聖天神籤

前回は聖天神籤と心にけいら窟をもつようにというテーマを書くと約束していたが、忙しく

二つもとなると少々時間をとられて適わないので、今日は新しく信徒様の為に始めた聖天神籤に

ついて今日は話したい。

その前にまずは先日、大変な不幸がニュージーランドで起こったがその被災された、また亡くなられた

方の為にご祈祷をしてくださいとお布施をされた方に、その慈愛の心へ感謝と、間違いなくそのお心

尊天にお伝えする旨をご報告したい。

教会では私も率先して今回の地震においての早期救出、復興を尊天にお祈りするため祈祷段を深夜

ご祈祷しています。

その為にお布施された方々は、二、三日したら、私の手紙と歓喜団が届くと思います。

あなた方の純真なる心、思い、尊天とともに敬服いたします。

 

さて今回より、行う事になった聖天神籤についてだが、古来から他の神仏には及びもつかぬと

言われる程、尊天様のおみくじはそのままの事を厳しく言い当てると言われている。

それだけ威厳に満ち、また救道の精神に満ち溢れているといっていいだろうが

いつも、信徒様が尊天様は今どう思っているのでしょうか?

彼はどう思っているのかなど、信徒様のこのような悩みは尽きない、そこで主宰である

私が直接、特別な法を持ち真実の尊天の言葉を聞くという技をし、信徒の皆様の

毎日の信仰の道筋の糧にしようではないかと始めたのである。

おみくじは別段人に引いてもらうのはと思う方もおられると思うが

それは自分よがりというもので、正しく、念をぶらすことなく、また尊天に一番近い処に

いつもいてお仕えする私が引いてはじめて真実が見えてくる。

そういうものなのである。

河口のそのことには大変驚いていて、旦那さんが酒を今日は飲みに行っていいか先生尊天

様に聞いて下さいと私が頼まれ河口夫婦に前で引いたところ程ほどにといそのままの

卦がでた。実は本人は断酒をしていて、何度か尊天にやめろと言われていて、今日ぐらいは

というみくじだったのだが、その晩飲みにいって友人にその話をしたならば

 

そんな出来た話があるものか、そんな的確に言ってくれる神様がいたら俺もあってみたい。

と、どこまでもそんな不思議な話なんか聞かないと、からかわれたそうだ。

そのはずである。

昨夜は秘法に入っている方だが、この方は感情の起伏が激しく、尊天も腰を落ち着かせ

しっかり信仰するようにといった感じの油での指導をこの方にしておった方だったが

案の定、尊天のお言葉としてきちんと信仰しなければいけないと少し強く、しかも尊天様の

前で指導したところ、

私まじめです。わかりました。そうおっしゃるなら一日十回でも二十回でもお祈りしますよ。

と叫ぶも宜しく、尊天の聞いている前で私にぶちまけた。

私はもちろん怒ったがその方にみくじを頼まれていたのでそのあと

引いて差し上げた(本当はもう辞めてもらおうとこの時はおもっていたが)

これが64番凶である。

しかも凶も、凶、大凶である。

尊天も烈火のごとく怒っておみくじでその思いぶつけたのであろう。

ないようは最後に、よくよく信心しないと大変なことになるという言葉がしっかりと

かかれていた。

どうだろうか不思議ではないだろうか。

他にも最上品で入った方が凶を引いたが、最上品がおみくじの力を祈祷により滅し

悪い運命をおみくじもろとも消し去る作業をするので却ってこの方は

おみくじにより膿を出し切り、それを滅し、新たないい運命をつくられたので

それも尊天にお導きと感じた。

とにかく尊天のおみくじは神が宿る。

おみくじというのは適当に引いたりするとその運命をつかさどってしまい勝手に

影響をはじめるので

悪い、、また大吉など良くても内容が悪いみくじは注意が必要であるし

尊天は辛口だがいいおみくじがでても油断していると大吉がすぐに急転直下凶に変じて

いくので上記の方のようにならず、常に謙虚に信仰をしなければならない。

またおみくじをなさる方は、私はあまり最上品などはおすすめしない。

これは本当に人生の岐路だと感じた時をお勧めする。

お勧めするのは下品や中品を使い、毎日でも何の気なしでお言葉を聞き

生活のいい道具にして欲しいものと思っている。

下品や中品は毎日の祈祷の直後、すいすいと引いて差し上げているので上品や最上と

違って別段にて手間をとって引かないので、私を気遣うことはないので安心して引けばいい。

 

最後に大凶をだした信徒だが私は見捨てる事にした。

みくじがでたあと私が色々諭したしもかかわらず、泣き叫び、最後には

私がそのままだと、えせ占い師の処にいっている人間に心持ちと一緒だといったところ

私は占い師のところなんていってない。

と私に叫んだのだ。

この私は占い師の処にいったろ?なんて聞いてもいないのにである。

ご尊天が直接みくじにより怒りの言葉によって導こうとしてもこの始末である。

しかも私は言葉の中で、成就した方と大変な道のりがあったと話しているが

こんな言い方をされたのは初めてである。

私は尊天に仕え、その行者と言われるものより、尊天の使いといえると

自負している。

その私に向かってそのような言葉を吐くということは、尊天をも侮辱したに等しい。

信徒様は私の名を唱えたら、事故から脱することが出来たとおっしゃって下さる

方が沢山いる中である。

それもそのはずなのである私は常に信徒様を尊天を体に引き入れ護る作業をしているのだから。

昨日の夕方から私はどす黒い血尿がでた。

信徒に悪い方、尊天の約束を破った方などがいると私の体調にすぐ現れる。

それと壮絶な断ち物と祈祷のせいかもしれないが、上記の方がいたのだから

やはり断ち物のせいだとは考えにくい。

しかしあんな血尿が三度もで、さすがの私も命というものを考えた。

こうなると、上記のような心持の信徒、行者はどう思うだろうか?

尊天を拝んできてなんたることかとすぐ他の神仏に逃げたり、泣き言ばかりか罵詈雑言である。

しかし、私は、この八海光道は違う。

この非常に危険な状態、病気も尊天の祈祷の道にいて、恐らくは信徒様方の為に

尊天に訴え続けた苦行がいろんな形ででたものである。

まさに喜ばしい、救済という形が招いた。

尊天の誓願と同じ、美しい形である。

今この状態において私は、自分の命を懸けた素晴らしい神仏と

深く供になれているのだ。

それでは死んでもいいじゃないか。

意識がなく、この世を後にするまで尊天に信徒の救済を祈り、この人生往生しようでは

ないか。

私はそう思っているのである。

上記の方に言いたい。

これが尊天の求める信仰の形なのである。

前に書いたが、皮一枚隔てた信仰と皮一枚剥き去った信仰の

差なのである。

この強烈な信仰はなにも一般信徒ばかりに求められる精神ではない。

                               合掌

次は雞羅窟についてお話しましょう。