夏の大祭告知


 いよいよ夏の姿がちらほらとしてきた今日この頃、

信徒の皆さんはどうお過ごしであろうか?

お勤めは出来ておるだろうか?お約束は守られておられるだろうか?

なにより、聖天教の教義でもある。昇華の思想にそった

お性根にたいする八愛の水の実践は出来ておられるだろうか?

一部の篤信な方から、早速の実践の決意と実行の報告を受ける度

この方は成就するであろうなと、私は安心させらている。

この教えをどうか信徒悉くが生活の端々にまで取り入れ、聖天と

私との祈祷の歩みと歩を整え、見事な成就による人間的成長を遂げて

欲しいものである。

絶えず、私は、事あるごとに、信仰の轍は一生続く輪廻の輪そのもの

と皆にいってきたと思う。

輪廻とは朽ちては生まれる永遠の円流を指す。

私が教えるお性根、八愛、また、そこまでいかなくても普通のお勤めを

実践していてどうだろう?

今までは何の気なしに向かっていた実践の結果、大変な功徳を頂いた。

よし、今度は先生より新しい教えを頂いたからと歓び勇んで実践した

ところ如何に手を合わせ、膝を折り痺れに我慢を重ねても、経過を

みたらあまりいい感触を得られないという事がないだろうか?

特に夏の大祭も告知を迎えた時期に八愛の実践をこころみた、篤信者なら

そう感じて、哀しく怯んでしまう時があるはずなのだ、

篤信な者はこれを中だるみなど自分を責めてもしまうであろうが

それは違う。

中だるみでも、お勤めの方法、理解の乏しさからきているのではないのだ。

聖天様はそのような愛らしい皆の実践に悪意を持つはずも無く

心から応援の光を与えている。

ただ、新しい法、またその繰り返しに馴れを感じてきた時の心の在りかた、

つまり、尊天様への期待の仕方が、間違った期待に変容した為起きうる

信仰者にある、神との齟齬なのである。

聖天様は八愛をしている者には、もうすでにその者が見れない世界で成就をする方向で光を差し向けているものであり、このような高等で、しかも尊天様のご誓願である、善心への導きにそった成長へと実践する者達に

新たな段階での飛躍と光を与えているのだ、それは必ず今までと変わりなく、またそれ以上の功徳の日差しに他ならない。

しかし、尊天様の、よしこの者にはと、これだけの大きなものをと、

いわば勇んでくださった功徳も、

私も含め、この間は彼の浮気を見つけだし、浮気相手をやっつけられた。

よし、今度はいい実践方法を見つけたのだからこれを実践したならば、

二つ、三つの過去の彼の浮気相手もゴツンとしてやれるからそうしてやれ、

そう思うのがまさしく我々人間であって、

最高の唯一神たる慈愛の光、我が尊天と

まったく違う成就に向かっての悟りに対する齟齬がここで生まれるのである。

もちろん尊天はその願いも聞き届けて下さる。

それは但し、妙智力をさらに増したやり方でであって。

このような場合の我々は、始めの成就、功徳の時のように

目に見えていないと我慢がならない。

それ故に、浮気相手を前回以上に懲らしめているはずなのに、

町でその相手が元気の歩いているのを見かけたりすると、

実践の効果は無駄だったなんてやる気を失い、速悉なるものが

表面にあらなんだだけであって、実は尊天の妙智により、前回を

超えた成就が、実践の積み重ねによった尊天の優しいお心の発動に

より成されている事を、我々には見えていないだけなのである。

ここなのだ。

聖天様からすれば、見えない時にも、不安なる時にも揺るがない信仰の

世界への成長を喜ばれる。

成長の到達は、慈愛に満ちた人間を形成するのであるからして、

その人間が結び、礎になった社会は、より良い物になるのであるから

これを御仏の世界の達成と言わんとしてなんとしよう。

このような世界に挑む実践を念頭に置き、我々は尊天様の意にそった

成長をしているだろうか、お性根は善に育ったか、八愛の水はやれて

いるか?その結果私の心がどうなったかと、成長を還り見ながらの

実践を皆には考えて見て欲しい。

聖天は、歓び沢山の功徳を降り注いで下さっているのだ。

篤信な者はここで気づいたはずである。

自分の信仰は、気が急ぐばかりに、その信仰の形が、尊天をまるでけしかけるだけの実践に終わってしまいがちになっていることをである。

そして、そのあまりの性急は、大きい奇跡や功徳までも見えなくしてしまい、

遂には、尊天との距離を作ってしまい。

人によっては、浮気相手はもう崩壊寸前にもかかわらず、彼に余計な事をして敵を勝たせてしまう結果を産んだりするのである。

 

そこでこの輪廻が関係してくるのである。

上記の間違いは、この信仰の輪廻からすれば、必ずしも間違ってはいないのだ

この間違いは実践により、先生にも絶えず生まれるのだから、

この間違いを常に修正し、繰り返し、輪廻の円流に居拠し続ける事、

そしてその円流の世界を富ませ、光輝かせる事が必要なのだ。

必要でないものとは、尊天との距離を作る道を創り、違う道に陥って

しまうことなのだ。

であるからして、信徒の皆に於いては、この輪廻に立ち戻る

信仰実践に起こりうる事象を、このアドバイスにおいて、

信仰の乖離ではなく、より一層の成長に促していって欲しいのである。

理趣経では、大日如来が、この世に眼を開けた時から大いなる大覚者に

なる成長の過程を説いてもいる。

大日如来は目を開けなくても本当は大日如来なのである。

ではなぜ目を開け、わざわざそのような階梯を昇ろうとするのか?

それは、気づきを常に得る事によって偉大な輪廻の円流からそれることの

回避による、円流の成長をみているのだ。

大日如来はそのままでも確かに大日如来であるから何も必要ない。

もう合格した状態なのだ。

これを赤子だという人もいる、そうともいえるが今はこの実践に

生ずる成長に伴う注意という観点から皆を諭させて頂く。

ではなぜ階梯は、気づきが必要か?

気付きとは、知るという行為であり、知るとは、知ろうとする

行為なのであり、それは神仏の智慧、妙智として己に

還り、その獲得は、大日如来で云えば、宇宙であり、

世界、そして我々の心の安定を確立すると考えるのだ。

例えば、私はいつも浴油の際に用意する、油、大量のあげものを

お盆で運ぶ際、あまりにもいつも不安定で怖いので

こぼさぬように、聖天様とつぶやいたり、気をやろうとする、

しかしながら、このような時に限ってこぼしてしまう。

しかも、成功している時は無心に集中しているのにかかわらず

だ。

では尊天様を唱えたりしたらなんでも失敗するのか?とか

上記の実践により生まれる疑問と同じ質疑が生まれるはずであるが、

全くのこれは否であり、実はもうすでにこの無心の中に

常に聖天様とともにあろうとする信仰の実践はできているのだ。

無心の中にもうあるのである。

なぜなら、常に、ともにあろうとする考えの心の中の動きからあくまでも生まれている無心だからなのである。

これはなにも信仰をしていない人間の無心とは違うのだ。

絶えず尊天様に帰依してこうありたいと願い、あるときはその実践に悲しくおもったりもしながら生じた無心なのだ。

故に、この無心は、輪廻の円流の中に流れる無心であり、常に信仰を深め、成長し富み育つそれであるのだ。

このような輪廻の円流から生まれる無心はの力の成長は限りない。

だからこそ、このような沸き立つ如くに到達する円流の開花こそが大覚なのである。

即ち大日如来の気づきも、これ無心と等価なのである。

この等価である故の確証に、この二者の心の添え木がなかっらどうなるであろう。

簡単な例が

霊感と称したりし占いを生業をするものなど見てはどうであろう

そのような人間の月旦評には必ず、最近のあの人はテレビに出てから

力がなくなったんだって。

などと聞いた事がないだろうか?

このような輩は、この気づきなる無心の添え木が無いばかりに、霊感があっても無くなってしまうのである。

それはあたかも上記で説いた、

目を開かなくても、大日如来は大日如来、霊感者は霊感者でおわってしまうからなのである。

このように、無心なる事にも気づきを求めず、その気づきの中での実践による神との齟齬など考えもしないばかりに、

上記で避けねばならぬといった、尊天との縁の絶縁を起す事のように、

己の己である由縁を切り離していることさえも知らずに、

霊感を有する輪廻から遠ざかり、遂に己を見失うのである。

理趣経の大日如来もしかりと考えるのであり、尊天様は大日様の生まれ変わりでもあるのだから、そんな事はあってはいけないのだし、

ここでは、皆にわかりやすくと思い例に説いたことをお赦し願いたい。

また、我々はそのような転落を見ない為に、尊天という偉大な方の

我々は大いなる信仰の輪廻の円流に生きる血の縁を頂いているのだから

このような三下霊感師と同じなはずはないのでありその変は自信をもって欲しい。

帰結させて貰うと、

日々、篤信なるが故に生まれる、信仰への実践による心の格闘、迷いは

善き神の功徳の光りとの齟齬であり、その齟齬こそが、成長、悟りへの

気付きであり、その気づきは、更なる智慧と奇跡の安定を、宇宙、世界、心

要するに次元にもたらすのであり、常にそのもたらされ獲得するものは

この無心ながらも大変に深く、また広大な意味を有した、気づきの信仰の

輪廻の円流に発露し回帰し、そして帰属成長を続けるのである。

であるからして、

篤信である故に悩める信徒達に言いたい。

君たちはより慈愛に満ち成長しているのだ。そしてもう成就は約束されているのだと。

つまりは、教主として、信徒の皆に聖天教の信徒である事に自信をもって欲しい。そう私は訴えたいのである。

                             合掌

 

追伸

 ついつい興にのり、お題を語らずして終えてしまったが、

お題とは、本文のように複雑ではない。

であるからして、ここにて簡単に言わせて貰うと。

いよいよ夏の大祭が近づいてきた。

今年の大祭は、教団名も聖天教とし、私の名前も

兆象大宰になって初めての記念すべき大祭である。

案内をだしておいたので、信徒の皆には例年以上に

改名も供に祈っていただき、大きなものにしたいと

思っている。

大祭中は大変成就者が増える。

今年は聖天も、この深い意味の込められたいつもと違う大祭に

大層御歓びになることは必定であり、沢山の成就を見る事であろうから、

篤信な者はよく心がけ、参加するように。

また仏像と額が出来ている。大変良い物にしあがった。

依頼したものは千宰にいいなさい。

このように大祭に依頼した仏像、額等は私は念入りを籠める

それは長い者は半年かける。

大変な力がある。花が枯れなかったとか、夢に出てきたとか

よく不思議な話を聞く程であるから

頼むから壊したりして粗末に扱わないで欲しい。

携帯仏にしたほうが都合のいいものはいうように。

あと、秘法も早めに申し出て欲しい。

先月秘法にはいったものは、大祭期間中ではないのでかわいそうだから

期間中にやってあげよう。

兎に角も、皆一丸となって聖天の晴れの日を祝って欲しい。