教主様令和弐年冬の大祭御法話

 

※現在、宮城福島で起きた大地震は

未だ懸念が残る状況です。ですが

そのような中だからこそ

三宝様方の御法話を読んで

信仰の糧による

心に力を蓄え、皆で不安を

乗り越えて参りましょう。

 

 

❖御法話❖

 

いよいよ聖天教二大大祭の一つであり

一年を締め括る大行事。冬の大祭が始まろうとしている。

 

そこで一つの不思議がある。

 

この度の大祭の結願の日。

 

それは調度、この令和弐年の最後の日

新暦の十二月三十一日大晦日と

符合合致したのである。

 

畢竟

その夜、即ちその日の深更から

まるで全てが愛染聖天様のもと

開眼されて行くが如くに

新しい開白の日取りが日付には

用意されていたのだ。

 

皆ももう知っておると思うが

新暦と違い変動多い日付を持つ

旧暦を、太古の秘法に忠実に則り修する

我々聖天教団にとって

大晦日と大結願の日取りが

正に合致するとは、誠出会うに

難しき事であって

 

これはまさしく大いなる吉祥。

 

近年稀に見る大不吉を孕んだこの怪しき年の

最後に

偈にも晴れ晴れと

その不吉の完全なる調伏滅却に相応しい

大願成就の道筋が日取りとして用意されて

おるとは

計らずと思えど、やはりそれは

神の恩寵。私はそう感じずにはおれないのだ。

 

加えて

この度の大祭は、女天のご供養も去る事ながら

先般執り行った

我が明王の大祭。つまり大々的に初めて修した

納め切りの技を

真なる意味で納める

十一面秘法を擁する大祭である。

 

なんと

この不吉な年を

締め括る今年最後の大祭に於いて

信徒の身の上迄もその十一面の慈悲の

秘法をもって

明王の浄化導きと成就の秘法を完璧ならしめる

誠に感慨深い大祭になってしまった。

 

 

納め切りとは私から言わせれば

染み抜きである。

 

衣服に染みついた汚れ。

それ即ち

我々の持つ

罪。穢れ。果ては因縁。

同時にそれ故に

受け給うた

様々な神々の怒り。障礙。災い。

それが八百万大小聖天達然りである。

 

それらを

我が毘奈耶迦明王の浄化の火炎を

もって、

まるで染み抜きの薬剤を付け

その箇所を上から

ポンポン。ポンポンと

叩けば、

 

やがて

浮き出で始める

その染み。

つまり、あらゆる負なるものの

うわばみを

十一面の慈悲の神力で

拭き取る。

 

これが無ければ

恐ろしき負なるあらゆる障礙と

罪障は

元の染みへと帰し

時によっては、以前より増して

汚れを際立たせる事にも

成り兼ねてしまう。

 

故に信徒の皆は

この度の大祭は

女天様のご苦労も

これは懸命に祈らねばならぬが

教主である私から

一言をもって

導くとせば

この納め切りの後の

観音供養を今回だけは

大切にしなければならない。

 

さすれば

十一面様を胎内に持つ女天様も

その修する成功をもって

必ずや歓喜し

またもってその事が

必ずや男天の大歓喜を

促す事であろう。

 

空海の言葉に

『生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 

死に死に死に死んで死の終りに冥し』

 

これは

衆生が生きる長大なる輪廻転生の道は

何故生を受け、何故死んでゆく。

その意味すら知らずして生き続ける

その中に己の姿を見出し、嘆く様を

空海が謳ったというものだが

 

私はそうは受け取らない。

 

確かに空海という方は

生前のその言葉を知れば知る程

大勢の人が持つ

秀でた多才と大いなる神通という

イメージと違い

とても感傷的で繊細。

気持ちの起伏をそのままに

表現する方。

一入なる優しき感情をお持ちの

方だからこそ

そのように

輪廻の無常を儚まれたのだと

思えないでは無い。

 

しかし、空海とは

己を捨て、遂には即身成仏に

迄お成りになり

衆生を救おうと生きた方である。

 

その魂には

爛々と他を照らしてならない

仏心が輝いていたはずであり、

 

例え不安や迷いが心に生じようと

その光は己の感情

輪廻の行く先を温かく照らし

先導してならなかったはずなのだ。

 

つまり

その己を捨て他を導かんとす

その仏心の光を堅持する限りは

例えそこが地獄であろうとも

極楽と為す事が出来る。

 

即ち

極楽とは成就とは

世界や形を示す事では無く

それぞれの心に在るものであって

故に大いなる仏心を持つ者は

何度地獄に転生しようとも

極楽に転生している事に等しく

遂には

その転生した地獄に在る

衆生に

仏心の光の伝播を促し

極楽へと為さしめる。

 

仏の慈悲も

智慧も

その全ては心にあり

形を持たざれと

心内にてそれは無限に変化し

それは無限に

この三千大世界をくまなく

照らしているのだ。

あらゆる生命の意識が

この三千大世界に存在している

限り。

 

畢竟

どのような生命の心にも

それは存在しているのだ。

 

私はそれを大愛と呼ぶ。

 

偉大なる宗教家空海は

きっと

『生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 

死に死に死に死んで死の終りに冥し』

と申したのは、

死から生に生じた時。

赤子の心が生じた時。

はじめは暗く不安であっても

必ずその心に仏性が芽生え

その心の色が消える最後の日まで

美しき仏の心は燃え盛るとしている

のではないか?

 

そして

その一度の生で培った

智慧は必ず人の因縁として

次の生にもたらされる。

 

その繰り返しは

まるで

幼子の時

両親に縁日でせがんだ

綿菓子が

出来上がって来ると等しい。

 

甚平を着た的屋の人が

ザラメを蒔き

割りばしを

動き出した機会にいれると

するとぐるぐると

回転する機会に合わせ

細かい白糸が

周る度に

割りばしに

付着し

やがては層をなし

最後には

甘い大きないっぱいの

綿菓子と成る。

 

まるで仏性なる因縁の

層を繰り返す

それは蜜なる

転生の姿では無いか

 

しかもその転生の綿菓子なる

動作が永遠に続くとせば

どうだろう。

 

この世の転生とは

世の者が訳してならない

空海の言葉のように

そのように暗きものであろうか?

 

いや、もし私が間違っていたとしても

私は空海のその言葉をなんとしても

そう思いたいのである。

 

何故なら我が愛染聖天の教え

この聖天教の教えの神髄とは

無常では無く、一切の奇跡、成就にあるからだ。

 

また私は

この空海の言葉を

暗き無常と捉えんと

するのは

そう訳さんとすその者の心に

無常と陰があるのではと思う。

 

私は、信徒のあなた方が

救いを求めて来た時

実は常に荒行を己に課したりも

するし、実は常に

ある断ち物等を通し

己の体までも害している。

 

しかしである。

未だ修行が至らなかった時分は

これが苦しかった。

何故なら己の中に

己ばかりの欲を叶えんとす

心があったからだ。

 

だがそのような心と対峙し

行者として見事に打ち勝ち

欲を叶える歓喜天に向かい。

欲を捨てる覚悟と自己を

見出し達観対峙した時。

その厳しき己に誓った行の

全てが、私の中で

不思議とも思える程に

その全てが甘露。

つまり幸福に変化したのである。

 

私はその時

全てのものが美しく見えたし

輪廻転生の無常が

果てし無く美しく見えたのだ。

 

それはまるで

初めて美しい海を見た

若い時に

生きる事も

死ぬことも考えず

たたひたすらに

その青い海と空に

美しさを感じた

時のように。

 

空海程の人がそれを感じていない

はずは無いのだ。

 

そして

輪廻転生の無常の中に

美しさと救済の希望を感じ取る事が

出来れば

 

親鸞の

『善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや』

という言葉が理解出来てくると

私は思う。

 

救いようの無い悪人の中にも

尊い仏心。大愛がある。

ましてや

その周りにいる私達も

更に大きい仏心。大愛をもっているのだから

それを救わずして

なんの救済であろうか

 

少々他の方々と受け止め方は

聖天教風かもしれんが

私はそのように

この言葉を思うし、

 

皆ももうお気付きだと思うが

この親鸞の言葉によく似た

聖天信仰に於ける

『例えどのような悪人の願いでも聞き届けん』

という御誓願の真実の意味が

此処に至り、よく理解出来たのではないだろうか

 

ましてや

我々愛染聖天信仰の解く

『あらゆる歓喜天も見放した、あらゆる因縁を持つ者を

叶えん』という愛染聖天様の御誓願が

如何に愛深きものか、悟り深きものか、

信徒の皆には是非に此処に於いて

理解して欲しいのだ。

 

私達はこの大祭。

 

大いなる輪廻転生の

道に生きる

儚き一個の衆生。生命として

 

転生を暗き無常とせず

それを

愛染聖天の説く

見事にして

美しくも密なる

愛と成就に満たされたる

転生とする為。

 

まるであの

綿菓子の白綿を成す

密なる白糸の如くな

愛染十一面観音の慈愛を

己の因縁、身の上に

引き寄せ、巻き付け

一個の蜜なる

成就に綿菓子とならねば

私達はならないのだ。

 

そしてその事で

見事に

秋の大祭で成した

我が秘法

納め切りの法を

完成せねばならぬのだ。

 

これは

早ければ年内に出版される

聖天教の新しき著書の中に

本部の者に教え書かせた箇所と

重複するものだが

 

十一面観音がしきりに

信仰されるようになったのは

実はとても古い。

 

それまで八百万の神を信仰して

いた人々は

仏教の伝来とともに

人間として高尚なる罪と初めて

出会った。

 

つまりそれは

殺人、肉食や姦淫等であり

弱者救済の思想であった。

 

しかし、人々は新しき

仏教の神々を尊崇しながらも

今まで生活と密着していた

自然信仰である

八百万の神々を捨てきる事が

出来なかった。

 

その神仏習合の完成に伴い

生れたのが

 

八百万の神々を祀る

神社の横、もしくは境内の中に

十一面観音や薬師如来という

赦しの仏

『悔過』の神を祀り

自分達のそれまでの罪までか

信仰する八百万の神々の罪までも

代わりに謝罪する為の寺

『神宮寺』である。

 

よくこのお寺は何々神社の

神宮寺だったのですよという

ものは

実はその神社の悔過の役割を

担う為に作られたお寺だったのだ。

 

つまり十一面とは

宗教学的見地からいえば

それ迄の人間とそれを信仰して

来た神の罪までもを

癒す枠割を担った神だったのだ。

 

そして歓喜天と十一面が出会ったのは

もっと古い。

それ迄タントリズムの神とし

ヒンズー教の一派の神として

用いられて来た双身の歓喜天は

恐らくは

その中に罪を見てとった

人々が

十一面と女天を融合させる事に

よって

『悔過』を為し

時代によるタントリズムからの脱却を

計る事で歓喜天は

密教の神への転籍を遂げる。

更にここから伺える事は

密教以前。ヒンズー教の秘法として

用いられていた当時は

歓喜天は女天の方が実は

重要視されていたのだ。

なぜならタントリズムとは

女性のシャクティという

女性的力動の概念を

その修法と思想の

中心に据えていたからである。

 

つまり、その中心的なる

女天の中に悔過なる十一面を

同化させた時

私達の今良くしる

歓喜天の今ある姿が完成したのであって、

 

宗教学的見地から

申しても

十一面とは

まさに

最も尊い赦しの具現者なのだ。

 

そして女天である。

 

この教化でお解りになった

と思うが

 

女天と男天の簡単は

密教が生れる昔から存在しており

その関係は恐ろしく

深く密である。

 

その関係に十一面が直接

介入する程

何やら恐ろしげな関係なのだ。

 

歓喜天の十一面が女天に

変化する伝説が

こう考えれば以外と新しい

事も解る。

 

そして何より

そのシャクティの力をもって

男天を虜にし

また凌駕し

密教以前の表現をすれば

おどろおどろしい

摩訶不思議なる

魔力を生み出すのだから

驚愕である。

 

歓喜天信仰は

一度決めた事を辞めると

祟られる。

その事を

上記の歓喜天の宗教学的

成り立ちから

考えても

私が伝統として来た

冬の大祭を夏の合祭にした

事で障礙を頂いた事も

解らないでは無く、

 

私達は

この冬の大祭で

十一面の悔過の役割に大いに

頼るだけでは無く。

 

この冬の大祭の主役であられる

シャクティによる修法の

本当の主役。

つまり太古の秘法の

一見恐ろしい程の魔力に

彩られる女天を

供養し、祀る事で

私達の信仰の

一年の罪と垢を流し

そしてその魔力で

成就に導いて頂けなければ

ならない。

 

まさに

女天様の男天様への愛とは

凄まじきものであって

歓喜天の愛とは

私達人間には

計り知れないものなのかも知れないが

 

しかし

そう魔力等の影の部分にばかりに

眼をやっていてはならない

ここはやはり

そのような宗教学的見地から離れ

愛染聖天様が

私に感応により

説かれる美しき大愛の思想に

心を

立ち戻らせ

そのような目で

女天様を心で思い見つめなければ

その事で

歓喜天というものは

魔人にも

善神にも変わるものなのだから

是非そうして貰いたい。

 

話はまた

とめども無くなってしまったが

この度の冬の大祭。

 

この大不吉の歳の最後の行事に

私は大いなる悔過を十一面に祈り

並々ならぬ奇跡を女天に願い

奇跡を起こしたいと思っている。

 

信徒のも皆もこの大祭

この教主である私の心と

どうか伴にあって欲しい。

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

 

若年は壮健とあれ、人は必ず

老齢を迎え支えを必用として行くものです。

 

それは心も同じです。

 

聖天教信徒よ。

心に支える杖を持つのです。

杖とは即ち信仰です。

 

そして、今にも倒れんと

苦しみもがく人がいたら

その杖を差し出して上げましょう。

 

きっとその杖は

それまで自分が救われたように

その人を苦しみから解放する事でしょう。

 

何故なら

私達の持つ

『聖天教―愛染聖天信仰』という杖は

この世に遣わされた

比類なき最高の救済の杖なのですから。