2014年度 年頭の言葉



明けましておめでとう。

一月半ばになってまでの信徒の皆へのご挨拶になってしまった。

さて、先年の私といえば、皆が御察しの如く多忙な一年であった。

自然災害、天変地異を見事にどこの誰よりも

早くに予言し的中させたのは良いが

その事で大変心を痛めた一年でもあった。

また、これに重ねてのフィリピンの災害である。

この災害には篤信な信徒様方の

とても熱い慈愛と信仰による発念を受け、

公表はしなかったが隠密裏に壇を設け神力一心に

御本尊様に向かわせて頂いた。

いつもながらであるが、このような悲しい出来事の度に、我が教団の

一部の暖かい信徒の慈愛に触れる事が出来ると

教団の此れ迄の活動には間違いはなかったと

感涙を覚えさせられた次第だ。

そして、この慈愛による慈善の行為に邁進した一部の信徒の

大方が愛染聖天様の功徳の恩恵に服したと聞いている。

  つまり私が常日頃皆に教え足らしめる愛染聖天様の愛の教えが

現実の功徳という形になって現れたのだ。

それは虚空に打った祈りという太鼓の音が

形ある恩恵として尊天の巾着から放たれの給うた功徳。

そして私もまたその美しい

信徒と御本尊様との祈りと功徳のやり取りを観、

深い御本尊様へ不動の殉教の糧にさせて頂いたのであった。

信徒皆々の温かくも美しい信仰に支えられ、

数々の困難に伴に立ち向かい、

また肩押されながら

法を奮えば、その都度御本尊様が何倍もにして霊言を

返して下さる、そのような

奇跡、予言、功徳に溢れた一年であった。

今年も私は皆の為に変わらぬ姿勢で御本尊に臨む。

信徒の皆も供に離れていても私と命がけで御本尊に挑むんだと

いう気持ちで今年一年強い信仰心で望んで欲しい。

 

 

今年の愛染聖天様のご予言は

去年の如くな天災はあまりないようである。

ただ、私は政治的な事は関与もせんし、信仰に国境、わけ隔てなど

特に我が教団にはあってはならないのだから

素直に愛染聖天様の今年の

念頭のお言葉として啓示すると

まず国境において何か一悶着あるらしい。

また、六月収束に向けようとしても失言、または国内にある

なんらかのわだかまりがあり、

これをうまく納めないとまたなんらかの悶着があるらしい。

 

もっと詳しく聞けばよかったのだが一万回の行の後に

聞いたものだから少し憔悴を憶えており、このように

とどめてしまった。

であるから、去年の天災に比べれば私が愛染聖天様から

感じ取った間隔では、全て政治家の方による門題で

あるようですのであえて教団のお知らせなどには書かなかった。

 

皆にとっての一年はどうであったろう。

私は皆さんに良い一年だったといって欲しい。

そして、

その事だけは皆の周りにいる誰よりもそう思っている

人間だと自負したい。

いや、断言したい。

それだけに、念頭にあいさつにあたって

皆の愛染聖天様に向ける姿勢をより篤く導く話をし

皆の功徳の糧にしたく

私の一万回祈祷で体験した不思議な話をしたい。

 

ずばりだがまた愛染聖天様が現れたのである。

よく昔の偉い行者様が、やれ修行だの荒行だのをしてやっと夢で

見たんだとか、私も数名の尊天の行者の知人にきいても

誰も見たことがある人間は一人もいない。

どんな大寺の方でもである。

しかしながら

私、この私には現れる。

夢では語り、御神籤で語り、予言までしていかれる。

かといって私は自分で霊感などあるなんて思ったことはないのである。

ただ自信があるのはどんな人間より愛染聖天様

は私をまるで本当の子のように

第一の子のように思ってらっしゃる。

夢でも御籤でもそう御声をかけてくださる。

その自信はあります。

何故なる、どんな寺院の行者でも仕事が行者で家が寺である。

拝むのも法がある云々といいながら、形式になっており、

拝んだ後はただの人である。

しかし私は、もっとも恐ろしい仏と呼ばれる聖天

しかもその帝である愛染聖天に

まるで導かれるように

一代で教団を主宰し、死ぬどころか今に至る。

信徒には愛染聖天の御言葉を的中をもって聞かしめ、

頼めば愛染聖天様の奇跡を披露する。

そして何より、現実にお現れになられるのである。

 

今回は真言を調度五千回の時である。

私は大根を二本を四つに切り、四つに立て並べる、その際角は丸く切る。

 

その大根の上にである。

 

対面祈祷に来た方ならわかるが金の上段の厨子の中にいきなり

すうーと下方に淀むように透明な煙が湧き立つと、その煙はするすると這いながら

何かを吟味でもするように丁寧に湧き立ち湧き立ちながら

やがてあげもの上を徘徊したと思うと

中央の大根の上にとぐろを巻きはじめその形を

ゆらゆらとしながら透明な煙のままに双身天王の御姿に

しゃんと形を成されたのだから、

私は本当に目の前、鼻の前におったものであるから驚いた

というもいのでは無い、

後ろに置いてある油圧のストーブにのけぞり(私は二十四時間御本尊様が

お過ごし安いように室内の温度を保っており生きていらっしゃる御本尊様の

良き環境の為に懸命を尽くしている)頭を少しばかり打った。

すると私の気持ちの中で今度はあまりにも有難く

有りがたく、また有難いという気持ちがあふれ出し、

感動の涙と鼻水が喜悦を煽った。

そして私は何らかの昂揚感におそわれるのではなく

不思議と,よし拝ませて頂こうと勇んだ気持ちになったのを回想すれば

何かほくそ笑んでしまったのをお許し願いたい。

 

愛染聖天様は八千回までいらっしゃっただろうか?

透ける様に御姿を御隠しになられた。

 

私はといえば、このような奇瑞な体験をしたからといってとりわけ

何か変わったこと、また変化があったかといえば

 

ズバリ何もなく、なにも変わった事はなかった。

しかし、私は愛染聖天様のお見守りに対する深い愛を心に満たす事ができた。

それに気づいたとき、我が教団の説く思想に真正面に挑み

功徳を顕現する事によって、信徒、また世の累々と

立ちはだかる問題を踏破した先に現れる悟り大愛。

その思想の悟りを得た時の心の満足、そういったものを私に

教えてくださっているのではないかと私は悟ったのだった。

よく解脱とは苦行のみに依拠し得られると

信じられる傾向にあるようだが、

そのような苦行の時に味わう感覚を御本尊様との邂逅の折に

体験する感覚は、全てに於いて超過しており

御本尊様にお会いする度に思うのだが

その奇瑞なる体験を超える行は無い。

 

この新年にあたり

この奇瑞なる私の体験に触れ、

 信徒の皆に於かれては、いよいよ信仰を深められる一年に

して欲しい。

 

今から御縁日の祈祷である。

昨日は徹夜になってしまったが心を込めたいと思う。

今年も宜しくお願い申し上げる。

 

 

 

合掌