前回はその心構えについて話したと思うが、前回予告申し上げた通り、今日は私の断ち物に対する
姿勢と十一面様がなぜそれほどまでに必要かという話をしたいと思う。
まず私の断ち物は信徒の方々はもうご承知のはづと存ずるが、壮絶なものである。
食事も一日に一度、炭水化物というか米、そばなど、主食になるようなものは一切口にはしない。
菓子や、和菓子も、一つ一つ上げていけばきりがないので、割愛するが、ほとんどが尊天様への
下がりものである。
(例外として、尊天様に朝、夕の上げ物のおさがりの中に、牛乳にバターを溶かし、ごま油を少々垂らした蘇のきわめて類似した飲み物は時間に関係なくいただいている。
朝、夕、多い時は三回尊天様の食事を飲み物から、大根、歓喜団、大飯、小飯、汁、果、干し果、団子、餅、お茶、酒、水を全て、取り替える。ご縁日はもっと豪勢に、これに加え、ニンジン、ナス、タケノコ
尊天はお金を渋ってはいけないので、ごうかな果物といつもより上等な酒と団子、信徒の皆様の
お花代がいかに尊天を助けていることか、それでも経費が足りなくなるときがしばしばで、
篤信な方で通常より多めに献金下さる方にはきっと尊天も頭が下がるおもいであろう。
知識のある方ならわかるが、私ぐらい、昔ながらの作法を省略することなくこのような給仕している
ところは絶対にないはずであるかして、雞羅山から尊天が私の処に降りていらっしゃるわけである。
このようなありがたい給仕が出来るのも、篤信な信徒の方々にお陰であるから他ならず
尊天に成り代わり心から御礼申し上げます。ちなみに一回の尊天のお酒の量であるが三百五十ccを二つ、計七百を一日、多いとき三回飲み干される。酒豪であられる)
話は戻る。
なぜこれ程までになったかというと、信徒様(秘法)を絶対にも成就させるため、個々の進み具合に
応じ、これはいかんという方を命をかけてもとの心の在り方から、私が変わりに断ち、尊天と
契約してきたのがほとんどであるが、振り返ると、この世に楽しみが何もない。
食に興ずるという、人間の楽しみがほとんど失われている。
私は、尊天という偉大な神仏の主宰である。
他のどんな人間より、尊天の生き方を体現しなければいけない。
他の人間からすると、百日だ、千日だのといった行では無く、一生の快楽を尊天にささげた私を
怖いと感じると思うが。
私にしてみれば、観音経や大聖歓喜呪法経の精神のみならず、実践にて肉体を費やし尊天に殉ずる
己を、まさに前世から尊天に導かれ、成すべくして成ったすがたであり、その姿が信徒の皆様を
救うべくしてなった姿であるだけに、とてもうれしいのである。
そいてもう一つ、これは十一面様の法の必要性に共通して言えることなのであるが
尊天の法は人を堕落させる面をもっている。
尊天の本地は観音であるから、他の天部よりも圧倒的に強くもあり、すべてをそつなくお変えになられる。だからといって尊天が進んで、皆を堕落させているのではない。
尊天の下さる功徳は、他の仏のような、死んでから幸せになりなさいと、輪廻の大局の見地にたっての救いと違い、はっきり下さる功徳であるから、それゆえにご請願の通り、皆守られ功徳の光を浴び
富んでくる。愛。欲望。金銭。権力。それぞれの望みに応じてでる。
こうなるとどうだろう?
人はどんな人間でも堕落する。
そして尊天様もっと、もっと下さいと間違いなくなる。
この功徳の御かわりは、尊天様自身がご請願で立てられておられるのだから悪い事では
ない。しかし一つ問題なのがおかわりといっているその方のお心である。
尊天のご請願が奇跡による救いを通して、一人でも多くの人間に仏性を見開いてもらうという
テーマがご請願の根底に流れているのだ。
おかわりする行為は間違っていないが、おかわりする心がテーマに違えていれば尊天は面白くないのである。
例えば、不倫という苦しい恋愛を、どの仏も救ってくれないのに、わかった救ってやろうと成就させた
結果、尊天はその分を職場や恵めれない人間に手を差し伸べる気持ちを持ってほしい、依然に自己の中に自省してみればあった我欲の部分を改善しようと努力する人間になって欲しい。
そう思って下された功徳を、
なんでもいい思いができるんだからこりゃいいやといった心持でいられると尊天の怒りに触れるのである。
これが堕落である。
尊天の行者はなおの事である。堕落している人間がほとんどである。
始めはこの不思議な力に触れ、背筋を伸ばしていても、一番近くで功徳をいただくのでる。
行者と言っても人間である。しかも現代の世風にどっぷり侵されながら
皆、漏れることなく育っているのである。
その堕落たるや、最後は自分は障礙をいただておるのもわからないほどである。
七十、八十歳の行者でもほとんどが堕落している。
皆、口をそろえ、私は断ち物は反対だと言う。
断ち物など功徳の快楽に浸かり、それどころではないのである。
それゆえ、私のような尊天に仕える人間は、今のような一種の過酷ともとれる断ち物によって
永遠の欲望の隔絶によって、誰より尊天のお近くにいて功徳をいただきながらも堕落を
辛うじて、いや、否応なしに防ぎ、食い止め、尊天に愛される存在であり続けることができるのである。
それが信者様を救済するに端を発したことである事は、本当にありがたい事であり、
無言の山よりも高く、谷よりも深い尊天のご縁を個人的に感じ、感涙にむせぶばかりである。
尊天信仰においてこの堕落を未然に防ぐにはどうしたらよいかと尊天様から提案されたと
いっていい教えが観音様の教え、要するに十一面様の教えなのである。
十一面様は、三十三の変身をもって多種の時限の者、その者の姿に応じ語り悟り導くというご請願、
救いをもっておられる。十一面様はその救いの方便を、より人間道に近からしめる為、十一の悟りの
行程をもって人々をお救いになるというご請願をお持ちになられた方で、このご請願をより確固たるもにするべくこの人間界の実質的支配者であり、その権利を持つ尊天様に生まれ変わったのでありますが、それ位十一面様には悩める衆生を救うという愛の心、自分を捨ててまでも救おうとする心が
強い方なのでありまして、尊天様においては生まれ変わったといっても少し乱暴なところもありますが
この十一面様を祈ることによって、尊天様のやんちゃな部分を優しさでとかし、いい方向に引導する
愛の浄化作用を強くもっているのであります。
そしてこの浄化は尊天様だけではなく、常に堕落の危険性に打ち震える私達も対象であったのです。
私は油をかける時は、尊天様の心を聖油をもってとかし清めどうか奇跡をと念ずる他に、それぞれの
信徒様の心の垢を落としてどうか早急に成就せんことをと祈る。それは、なぜかというと、前回にも
申し上げたが尊天に祈るすがたを皆様が見せる時、その姿を尊天は鏡のように捉えている。
例えばあの人間の夫が欲しい、前述も述べたが、その願を申し上げ、祈りながら、尊天様私は
大変、立場の無い願をしていますが、なんとしても叶えたいのです。ですからこの心に部分は
直します、こんな人間になるべくなるように努力しますので、なんとかお願いできませんでしょうか?
という願方、心持ちならば宜しい。
しかし、尊天様、早く叶えてくださいよ。私は頑張ってるのに、約束通りおがんでますから、お願いしますよ。といった拝み方、心持ちの祈りだったらどうだろう?
堕落の限りである。
そんな願のかけ方の信徒に対し、尊天様もそれに応じ荒げる。
十一面様はそんな状態をはじめから作らないように、その教えを繰り返し、そのお姿、ご真言、
お経から私達に真似しろと説いて、心の垢、堕落を防ぎ、鏡のように信徒の心を写し、愛したり
荒くれたりする尊天の前でよりよく導いて下さるのである。
その祈りは、成就後の心の在り方までを導いているのである。
もちろんながら私もそう念じ、油を日々かけている。
付け加えると、十一面様を置いてある信徒様はわかると思うが、毎日のおあげもの、また尊天様への
おあげものを身が切れるくらい豪勢にしたりするのは、自分の観音の愛の心を、自分を削って
差し上げますので、そうかお受け取り下さいという、なかなか口ばかりではそんな人間になりきれない
私を含めた、努力、努力の衆生が、形から観音に生きる、尊天の愛に堕落せず生きる、とう道に
踏み込む一歩であり、一投であるのである。
合掌
追伸
九州の天災、目を覆いたくなる惨状である。そんななか篤信なかたによる、救済のご祈祷
をと祈祷段依頼のお布施が届いている。
いつもながら、我が、大聖歓喜天使教会の信徒の方々の救済の心の実行の素早さに頭が下がる
思いである。
チョコレートの日が近いので特別な祈祷をどうかしてくださいという声が河口に多いようで、私も
考えてはいるが、きっとチョコレートの日はこんな救済の心をもった方々はその心を
尊天がよく写し、大歓喜なさるであろう事は必定である。
とりあえず九州の方の救済の祈祷、受け付けたので、お布施をなさった方は安心して欲しい。