清浄なる故の悟り



今朝は、山中に足を運び、皆様のご祈祷の他に、篤信な信徒様のご家族が亡くなられたという

ことで、そのことで大変、行を立てたもので、水行にて延命、回向によって生まれた物を充分に

落とさせていただいた。  

祈祷の他に、大変だと思うかも知れないが、それは絶対に必要なことである。

尊天の前では常に清浄で無ければいけないからである。

私は皆様の為、特に秘法の方の為、壮絶な断ち物をしている。

一生、ご穀も食さない。

少し行者というものを知っている者なら、この意味の凄まじさはお解りのはずである。

ほとんどが尊天様の下げものを食すのだが(他の物も食することはある)

そんな中で見えて来たことがあるので信徒の皆様に功徳をいただける一助になれば

と教えて差し上げたいと思う。

私も肉を食べる事があるのだが、上記にしるしたように殆どが下げもの生活である。

当初は尊天様との契約により、必ずや皆を成就させようという意気込みからの断ち物で

その意味合いの悟りは何もなかったのが事実であり、有名な僧侶の方などは(少しタレント

のような方である)

肉食、節制をすれば栄養が付きすぎて、性欲、短気が増すので節制、断ち物による食事になり

人生感が変わったとおっしゃっていた。

当初は有名な方なのでその通りなのかと思ったものだが、このような壮絶な

信仰をして十年以上、私は あーあの方は何も修行もされていなかったんだなー

形だけの今では完全に飽和してしまった僧侶の一人だったのだなと今思うのである。

なぜなら私はこの信徒の為の壮絶な断ち物人生を通して、はじめの心と違い徐々に

なぜ、尊天様は十一面様は肉をさけ、野菜をこのまれるのだろうという、神仏の気持ちを

思いやる考え、疑問にかわっていったのだ、ただ苦行をし、なにも悟らずそれを続けていても

人々を救う神通力を得る事などできないと十年の苦行の道筋に光を見ようとしたのだ。

ご祈祷をとうしてなぜだろう、私も人間であるから食への渇望がある。あーあの肉が食いたい

魚が食いたい。いやいや今、大変な祈祷が入っているからだめだ、いや、あの信徒は我儘

だから救ってやらなくてもいい食えばいい など悪魔の囁きである。

こんな時は、必ずといっていいほど、祈祷に一段落がつき、断ち物を破らない範囲での

魚、肉、ニンニクを食した時なのである。

こういった時はあまり信徒様の動きに変化がなく、栄養があるはずなのにやけに疲れる。

しかし、こういった欲望が何もわかず あー今尊天様が下りていらっしゃると感じるときは

下げもの生活が続いた時なのである。

周りの者には栄養がないので倒れるんじゃないかと心配されるが、私は至って調子がいいのである

なぜだろうか?

答えは、野菜、果実は大地に芽吹いた美しい食物であって、その生態は食される使命を

もって大地の栄養をふんだんに吸収し、この世に現れる。

自己を犠牲にするためにである。

私はこれこそ、観音の心、慈愛の心からなる自己犠牲の尊い姿だと思うのである。

また、大地は信仰の栄養をふんだんに含んだわれわれの心だと思ったらどうだろう。

まさに我々の改心からなる仏性の開花による栄養によって見事に咲いた御仏の

花が美しくも美味な野菜、果実として咲き誇り、とてつもなく甘い功徳をその身を呈し

自己犠牲により我々に輪廻するのである。

そこに仏が宿るのである。

肉食は短気になっているのではない。

性欲が増すのではない。

その食べた動物の痛さ、悲しさ、衝動、叫びが、人間である行者の悲しみや、捨てたはずの恨み

妬み、叫びに、消化され血に紛れ込むと連動するのである。

決して食べた動物達の姿が見えるのではなく、感覚の波動が自分の同じ悲しみなどの気持ちを

震えさせてしますのである。

行者とは人を救う為、神仏の写し鏡ではなくてはいけない。

この悟りを理解し、行に徹すれば、本当の意味が見えてくるのである。

目を瞑ったとき、理解できなかった時に見えた尊天と、それを理解した上での

苦行により、見える尊天がまるで違うのである。

黄金に輝いているのである。

いつものごとくとりとめもなくなってしまったが、信徒の皆様は私の真似は絶対にしては

いけない、そんなことをしてやりきれなく大変な目にあっている方の為に断ち物の納め切り

を慈悲心をもって行うようにした。本来はあくまでも約束なのだから力になってはいけない

のだがしょうがない。

勝手に断ち物をしている人は私は怒らないので河口に言ってほしい。

とにかくやり通して欲しいが、心が途切れたら連絡してきなさい。

話は戻るが、故に、上記の水行も、大変と思うが大変ではない。

今日も二時間しか横になっていないが、調子がよくあまり手をつけない

ブログをかいている。自分でも思うが不思議である。どこから力が生まれているのだろう。

 

最後に、ようはただ尊天様の好きなものを食べたからとか断ったからにとどまるのではなく

その行いに偉大なご霊体の深い愛があることを体験により知ることで、尊天と

たちまち一体になれるということであり、なにより自分の心が尊天の写し鏡のようになり

愛を理解し、開眼していくのである。

求める事によって尊天の愛をコピーする。

愛の双方向、悟りの双方向、

これが八海が信徒様に苦行から学んだ悟りの一助である。

そんな境地で唱えたご真言こそが本当のご真言なのである。

私は、言葉で導くのが下手である。

この駄文、の中から、どうか私の言わんとしている真理を悟り一助にして貰いたい。

追伸

 奄美大島のご祈祷を篤信の信徒様のいつもながらの頭の下がる行動ですることが

できました。

相当の熱心さに涙がでました。

尊天はきっとあなた方の慈愛の心に涙していることであろう。