教主より夏の大祭に際しての言葉と感応の予言

 

夏の大祭に際し

 

 

いよいよ明日より

聖天教にとって最も尊ばれる行事

愛染双身大聖歓喜天大祭。

通称夏の大祭が始まろうとしている。

正確には本日、日もとっぷりと暮れた頃より

私のこの祭典に対する秘法は始められるのだが

 

一年の内で私がこの大祭に寄せる気持ちは大変に大きい。

 

何故なら

この大祭こそ、我らを日々その摩訶不思議なる御霊験で

導いて下さって余り無い、

御本尊愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩様の

その御降臨を供養する祭典だからだ。

 

その日より

愛染聖天信仰は始まり

その創始者である

私、兆象大宰の今や

これは嬉しい限りであるが

日本一とまで月旦

評される

我が霊験、神通の御業も全てが

あの日から始まったのである。

 

その証左として

先日、現在私の予言通り

弱毒化し、今ではマスク不要とまで

その陰を潜めた

新型コロナウイルスに

まるでとって変わるかのように

世界各地に感染を広げつづける

動物由来の恐ろしい感染症

『サル痘』が発生した。

 

これは、新型コロナウイルスの発生的中に続き

私が兼ねてより、今年必ず起こるであろう

恐ろしい病気として予言していたものだ。

 

この他、小倉美咲ちゃんの事件。

石原都知事の死。

橋下府知事の上海電力事件。

東南アジアでの今年起こる天災。

アメリカの巨大竜巻。

ソフトバンクの転落等

 

今年だけでも挙げたらきりが無い程

私はこの

三千大世界全ての神々の主尊にして

八百万大小聖天の帝たる

最も偉大にして強大な大歓喜天

御本尊愛染大聖天様より頂いた

大いなる霊験により

全てを見通し、その力を嘘偽り無く

常に間断息止める事無く

証明して来た次第であり

その顕現は

これよりこの私の今生かりそめの命が

例え尽きようと、あらゆる形で

まるで世に溢れ迸るが如くに

信じる者を、そして苦悩する者を

そして歓喜天を信仰しようとする者ばかりか

全ての神仏に助けを求めんと欲す者に

常に

希望と功徳、そしてやがては

愛染聖天の奇跡成就に導いてならないだろう。

 

畢竟

それ程、この我が神通の力をお貸し垂れ給う

御本尊愛染大聖天様の

その『霊験現世一なる大神力』は偉大なのだ。

 

信徒の皆に問う。

数々のこれまでの私の霊験を鑑み

私程の者を汝は知り得るか?

この日本で、いや世界で

動物由来の恐ろしい病気が蔓延すると

言った神使いは果たして居ったか?

もし居たとしても

はっきり今年そうなると断言した者は居るか?

答えは『否』。

居ないはずである。

 

何故なら私は

三千大世界極めたる愛縁の大神

別名愛縁自在天とその愛縁の力を三界に誇りながら

通称予言大聖天よと

世に兆し

つまり、この世のあらゆる未来を観てとり

人々を導かんと欲す稀有なる大聖天。

これら総じて

全ての神々の主尊にして

八百万大小聖天の帝、愛染大聖歓喜天。

そのお方の

唯一選ばれた行者なのであるから。

 

その三千大世界極めたる無比なる大神

愛染大聖天の大供養の祭典の扉が

今、正に開かれんとしているのだが

 

その開白の座に着く前に

今日は皆に

大祭行事とは『供養大祭』である事から

『供養』する心、その本質を皆に説き

その大悟により

主宰行ずる我と

本尊鎮座なさる愛染聖天と

祈願する信徒皆々の

その達観による

極めたる三力冥合の創出を充分に誘い

これまでに無い

真なる秘法大祭と為さんと

教主ゆえに考えた次第である。

 

その助力として

既に信徒の皆は察知しておられると思うが

我が愛染聖天の奇跡成就の大神力が高まるその時

世に天変地異が起こり出す。

これを愛染歓喜天の大歓喜と云うのだが

特に愛染聖天とその諸部類眷族が

喜ぶ大祭の前後にこれは起こりやすく

このような兆しが見えた時

成就する者や

大きな功徳を得る者が急増する。

 

そしてこの度の夏の大祭も

この前夜までに

その予兆が充分過ぎる程

世に現れた。

 

西日本では、恐ろしい程に地震が頻発し

富士山近くの山では噴火間近では無いかと

言われる山体膨張が始まると

遂に昨日、北海道のすぐ上に位置する

カムチャッカ半島であわや津波が起こるのでは

と思われる程の、史上稀にみる大噴火が起きた。

 

これらは正しく愛染聖天様の大歓喜に他ならなく

 

今年の大祭は、私の経験上、特に不倫や

略奪的な愛縁の願望について

甚大なる功徳が授かるはずだ。

夏の大祭とは以前より

何故かそのような、日陰なる恋愛の願いの成就が

多いのだ。

 

つまり

愛染聖天様の皆に下賜される神力功徳の準備は

今年の夏の大祭は普段にも増して

堰き止められぬ程、その準備は万端という事なのであるが

 

この御本尊の大歓喜なる功徳の準備に際し

信徒様方に於いては、是非にもその雄叫びにも似た大神力に

見合った、悟りを心内に作っておかなければなるまい。

 

この度はその悟りとして

私から、『供養』というものの本質を教化したい。

 

供養とは、諸菩薩、諸天などに心の籠った様々な

供物を捧げ祈る事を云う。

この供物とは

特段、食べ物や飲み物、お香や燈明に

留まらず、祈りやお経と唱えるだけであっても

それをお供えとし

つまり、神仏に何かしらを捧げ祈る事とは

要するに『供養=修法』なのであるが

だが、今日私の説く『供養』の本質は

『供養=修法』という階梯の中で

何故捧げるのか?に付いて説きたいと思う。

 

私は修します法に於いて

まず三礼による五体投地が終わって後

既に我が五智四身にそれによる

三界全ての衆生を救済せんという覚悟をもって

礼拝に臨んだからには

我が心内に於ける悟りの如意宝珠は光り輝き

その心内の作用は功徳となって

眼前と広がる修法壇にも及んでいくと考える。

つまり次に

六器、火器等の備えを弁え

愛染聖天にこれから始まる

秘法に於ける悉くの成就を願うのだ。

 

そして私はこの時

心内でこう思うのだ。

 

「愛染聖天並びに諸部類眷族よ

確かにこの祈祷壇に於いて

私の捧げたる悉くのお供えは

塗香 焼香 樒 燈明 様々な飲食に至るまで

いや、我が捧げます真言、経に至るまで

この至らぬ人間界にいればこその

汚れたるものです。

しかしながらこの全ての供物の中には

あなた様に導かれ

悟りの道を歩まんとする

一欠けらの仏性が秘められております。

故に

どうかその一欠けらの我の真心を見て取り

この供物の上に降臨し

この供物を天上にある悟りある供物に変えて

下さい。

 

それ即ち

我が眼前にある物体の明らかな神力による

変身。

 

眼前の変身は

我が心内の変身。

 

つまりそれは

我が心内に愛染聖天様が降り立ち

我が心を神仏の心と変え

愛染聖天様並びに諸部類眷族様と

我に同化の心を下さるという事。

それ正しく成就で御座います」

 

そして私は重ねてこう観想申し上げる。

 

「私は凡夫であり、無知なる者。

その私が己の心を覗き

真理を知ろうとしても、絶対に知れるはずは

ありません。

ですから、愛染聖天様並びに諸部類眷族様方

及び全ての曼荼羅の神々よ

この我の捧げたる、仏性の印であり

真心でもある、この様々な供物を頼りに

ここに降臨し、それら供物を平らげ

天界の物と変えて下さい。

その至らぬ捧げ物の上に立ち

その供物を変身させる神力を私に見せ

その功徳をもって私に真理を教えて下さいませ。

そしてその功徳とは、真理とは

即ち

愛染聖天並びに全ての神仏の邂逅と感応

より起こるもの。

つまりはそれ自身が奇跡成就なのです」

 

そう奏上した後

私は着座して更に普礼を

殊更神妙に唱えるのだ

 

「おん さらば たたぎゃた はんなのうきゃろみ」と

 

神仏とは

増して愛染聖天とは

我々人間より愛深い故に神なのである。

 

愛の本質とは

救済であり

自己犠牲であり

その究極なる広大な愛こそ

大愛である。

 

要するに我が修法に於いて

全くの汚き心を捨て

様々な供物をもって

供養に臨んだ時

その声を

救済の心に溢れ慈悲深い

愛染聖天様がお応えにならない

はずは無いのだ。

必ずその様々な捧げものを

いただいて下さり

私達を導かんとして下さる。

 

修法の中に於いて

これを私が特に感じるのが

二点ある。

 

それは

油を沸かし

我の心にも

愛染聖天の心にも

極めたる慈悲の心が備えられ

眼前に備えたる

油も

それと同様に沸き上がった時

 

やがて私が見計らい

衆生の愛。

つまり智慧の象徴。

また願いそのものとして

白檀を油中に放ったその時

 

私は

油に焦げ沈むその白檀を見ながら

 

燃え上がる

愛染聖天様の

その私と私の信徒の心願を

例え自分の身が

高温の油で滅しようとも

救ってみせようという

バチバチという、その油が煮え

白檀燃え上がる

その情景に

三千大世界極めたる大神の

救済と慈悲心が

あらん限りと

燃え上がるのを感じるのだ。

 

不動明王は仏像(自分自身)を燃やさないが

この時私は常々

歓喜天という仏の凄まじさを感じてならなく

何故なら

毎夜、御自分を悉く私達の為に油で

燃えながら死んでくださるのだから。

 

そしてもう一つ私が御供物を捧げ

供養の醍醐味を感じる点は

やはり

大根と酒と歓喜団を捧げる時である。

 

これを愛染聖天様に捧げた時

愛染聖天様と私は

既に一体となっている次第も相俟って

私の心内は

愛染聖天様の心内と良く感応遂げているからこそ

その心の一挙手一投足に

大根は究極の慈悲を増大させ

酒は我が月輪を不可得と高揚させ

歓喜団は我等に限りない歓喜天の功徳を増大させるに及ぶを

存分に感じ取るに至る。

 

そしてその三つの供物のこの高まりは

全て我等至らぬ身の捧げた

汚れた至らぬ供物であったにも関わらず

愛染聖天様は

その中に我々の真心を見出し

それを食し、それをエネルギーとして

救って下さろうとした事が嫌という程判る。

つまり

愛染聖天様の広大な慈悲がそのような

我々の捧げる供物を

通し、『供養』という

神と行者、そして願う者との

三力冥合の祭典をこの時

完成させるのだ。

そしてその『供養』された捧げものは

果たして神の食したものであるのだから

天界の汚れ無き物に変じる。

 

このように

私は行法に於いて

これら供物、捧げ物を通し

そこから必ず

神と衆生の切っても切れない

繋がりを感じ、その悟りは

それより継続する様々な

修法の階梯に深み厚みを増さして行くのだ。

 

すると私は悟るのだ。

私達の体にある様々な物質

つまり

鉄分やたんぱく質、カルシウム

いや

原子や元素、それを構成する

素粒子に至るまで

 

それは実はばらばらに考えれば

私という個人のものでは無く

 

すべてこの何白、何万、何兆光年遠い

宇宙にも同等に広がる物質であり

つまりは

私達は同じ物質を共有する

家族なのだと。

 

それもそのはずである

三千大世界の根源であり

そのものである愛染聖天様にとって

私達はその中より生れた意識、生命なのだから

切っても切れない繋がりが

全ての衆生に於いてあるのだ。

 

また全ての神々もそうである。

 

だからこそ

つまり私達がその慈悲に縋れば

降臨されぬ神仏などいないのだ。

 

そしてその救済はその願いし者によって

形こそ違う導きを必ず見せる。

心優しき者には功徳を与え

心持ち悪きものには

輪廻を超えた反省を促す

要するに時には罰という愛を与え

殺してしまい、来世、来来世にても

矯正救わんと欲するのだ。

 

だからして私は

『供養』とは

家族、我々の引導者であり

上位の者である神々。

増して愛染聖天様に至っては

三千大世界の根源であられる限りは

家族以上の愛をもって

種々捧げ

真心より祈る事こそ肝要と解釈している。

 

そして、更には

私達の心にも必ずと言って良い

慈悲の心『真心』があるからには

『供養』とは

神仏と

真心より祈り合い。

思い合い。

労わり合い。

助け合うという

あらゆる真心を分ち合うものだと達観している。

 

つまり私は『供養』とは

 

我々にも

『真心』という救済の観念をもった

心がある限りは

我々だけでは無く

愛染聖天様も成就して頂くという

つまり神仏と成就を分ち合う

この世で最も愛深き奇跡を起こす

心の作用だと思っている。

 

これは難しくは無い。

何故なら

私達は愛染聖天様の一部。

一部である限りは

私達の成就は愛染聖天様の成就でもあるのだから。

 

そして更に悟って欲しい。

 

恋愛の願いを持つものなら尚更に解るはずだが

この世で最も幸せだと思う事とは何であろうか?

それは家族や兄弟、まして自分の愛する人が

幸せであり、且つ何より

その人間と一つの隔ても無い

深い繋がりを感じ、思い合った時ではないだろうか?

その思いこそ

正しく愛の成就では無いだろうか?

 

神仏との供養とはまさに

捧げものを通し、このような心を完成する事

つまりこれこそが神仏との感応なのであり

そして

三千大世界の中心であり根源であられる愛染聖天様は

全ての生命と繋がっているのだから

その大神との供養の完成。

要するに感応は

つまりは

心願の異性と心が繋がり

果てはその異性との心と心の供養が生じ

修法を重ねれば

後に必ず感応成就を迎えるのが道理。

 

そして信徒の皆には

更に考え悟って欲しい。

 

神も人も

心で出来ている。

 

心とは真心があって動かされるもの。

 

年老いた祖父母に

これを食べて欲しい。

これ真心であり

当然祖父は喜ぶ。

 

世話になった父母に

これを食べて喜んで欲しい。

これも真心であり

当然父母は喜ぶ。

 

愛する異性に

これを食べて喜んで欲しい。

これ正しく真心であり

当然その異性は喜ぶ。

 

皆、これ真心あってこそ

喜ぶに至れる。

真心無くば

どんな人間でも喜ぶどころか

食べもしない。

 

つまり修法で考えるなら

真心無くば

神々は勿論

まして愛染聖天様は

壇に降りても来ないのだ。

 

そして最後に考えて欲しい。

 

上記の例は人間だが

人間の縁を超えた

法縁と愛をもって我々を思って下さり

繋がっている

愛染聖天様へ私達の捧げるべき真心とは

では一体どういうものであろう。

 

それは

正しく

祖父や祖母

愛する人を超えた

まごうこと無き

深く純真な真心だろう。

 

もっと分かり易く考えれば

 

私は思うが

それは即ち

そう難しいものではなく。

只々

とても温かい物なのでは無いだろうか?

 

甘いお菓子に例えれば

好きなそのお菓子より

特に甘くて美味しい上等な菓子であり。

 

服に例えれば

いつも好む服より

特に上等の服であり。

 

それを修法に於ける油に例えるなら

人間の縁に向け慈悲煮立つ油を超えた

愛染聖天との縁に向け

非常に激しく信仰煮立つ

大愛の油のようだと考えれば

 

それは

とても深く、優しく、温かい愛という

きっと心なんだろうなと

皆のそれぞれの心に

すんなりと

府に落ちてくれるのでは無いだろうかと思う。

 

畢竟

『供養』『修法』『秘法』とは

どこまでも温かい愛という心の

愛染聖天様との生ある愛の

やり取りであり

満足であり、円満なのだ。

 

そこに全ての成就がある。

いやその心の合致こそが既に成就なのだ。

 

何故なら上記でも申したが

全ての心に繋がる大神との

心の満足は

心願の人間との満足に他ならず

恋愛で無くとも

全ての根源であり三千大世界そのものである

愛染聖天様との心の合致は

それだけで

奇跡の正体である愛染聖天様の心を動かし

必ずやその合致したる心の有り様は

考えられない奇跡を産むのだ。

 

以上私はこれこそが

『供養=修法』の心であり本質。

つまりは真理だと思っている。

 

これより

我等をその大いなる大愛で導き

想ってくれてならない大神

愛染聖天様を

人として一生命として

何より信徒として

その降臨を祝い

大いにその心と思い合い

触れ合う事によって

究極の『供養』を完成する

夏の大供養祭典が始まる。

 

皆は今日の私の教化を読み

どうであろうか

その準備は出来たであろうか?

 

愛染聖天の力も漲っておる

斯く云う私の力も

大変漲っている

 

先程も最秘法に入ったばかりの信徒が

大祭前だというのに

成就したという。

 

四年掛かった略奪愛であった。

 

不倫とは難しい恋愛成就であるが

我が愛染聖天は

本当に良く成就させるものであるよ。

 

話を戻すが

どうか信徒の皆に於かれては

この大祭前の私の教化をして

その悟りをもって

それぞれの最上の三力冥合を

創出し

大いなる功徳を頂いて欲しい。

 

ではこれより私は

愛染聖天様と夏の大祭修法壇に坐し

皆の真心を良く受け止め、

我等、渾身の真心をもって

それを皆に返そうと思う。

 

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

 

愛染聖天様の御誓願。

そは、誰もが観音の心に悟りを

開かんとせば、やがては開く

心に花咲く境地也。

 

そして

誰もが

その花の蕾を

生まれながらに抱きたるもの。

 

聖天教信徒よ。

汝は、その蕾

どう咲かせんと欲するか。

 

畢竟

夫れ即ち

大愛の大輪、蕾也。

 

 

 

 

 

❖五月二十九日感応の予言❖

 

 

夏の大祭前に愛染聖天より感得せり

 

『これより水害あり

特に広島、山口、岡山等

中国地方と、福島、宮城、栃木、群馬等の

東北と関東の一部が危うい。

それと兼ねてより

私が危惧している火山に動きあり。

サル痘上陸。

世界株価大暴落がこれより起こる。

台湾と韓国北朝鮮。

中国の上海、香港の周囲で水害と地震が

起こるかもしれない。

東南アジア台風水害火山。

インド、パキスタンでハリケーン等の激しい

天災』

 

以上これが

私が夏の大祭前に感得した予言で

あるが、大祭中にもう一度

深く感じとってみようとは思っている。

何はさて置き

信徒の皆は良くこの愛染聖天様の

兆しのお言葉に、どうか耳を傾けて

日々を送って欲しいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合掌