エリザベス女王の死と三昧

八日世界で最も長くに在位なされた君主

エリザベス女王が逝去された。

 

そうである。

年頭に於いて私の予言がまたも

的中したのだ。

 

聖天教の大祭行事に於いて

これは誠に不思議な事ではあるが

私が

いざ愛染浴油供秘法修法の座に付き

一度

菩薩教導油海円満の杓を握りたれば

 

もし御本尊御歓喜盛んなるをもって

衆生救済の顕現を咆哮せし砌には

その時節の行法は

必ずといって

世間では天変地異が起こり

また、私と愛染聖天が感応遂げ兆した

数多の霊言が次々と現実的中となって

世に具現を遂げる。

 

そしてこの度の秋の大祭。

 

御本尊愛染聖天様に至っては

どれ程のお喜びと

我々衆生に対する救済の念を

高揚発揮されたのだろうかと

我々にとっては喜々として

慮ってしまう程の

この度は、数々の霊言的中が成った。

 

その霊験一切を一々上げ連ねれば

いつもの事ながら誠きりが無いので

割愛するが

 

斯くして

そのような御本尊大歓喜の調べ流るる

この度の大祭中。

 

遂にあのエリザベス女王がお亡くなりになった。

 

信徒の皆は、このエリザベス女王の死

をどう捉えられたであろうか、

 

ただ単に私のこの神通の御業の的確さに

驚嘆しているばかりなのであろうか、

 

しかし私は

このエリザベス女王の死を

御本尊愛染聖天様の信徒皆々への

何よりの強い大愛導きのお言葉の具現と

悟り得ている。

 

それを申せば

 

まず女王は実は三年前に死んでいる。

というか

私がその死を初めて予言した令和元年。

もうその魂の糸は切れていたと言って良く。

それは肉体にそよそよと留まっているに過ぎなかったのだ。

 

私には

愛染聖天様より授かりし、神通の霊能。

霊視見通す

常人には無い霊力が有る。

 

その事は、確かな現実として

ほぼ毎日にように世にその私の霊力を

示して続けている事で

周知、明らかなる処ではあるが

 

その証左として

令和元年以外のエリザベス女王以外の

欧州の王族に関する私の霊視は

まるで傀儡子が人形を操る如く

また古の陰陽の輩が式神を操る如くに

如実その通りに現実になった事を思い返して

みれば解る。

 

私が唱えれば

スペイン女王は死に、ローマ法王庁の僧侶は

余りにも多く亡くなった。

そして令和元年以降。

エリザベス女王の御容態も

私の兆した通りの変遷を踏み

そしてこの度、その余りにも尊い死の到来を見るに

及んだ。

 

では何故エリザベス女王は

私が令和元年に予言して以降、三年にも渡り

この世に留まる事が出来たのであろうか。

 

その答えは、世に在る実のある宗教家なら

皆明解に答える事であろが

 

それは一言、皆がエリザベス女王に

生きていて欲しいという祈り

つまり『愛』が

三年もの間、奇跡を生じさせておったからだ。

 

これは前にも何処かで皆に教化したと思うが

エリザベス女王を思う世の人々の愛は

とても清らかでしかも強いものであり

その愛の祈りこそが、見事なる生命の奇跡を

齎していたのだ。

 

『愛』にはあらゆる願いを現実ならしめる力があり

奇跡そのものであり

私達聖天教では

それをもっと追随した存在へと格位し

『大愛』と教義しているだけでは無く

また、その存在は、御本尊愛染聖天様そのものであると説く。

 

故に私は、この度のエリザベス女王の魂が

何故に我が聖天教の秋の大祭にその体を離れたかを

その事象を

一宗教家として、また聖天教という団体を主宰する

教主として捉えたならば

 

それはやはり

大愛そのものである御本尊愛染聖天様が

そのこの度の大祭により大歓喜に及ばれた分

尚の事、血縁ある皆々に

本尊としての教え

何より

その大教義でもある

『大愛』そのものであられる

御自分の教えの何たるかを

大歓喜により高揚せし

その尊き御心が導きそうさせたのではと

悟れてならないのだ。

 

信徒の皆には

この私のように、愛染聖天様と語り合える

術を持たない。

 

故に愛染聖天様は

この世で、どのお神様、どの八百万大小聖天よりも

教導激しきその御心だけに

縁付いた者には

己れの言わんとする事を

如何にか解からせようとする。

 

その一環としての大神として行為こそが

大祭に於いての天変地異の発現や

霊言の的中などであると

私は、教主として、また一人の行者として

固く信じ、そして悟ってならないのだ。

 

また、それは信徒の細々として

生活の中にも

常に見え隠れするものであり

 

そして、そのような悟りというものは

愛染聖天様の教えにもあるように

最後は自分で悟ってこその最上の悟りであるのだ。

だからこそ

信徒の皆は、私の霊験により引き起こす

数多の奇跡なる事象に対し

常に、愛染聖天の血縁者たる自覚をもって

真摯に向き合い、そして悟り

我がものと成して行かねばならないだ。

 

神仏の言わんとしている事が解かり

人は初めて本当の功徳の果実を得る。

 

それは高い製品を買っても

良く説明書の導きを体得せねば

三年も四年も経ってから

この製品にはこんな素晴らしい機能も

あったのかと嘆息を漏らす結果になる

事と同じで、

愛染聖天様の素晴らしき功徳も、エリザベス女王の死の

中に見てとれる、愛染聖天様の何をか言わんと欲す

その教えの何たるかを悟り聞かねば

その素晴らしき本当の果実を得たとは言えないのだ。

 

勿論。

そのような事象を、気のせいとばかりに

普段の生活の中に放逐してしまうのも自由であり

そのような考え方こそ、現代の普通でもあると

思うが

 

私達愛染聖天信仰者、曳いては全聖天信仰者

いや、全ての神仏の教えに帰依し生きる者は

その普通に放逐されがちな事象を

神言と捉えてこそ

そこに神との心での感応、邂逅があるわけで

それがなければ奇跡など

実に起ころうはずなど微塵もないのだから

私とすれば

どうか信徒の皆には、このエリザベス女王の死を

始め、様々な、普通では考えられない事象に於いて

その度に深く神仏感応悟りを遂げて行って欲しいと

思うばかりなのだ。

 

鳥は初めは羽は無かった。

飛ばなければいけない状況になり

何万年も掛けて遂には羽が生え

彼等は自由に空を飛ぶに至った。

 

ダーウィンの進化論である。

 

しかしこの論理は科学的と見做されしも

実は、実に宗教的奇跡を説いていてならない。

 

何故なら

鳥は、生きる為必要に応じて

羽を肉体に生じさせた。

 

つまりそれは

『生きたい』

という願いであって

 

その願いはただ漠然とし飄々なる願いに

留まらない

曳いては『子孫を生かしたい』という

自己愛だけに留まらぬ

種の存亡、生命の存続、つまり解り易く言えば

我が子、我が孫に

対する強い大愛なる願いが

空中を自在に舞う事の出来るという

生命進化の奇跡を生んだと言えるのだ。

 

これは正に

神の奇跡であり、その教えを説く

宗教の持つ奇跡の証明なのである。

 

私はこの願いこそが

エリザベス女王の死を三年もの間

遅延させた奇跡の源泉と説く。

 

そして私はこのような

深い願いの中に存在する

大愛の境地こそ

 

よく信徒様がその状態は一体どのようなも

ものなのかを

毎日のお勤めの中に追求してならない

神仏との感応の境地の神髄であり

 

即ち

その神仏との深い大愛の願いの中に

深く分け入り境地耽る心の在り方

境地こそを

私は三昧と説くのである。

 

三昧とは

簡単に仏教的に単純に申せば

一切を捨て境地に至る事であるが

 

これを密教では

漠然とした心境の中に

一切の衆生は平等にして

その気付きに対し深い驚愕を得たならば

一切の不幸が消え去って行く境地と

説かれ

その境地に至れば衆生を救済しようという

気持ちが自然と生じるという。

 

そして密教の曼荼羅にも見えるように

各会に渡ってその世界の神髄を表わす時に

密教では三昧耶形をもって表わす

例えば十一面様なら宝瓶とか聖天様なら

傘や宝剣や弓などである。

 

要するに

私達が薪を切り

米を炊く時にも

 

密教で

金胎両部の修法を始め

様々な修法を祈る、その成就法の階梯の中にも

 

それに留まらず

様々な宗教の祈りの中にも

 

いや、朝起きて通勤する為に向う

その歩みの中や

顔や手を洗う行為の中にも

 

その道に長じれば三昧の境地に至る

というのである。

 

当たり前であろう。

それら

私達の生きるという様々な行為に

着目すれば、また

密教だの何々教だのが一々難しく説く

その教えを

詳しく紐解き辿れば辿る程

其処には境地が存在する事は

何もこれは当たり前の事で

これは幼き子でも理解するのは容易な事。

 

しかし

私はその三昧という境地一切に

『愛』

『大愛』があるとするのである。

 

畢竟

三昧という境地曰く

『大愛』生じてこそ開けりと説くのである。

 

私は一切衆生、つまり人間の意識を基とする

その存在の構成は

第一に無意識という心の境地。

第二に意識ある心の境地。

第二に愛という心の境地。

そして

第四にこれらの意識から発する

行動行為という境地。

より成り立つと兼ねてより説いているが

 

しかしこれには矛盾がある。

それは、決定的に人、そして一切衆生は

第一の無意識と第二の意識さえあれば

そこより第四の行動行為を作りだし

生きる事が出来るのだ。

つまり、第三の愛という心が無くても

生は享受できるのだ。

 

しかし

もしあなたが無人島に漂着し

一人で生活しなければいれない状況に陥った

として、

その一人の生活の歩みは

必ずや

ただ衣食住の確保の中に明け暮れ

愛の心を必要としないはず。

 

だが

そのようなあなたの生きかたは

本当の『生』であろうか?

 

いやそうでは無い。

そうであるはずが無いのだ。

 

もしその無人島でただ生きるだけに

生きるあなたの前に

愛する者が生れ

また愛する物ができたならどうだろう。

 

これまで無意識と意識ある心しか無く

それから生じる行動をもって生を享受して

きたあなたにとって

愛心という心の存在が足された時

あなたはどれだけの満足を

その意識の中生じさせる事が出来るだろうか。

 

そして確信するはずである。

『愛心』=『大愛』があって始めて

自分は生きるという喜び、生命存在最上の意義を見付けたと。

 

私はこの『愛心』=『大愛』を自分の意識に見出す所作、境地こそ

三昧であって、

 

即ち、長じて考えれば、この三昧の境地は

歩いていても、米を炊いても

その中に『大愛』の境地を探せば

必ずや最高の三昧を得られる

要するに、米を炊く事を真から愛していいし

また、恋人の為、子の為、家族の為に

美味しい米を炊いてあげようという一心なる

その心の中に『大愛』を見付ける事が出来る。

そして

それを見付け歓びを感じた時

人間は必ず、どのような分野でも

名人、つまり三昧の境地に到達するもの。

 

密教で云えば

例えどのような成就法の階梯に於いても

その中に『大愛』を見出せば

必ずそこに素晴らしい三昧なる境地を得

仏道の宝果なる悟りを得る事は必定。

 

金剛界で云えば

降三世三昧耶会、降三世会、一印会、四印会、

供養会、微細会、三昧耶会、羯磨会

どのような場合に於いても

この『愛心』=『大愛』を見付けられ

行法三昧に及べるとすれば

それは正に

行者として最上の宝果を得たと同じだと

誰もが思う処である。

 

因みにこの曼荼羅世界に於いて

三昧耶会の意味するものは『誓願』。

つまり、一切衆生救済の決心を意味する。

その救済の決心あるからして

三昧耶とは一切が平等に見え、そして

一切の穢れが祓われて行くとするのだ。

 

そうである。

正にそれは『大愛』に他ならない。

 

面白い事に

既に密教の中にも『大愛』を探せば

それに似かよったものが

きちんと存在していたのだ。

 

しかし、近代から現代に生きる。

僧侶を始め宗教家達は

それを知っていてもそうとは解釈はせなんだ。

 

三昧の真なる意味にして

全ての行法だけに留まらない

人間、いや一切衆生の最も大切なる

到達しなければならない『大愛』の精神を

己たちの先達先人が残して来た

素晴らしい教えの数々を

その通り受け取ろうとはしないのだ。

 

何故なら

其処には非常に厳しい

己一切を捨てて他の為に生きんと欲す

恐ろしい自己犠牲という思想が横たわっている

からだ。

それが『大愛』なるものの究極の本質であり

本物の行者と呼ばれる者が

持たなければならない強烈な矜持なのだ。

しかも

それを追求すればする程

その大変厳しい、自己犠牲なる愛の道は

途方も無い輪廻に於ける

歩みを

自然と数多の神仏からなる大宇宙の意識は

懇々と行者に説き、そして導き

離そうとはしない。

 

斯くして

現代の行者達はこの厳しき自己犠牲なる

長い長い輪廻の道を歩もうとする者から

逃げおおせてしまうのだ。

 

それは

妻帯し、性交を行い神仏歓喜の教えと

外道を説く者もいれば、

やれ、どこぞの宗教大学に居て

偉い僧侶を知っていると言っては

享楽に耽る事を止めない。

 

いや堕落したその精神は

その快楽享楽を

止める事が恐ろしい

と行者である身でありながら

思うまで魂が

凋落してしまっているのだ。

 

行者とは、聖天行者とは

欲を捨て他を救う道に

生き、そして死に

更には

この六大地獄に敢えて何度も

転生し、途方も無い

その救済三昧

つまり『大愛』の道を歩まなければ

ならないのにである。

 

だからしてである。

 

沢山の学ばかりのある

行者達の説く、宗教学には

まるで競うように沢山の意識が

存在し、それは生れ続けるのである。

 

何故なら

その三昧なる愛心の境地

『大愛』なる自己犠牲の境地を

享楽の道に堕落している故に

決して認めたくないし、見たく無いし

悟りたくないからなのである。

 

だから、この意識は駄目だったが

今度はこの意識を見付けたからには、

ここに自分の欲を満足させる

境地があるに違いない。

そう思う繰り返しを延々と

そういった者達は生業行じ続けているのだ。

 

いつもの如く少し横道に

それてしまったが

話を戻せば

 

果たして

信徒の皆には

この度のエリザベス女王の死の私の霊験から

どうか

是非ともこの私が説く『三昧』なる境地

つまり『大愛』なる

美しくも厳しい自己犠牲なる

素晴らしき愛を

勉学して欲しいのだ。

 

勿論

皆には、

私のような生涯輪廻を掛けた

恐ろしき自己犠牲は求めるものでは無い

 

しかし

皆が、そのそれぞれが持ち合わせる

願望というその煩悩を

愛染聖天様の手により満足して後

その心には

必ずや

清浄なる愛なる心を養い築き、

世の為、人の為、この三千大世界

一切世界の為になれる衆生へと

成長を遂げなければならなし

そうなるように努力勤しむ生き方を

して欲しいのであって

そのような『大愛』の道という

大変厳しい思想の

僅かなる片鱗を垣間見

生きてくれる事こそ

私の皆に期する処であるし

愛染大聖天の神想う処なのである。

 

この境地の片鱗を

その心の片手に僅かでも

持ちさえすれが

爬虫類に羽が生え、やがて鳥になったように

キリンの首が長くなったように

象の鼻が長く進化したように

 

必ずや皆の願いも

奇跡を遂げて行くのである。

 

それが

エリザベス女王の魂を

三年もあの肉体に留めた

素晴らしき清らかな祈りの力

『大愛』なる『三昧』の力なのだ。

 

私は

この度の秋の大祭。

私は愛染聖天様が

この教えを

皆にその大供養の果実として

一番伝えたかったのだと、そう思う。

その為にエリザベス女王が亡くなったとしたら

それ程

我々聖天教にとって有難い事は無い。

 

ともあれ、一切の教えの垢を清浄洗い流す

日頃の信仰の罪を無意識であっても

侵し続ける信徒の為に

愛染聖天様のお告げにより始まった

この秋の大祭ももう残す処

結願の一日のみとなってしまった。

 

古来より

『お陰』という言葉があるが

このお陰とは

良いお陰もあれば

悪しきお陰もある。

 

例えば

努力のお陰で何々の試験が

受かったとか

 

悪さを重ねたお陰で

大変な目にあったとかである。

 

このお陰とは

人が存在している限りは

付き纏う、人生の陰

つまり因縁なのであるが

 

人はこのお陰の積み重ねにより

良い人生を受け取ったり

また悪いお陰のせいで

不幸と悲しみを被り

死んでしまったりもする

 

また、

この陰がなくなれば

人は存在しなくなる

つまり死んでいる事を意味する。

 

欲望を沢山持つ者の

このお陰は、無論、欲望黒く染まった

お陰に他ならず

 

特に聖天信仰に頼りし者達の

お陰は、困難な願いも成就させようと

いうのだから

決して皆、良いお陰はあろうはずもない。

 

しかしながら

そのお陰を歓喜天の力で

功徳導き、やがては清らかなるお陰に

変えて行く事を成さんとするのも

また聖天信仰の神髄であるし

何より我が聖天教=愛染聖天信仰の意図する

何より教えなのであるのであるも

 

だがしかし

この煩悩に偏ったお陰を持ちながらも

愛染聖天の力で

良いお陰=つまり最上の功徳成就を

得んと欲す者が

その大神の導きの有難さに反し

日頃、信仰の間違いを犯し続けたらどうであろう。

 

必ずやその者は

そのお陰に押しつぶされてしまうだろう。

 

そういった

信仰の間違いを洗い流し

本来のそれぞれの信仰のお陰

曳いては

良い神のお陰へと清浄改善していくのが

 

この秋の大祭に行じる

納め切りの業なのである。

 

知らずして犯す

信仰の間違い。

 

増して障礙厳しき聖天信仰なら

尚の事

己の陰を清浄たらしめる事は

これ必定の儀にして

 

この度秋の大祭に参加し

納め切りを依頼した方は

最後結願のこの日が最も大切であるから

覚悟してそれぞれのお勤めの壇に

向って欲しいものである。

 

それもそうで御座ろう。

 

今、正に結願の始まらんとす

十一日のこの夜半。

木星が最も月に接近するという

 

我が行法の神髄は

正に月に満ち欠けにあり

これに木星が遭遇せしは

正に吉兆この上無き

増大を見せるのであって

この度の大祭

正に我にとっても

依頼した者達にとっても

稀に見る、星々の御守に満ちた

納め切りの秘法となるであろう。

 

我が修せし

愛染毘奈夜迦秘法に於いて

一に護身整い極め終われば

やがて我は

その煮えたぎる油中に浮かぶ

信徒皆々ばかりか

この三千大世界全ての衆生の

煩悩熾盛明らかなるを

炎焼見定めるに至る。

 

するとそれは

俄かに広がりを見せ

大地大海を飲み込む程の油海と

変貌を遂げる。

 

そして先程まで

まざまざと感じてられてならなかった

その熾盛なる煩悩ばかりであるはずの油海。

 

その燃え盛る願いの実は、

実は天界銀河の星々を映して

ならない海面ばかりである事に

我が気付くに及ぶと

 

俄かにその広大な油海の、一番底深き処より

ギャクの字現れたり。

 

すると、それはやがて一字金輪へと変じ

続いてそれは

その煩悩熾盛の油海、海面を突き破ると同時に

次には粛々と

天空に慈愛を湛えてならない

あの月へと上昇を始め

すると途端にその姿は

世一切の悪神を降伏し

一切の天変地異を操る

熾盛光仏頂尊に変身を遂げるに

及ぶを我は見るに至る。

 

さすればのち、

我はそっと眼前の油湛える

その熱き多羅に

金色の八葉の蓮華座を据え

次に摘んだ白檀を、そっと油海に放つのだ。

一切衆生救済の三昧をその境地に

抱きながら。

 

『入座油鉢中蓮華変荘厳

納受栴檀香庫尼変油鉢』

 

而して

その金色の蓮華座には

一切の罪障までをも燃やし尽くす

調伏の歓喜天

愛染毘奈夜迦明王が既に

顕れ坐している。

そして我は、その燃え盛る恐ろしき炎を

纏ったその明王の姿に

先程月に昇り

我を見守った

あの熾盛光仏頂尊の

垂迹を

まざまざと感じるに

及ぶのであった。

畢竟

正に、それこそが

我が愛染毘奈夜迦明王法

その秘法の扉が開かれし

その時なのである。

 

令和四年秋の大祭。

我、いざ最後の大法の座に向わん。

 

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

『己を卑しく思うべからず。

 

燈明も火を灯さんと欲さなば

灯らぬもの。

 

その灯さんと欲す心こそが

仏心そのものなのであり

 

つまりは

それは信仰へ歩まんとする

求道の心そのものなのである。

 

故に

例えどのような過去に

自分を悔やみ苛なもうと

その心が在る限り

汝は尊いのだ。

 

例えどのような悪人であっても

その心の欠片が在る限り

そのものは導かれなければ

ならぬのだ。

 

聖天教信徒よ。

さぁ、自信を持って

御本尊様に

その面を向け、

手を合わせ、

信仰深めて

いざ

心願成就に

迎えませい。』