魔性



私は隠したかった。

我が御本尊が何故に他の聖天を

超過しているかをである。

それは

一般の信徒に向けてでは無く

 

行を重ね

修法に長けた者に

常に先んじた者であろうという

私の未だ至らぬ

醜き心がそうさせてしまって

いたのだろう。

 

かつて私は

愛染聖天様が

何故に愛染聖天様なのかを

正直に語ったものだったが

 

余りに不思議な事ばかりが

身の周りに起きる

その神霊の体験に

私はその力を

いつしか私は己の中にのみ

独占しようという

悪の心の苛まれるように

なってしまったのだ。

 

その思いが長じ

遂に私は

信徒の皆に

我が愛染聖天が

取り込んだ

愛染明王の意識の

在り処を

隠蔽し、皆に伝えたのだ。

それはそんな前の事では無い。

 

しかしそれからというもの

私に障礙が起き始めた。

日々鍛え上げた

断ち物による食の節制により、

糖尿などの卦などあるはずもないのに

(私は一滴も酒は飲まない)

尿は匂いを帯び

腹は痛み

二座目を終えたあとの

必ずとる仮眠では

必ず

まるで愛染の炎に包まれた

本尊が

まるで自分の存在を隠した

私を怒っているかのように現れ

目覚めるのだ。

 

その時から

視力も格段と落ち

小さい文字が見えなくなった。

 

私は視力に自信があったので

これも

御本尊様に

「この心の目暗め」とお叱りを

受けていると思ったのだ。

 

私がこの活動をしてから二十年は経つ

その間の法話で

私程、荒行を重ね

命の瀬戸際で聖天法による救済の実践を

行った来た者はいない事は

判って頂けると思う。

また、日々成長をも遂げて来た。

その一挙手一投足を見つめて

ついて来てくれた信徒には

私が愛染聖天様の在り方について

ある時

いきなり上記のように

まるで隠蔽するかのように

変わった経緯を申した事を

既に判っていて

くれていたのではないだろうか

 

それだけ

私達は御本尊様を中心に

まるで家族のようにつながって

いるのだから。

 

以上のような経緯もあり

自分への

聖天様の怒りを解く為にも

私は新しいHPを改変し

真実の愛染聖天の姿を

世に顕にしたという処もあるのだ。

 

十年前位前だろうか

19世紀の欧州のファンタジー小説

で「指輪物語」という話が

映画になったが

 

我が愛染聖天の力は

あの指輪に似た

魔性の魅力がある。

霊感のある信徒には

それが誰よりわかる

からこそ

引き寄せられ信徒になった

者も少なくはないだろう。

 

 

日々飽くこと無く繰り返される

我が行法に於いて

 

私はまず

三千大世界も遠く及ばなない

不可得なる母なる愛の意識の海を

瞑想し

やがてそれを充分に獲得した刹那

私は一粒の智という不可得の動の

意識が詰まった

しずくが

その大海に落ちるのを感じると

「阿」という世界が隆起し

受け入れる愛と

働きかける愛が伴に共生した

三千大世界の始まりの創出を

達観するのだ。

 

私は

この世の創世記を大日如来

若しくは愛染聖天に成り代わり

辿る、いやそれは

まさに

愛染聖天様なのだ。

 

その道筋は全てが菩薩行である。

 

我が辿る

内実は我にあらず尊天である

 

その「阿」であり「ギャク」に

よる爆発の如き世界の始まりは

 

我が心内に無意識と意識と愛と

形を作り出す。

 

無意識は風であり

意識は火であり

愛は水であり

その三つがまたも輝き

己の姿と並行し

世界という姿が現れていくのだ。

 

その世界は泰然と構えた時

全てが円也と感じ

大きく息を吐くと

全てが平等であると感じ

大きく息を吸うと

全てを愛す境地に至り

その境地は全ての存在を

導く為の光となって

更に輝く

 

その繰り返しが

大宇宙に美しい世界を

創出していく。

 

その全ての行い

事象は

全くもって美しい

菩薩行なのである。

 

やがて長い歴史までの

創出を感じた時

 

愛染聖天一人だけの世界に

一末の寂しさが現れる。

不可得のはずだった世界に

終わりという陰りが見え始めるのだ。

 

すると

その刹那

愛染聖天を包んでいた

愛染聖天自身の世界が

突如女天という一個の神となり

一人であった男天を包み込む

奇跡が起きる。救済の奇跡の

出現である。

此処に於いて

お二人は

真の双身愛染聖天となられ

お二人が見つめ合ったその瞬間

お二人の内心にあった

すべての如来、菩薩

天部の意識が

外へと迸り

この世に現出し

共有する意識達は

夫々の星を作り出す。

 

夫々の星の中で

愛染聖天の本当の愛を知らない

意識、

要するに

愛染聖天様の中にあった寂しさの部分

の意識が閉鎖された次元を作り出し

救済を願う世界が

悲しくも現れる。

それが六道である。

 

その時私は感じるのだ

 

この六道の世界は私一人が

創り出しているように見えて

この世界に住む皆が創りだしている

皆が創りだしているように見えて

私自身が作り出している

このようなオウムの返しのような

達観を繰りかえし繰り返し感じている

と、

やがて

私の悟りは

この世界全ての生命の悟りであり

全ての生命一人一人の悟りは

私の悟りだと感じるようになる。

すると

私は目の前に広がる

空間に広がる空気、天、大地、海の中に

悲しさや怒り、嫉み、妬みが

なみなみと潜まれていると感じられ

それが巨大な輪廻のうねりになって

私を苛むに至るのだ。

 

その時私は思うのだ

 

この巨大な悲しき輪廻のうねりを浄化するには

例え我が一人であっても

この小さき心内に

この世の教典たる

愛染聖天の意識を写さなければいけないと

 

そう達観した時

 

煌々と照らす

燈明と胡麻油の嗅ぐわいの中で

まるで聖天の神の光を

私が、信徒が

いやこの六道全ての生命が

まるで

待ち望んでいたかのように

私の修する愛染聖天の秘法の幕は

おもむろに開き

そして展開されて行くのだ。

 

 

 

そして私は感じるのだ

私もそして信徒も

私達人間のみならず

この六道に存在する神々さえも

我らが眼前に広がる

六道世界の輪廻から抜け出せないでいる

要するに私達自身が

あらゆる因縁をもっているからこそ

この世界を伴に作ってしまっているのだ。

 

だからこそどんな過去に存在した

聖人でも

瞑想や荒行により

獲得した境地であろうと

六道の因縁で作り上げられた身に

あるが故に

元の人間に戻ってしまう事も簡単なのだ。

 

どのような聖人も

今日信仰を志そうと思った

人間と

それはいつも同じであり

逆から言えば

聖人と

悪人も同じ煩悩の瀬戸際に

立ち

この六道の輪廻を揺られているの

と同じなのだ。

 

それ故

私はいつも思うのだ

常に愛染聖天の真の姿を

心に映す作業を怠ってはいけぬと。

 

そう毎夜秘法を修し思いながらも

私が落ちた魔性と

それによる障礙は

やはり、愛染聖天様が

私に真実の姿を

映せ映せと言っていたのかも知れない。

 

そして愛染聖天の魔性とは

あまりに

美しく偉大な導きの神力の光が

私達六道の悲しみの意識の

眼に映った時

その光を私達が美しく常に

あろうと

良く心掛け見つめなければ

それはたちまちに屈折し

魔性の光に変わるのではないだろうか?

 

魔性とは

常に私達が作りだす、病んだ光なのだ。

 

至らぬ私を許して欲しい。

 

因みに

HP改変後不思議な事に

一切の障礙は

私から立ち去った。

 

愛染聖天様の大いなる

美しく躍動する大生命を感じた

出来事であった。

 

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

 

追伸

 

皆は自分の頂いた

功徳をどう見つめているだろうか?

真の功徳とは

どういったものだろうか?

 

功徳の中には

一時の成就の満足を

感じた後

まるで

落剝するかのように

消え去ってしまう功徳もある。

 

しかし

本当の功徳,

愛染聖天が下さる

真の功徳とは

 

しっかりと

己の身と心

そして運命に

膠着し

離れない

まったくもって

己の身になって

離れぬものである。

 

このような

功徳を頂く為に

聖天教信徒であるならば

どうすれば良いだろうか?

 

その答えは

己の歩む信仰の道を

もう一度見返してみる事にある。

 

道は一日にして成らずと云うが

誠にその通りである

そして歩む道が

多岐あったとしても

身一つの人が

同時に沢山の道を

絶対に歩めはしない

 

人が歩む道は

やはり

一つなのだ。

 

私達は

この

愛染聖天信仰という

一本の道を歩んでいるのだ。

そしてその尊い信仰の

道を日々開拓もしている。

 

その道の上に立ち

心を開いてみなさい。

よくその道を見つめ

悟って見るのです。

 

その行為にこそが

愛染聖天の

落剝せぬ

真の功徳を頂く

近道なのだと私は思う。

 

 

愛染聖天信仰の道とは

私の、そして信徒皆々の

だた一筋の掛け替えのない

美しき人生の道に他ならない。

だからこそ

伴に常にこの道を見詰め

真の功徳の道を

歩んで行こうではありませんか。