御性根(しょうね)の思想



 正月の祈祷から、これからまだまだ気の抜けない祈願の日々が続くのだが、

二月十四日を過ぎ、一息つけたところで信徒の皆様に言葉をかけたいと思い

筆をとらせて頂いた。

 今日は、お題の如く、お性根の思想について教化したいと存ずる。

が、その前に、心砕かれんばかりの心痛をもって静観させて頂いた

連日続く雪害について、大変な思いをした方々への慰労を心から申し上げたい。

このような天候不順による影響を受け、信徒の皆様には

一般生活において不安を感じ、この一年、また去年のような

死を招く天災が起こらないか不安であろうと思う。

私は雪国の生まれなものであるから、雪には慣れているというか愛着まで

あると言っていい。

であるから当初の大雪という報道に、雪は確かに怖い面もあるが、地震や

台風、大雨による津波に比べれば、しんしんとしながら私共の生活に

影響を及ぼす分、自然の猛威とまではいかない。

 しかしながら、年頭の御神籤の結果に、何やら不安を覚えた私は

愛染聖天様に大丈夫か何度も聞いてみたのだが、自信をもって大丈夫と

おっしゃる。

私も、また数多くの信徒様方も私のというか、

我が御本尊のお言葉の的確さ、予言の的中の素晴らしさには疑う余地など

ないところであるからして、まさかこの調子では「すわっ、夏は大地震などあるのでは?」

などと、

あの大雪の報道を見てしまっては、思わざる負えなく、

上記の如くに、誠に愛染聖天様に失礼ながらも何度も聞いたのだが

安心しろとの御言葉であった。

 

正直な処、この私の言葉に嘘はあっては教主としてまず立場が無い。

 

安心したのはいいが、その後だいぶ愛染聖天様に絞られるような事が起き

大変であった。

御本尊様は同じお言葉を何度も聞くとご機嫌を損なう処がおありで

そのような時はやがては、適格に問題に対し下されたお言葉が

突然に感応に欠ける卦にかわる。

 

「ははぁー つむじを曲げられたな」

と思いながらもしつこく迫れば、

路上で転ばされてみたり、鍵を落としてみたりなどの出来事が起こる。

 

しかし、怒られたがお答えは頂いた。大丈夫との事である。

愛染聖天様にただただ頭を下げるばかりである。

 

であるからして、信徒の皆様も今回の大雪で感じた漠然とした

一年の不安をどうか心の隅にでもしまって頂きたいものである。

 

それにしても理屈をもってしか考えようとしない我々にとっては

「我が云うのだから」

と断言なさる我が御本尊様の自信に不思議と接すると

尊天様は、やはり稀有の奇跡を当たり前に披露する事がお出来になる

そんな、過去未来を包具した世界にお住みの御方なのだと

改めて感じさせられてならない。

 

本題に入ろう。

 

よく仏像を開眼する時に性根を入れるなどという言葉を使う。

意味は言葉の如くに、魂を入れるという事なのだが、

語の意を感ずれば、性(しょう)は性(さが)

ここでいえば仏像なのであるから神仏の性であり、さがとは

我々が生まれ逃れることの出来ない性質,要するに我々は人間であって

鳥のように羽が無い、どこまでも人間の出来る範疇において 思い

感じ、泣き、笑い、食べる。

これが性である。

故に神仏の性とは、ありがたい神仏のその特質の範疇において

ものと解釈すれば妥当だと存ずる。

 

故に我が尊天信仰に於いて、有難くも尊き御本尊様の如くの性とは

大変に高尚なものであり、その特質、範疇に於いては

上記にも照らした如く、現世はおろか、過去未来を、そのかしこくも

尊い神力によって住み処とされ、欲するところ自在にして、

制する者など皆無であり、その御誓願は現世利益の頂点を極めた、

どのような願いでも叶えるというものであるが、

欲を満たし欲に終わるような、根幹に光が無いような性根ではない。

その御誓願をもって、成就の暁に見るであろう人々の悟りを

昇華と位置付け、神仏の手からすり抜け地獄の炎に墜落を

見せんとす衆生の魂を、その間違った願いのまま受け止め

遂に昇華たらしめ、極楽に牽引するという、非常に愛情深く

お徳の高い性をお持ちの御方なのである。

地獄に足を踏み入れた者さえも、救わんと思われるのだから

この慈愛はまさに太陽の光より神々しい尊い眩しさをもって

信徒に示現せらるるのである。

この性の意味あいを説き、互換させてくださるのが

各種の御経なのである。

余談だが理趣経に付いて、あれは男女のセックスを説いている

だからセックスしなきゃだめだと、大法螺をいって性的な悪い事を奨励

強いる行者がいる。実際にとても偉い肩書を持ちながら、このような

事をいけっしゃあしゃあといってのける行者がいるのだ、

しかし、このような行者はいくら素晴らしい大寺院の行者でも

聖天は絶対に相手にしない。そのような寺や行者に頼もうものなら

元来がこのような邪道をもって聖天のようなありがたい仏様のむかっているのだから

罰が当たらないはずはない。

寺はだんだんと人が絶えていき、頼んだ心願は全て悪いどころか最悪の結果を産み、

女性であれば、このような行者に対面し直接依頼したら終わりである。

自分の欲望を満たすことのみ聖天を使うので、元来女好きのこの行者達は

相談者の意中の人間との破断を願うのだ。

要するに行者の思いが優先し、反映しすぎ、依頼者の幸せを潰してしまう。

おかしいと思い関係を断つと逆恨みをして今度は調伏する。

このような状態に陥った女性は、大体は恋愛に遠のき、婚期を逃し、鬱になる。

好きになった相手はその度に他の人間と結婚するか、うまく行きそう

なら、もっと悪い、彼は会社を首になったり、鬱になったり、社会的に

失墜していくのだ。

こういった行者は大体が汚らしい。

年齢は老若関係無い。

いかに荒行を積んでいても、性、性根が腐っているのだから

駄目なのだ。

 

 後でも書くが性根が善良である愛染聖天の性根を心に植えたなら、

皆、大変に美しくなるものです。

なぜなら愛染聖天様とは前に書かせて頂いたがこの世の絶対的美を司る

美そのものの大神でもあられるのですから、当然の事なのです。

 では根とは何か?

即ちこの特性、範疇にしっかりと居所を定着させ、成長するための

養分を吸収する手管となるものであって、ここに於いて、

性から根が生え、性根となって仏像に芽吹き、やがて善良な力を

生やす、 

人間に於いては性根が善良なら、善き考えを産み、善き考えは

善き人柄を産み、善き人柄は善き行動を産む、善き行動はその人間の

善き思想になり、やがては善き運命に成長するのである。

その為愛染聖天様は根菜がお好きなのである。

この私が説くところを正道とすれば、善き性根を皆の心に植え付けようと

いう心が好物に具現化したものであると言って良い。

根菜、球根、種、

愛染聖天は奇跡の種をまく、奇跡の根を張る、奇跡の花を咲かす。

単発の願い事は、我が教団に入信し、有難い信仰の道を愛染聖天様と歩むうち

単発の一輪でしかなかった性根の花は爛々と咲き誇り根をはる

素晴らしくも美しく善良な性根の花に咲き変わる。

当初祈った、間違っていますが叶えて下さいと祈った花は

成就の昇華により見事解脱をみるのだ。

我を始め

我が信徒の性根に根付くのは奇跡自在の種でり、根であり、花である。

愛染聖天様から蒔いてもらった、愛染聖天様そのもののお性根である。

まさに信徒の皆様にお勤めで説く、

真言を唱えながら、尊天と一体になる入我我入の

真の目的がここにある。

行が凄いだの、法が凄いだの、水行だの鼻くそなのである。

この性根の思想をもって

真言の文字を種字ともいうごとく、

ギャクという種を心に蒔きそだてるのである。

浴油とはその種に水をかけ育てるのが本当の本意なのです。

ではギャクとは何か、

(愛染聖天様のギャクはマカラギャつまり愛染明王の魂を吸収した

三千大世界最も稀有なるギャクです)

愛染聖天様そのものです。

愛染聖天様とはどういった方か?

正しい愛と営みを絶対に愛し、本当の好きだという

愛を大事にし、そこから生まれる多様な感情、情動のあり方を

補してくださる大愛の思想をお持ちの方です。

 

それを一言に現した種がギャクなのです。

 

凝縮した美がこの一字に集約されているのです。

 

そしてこの善良なる愛と美と奇跡と自在の凝縮を

 

性根とし、真言を唱え、種なる字ギャクを唱え、

 

尊天の性根からその種を頂き、唯一絶対なるこの有難い

奇跡の性根を植えるのです。

 

そして善き運命、劇的な愛の運命を手に入れるのです。

 

これが私の教化する、我が教団の思想、

 

お性根の思想と実践なのであります。

 

どうか、我が祈祷の力に添い、

 

速やかな成就のみならず、愛染聖天様の功徳の海に有難くも身を任せるような

 

そのような美しい人生、運命を手に入れたい方は

 

この思想に挑んで欲しいものであります。

 

合掌

 

追伸

 般若心経は、一言でいうなら、いい方向に向かいなさいとい教えである。

ギャクにはこの意味もある。

ですからお勤めの心経は種に水をやり、成長を導く意味合いがあるのだと

理解下さい。

 

この性根の思想の説明を読んで、

なぜ愛染聖天様が全ての神々の主尊であり

八百万大小聖の帝なのかが解ると思う。

 

愛染聖天様はギャクそのもの。

 

この一字が表し、感応させるもの。それは

愛と救済の経典であり、慈愛の呪文。

善き未来への流れを誘う、想像の経典。

 

ギャク、

 

即ち愛染聖天様は、その集約物。

 

まさにすべての神仏の帝なのだ。

 

色々な行者を渡り歩いて縁を持った方ならご理解いただけると思う。

 

私の今日、皆に説いた思想は、大変な悟りであり、

奥義なのであり。

 

どこの行者も知らず、悟らず、答えられなかった答えであるという事を。

 

我がこの宝石の如くな悟りは、私の力、智慧ではない。

全てこの教団の御本尊様のお言葉、牽引なのである。

 

そして教主たる私はこの有難い善良な思想を自分だけのものとせず、

あまねく、我が血の縁をもった信徒様方に授ける事こそ私の務めと思っている。

 

わかるものはわかるであろう。

私の説く思想はまさに最上最秘の秘鍵なのである。

信徒の皆さん。

常にこの私と伴に在りましょう。