令和弐年聖天教教主年頭の言葉

信徒の皆さん。
明けましておめでとう。

私達は、聖天教は
歓喜天様に本来備えられている
大いなる現世利益の力を最大限に
頂く為に、
太陽の力だけを頂く、
最近の片手落ちの行法を良しとせず、
この地球の一番近くに在って
母なる救済の力を、
古より常に
私達に与え続けて下さる
月の力を、
太陽の力に交えるという
古来よりの正しい聖天浴油の秘法を
行う事を、活動の基調として
いるものであります。
それ故
私達のお正月は、太陰太陽歴の正月
即ち「旧正月」を年の始まりとしています。

このように旧暦を用いた
忠実なる聖天法の古来よりの正しい
修法を行じているのは
この日本で、
私達「聖天教」だけである。

故に、私達に下される歓喜天の功徳は
普通ではありません。
まして、最近では
「全ての聖天様は死んでしまった」
といわれる程、残念な状態にある
「聖天信仰」にあって

この『聖天教=愛染聖天信仰』だけには
不思議な功徳があるのです。

他の聖天様に頼ってもどうにも
ならなかった人が
聖天教の門を叩き
「愛染聖天様は本当に生きた歓喜天様です」
といって奇跡を頂き
幸せになって行く姿を
私は沢山見て来たましたが、

なる程、こうやって旧正月を迎え
私達は、世間の聖天信仰とは違い
天球から降り注ぐ
偉大な自然の力を使役し
偉大な大神の秘法に対し
常に臨んでいるのかと
このような折に、じっくりと
考えさせられると
まったくそれは当たり前の事
なのだなと
納得させられる次第で
あります。

良く愛染聖天様の事を
「神の息吹」を感じる大神様だと
言われる信徒様が多いが
それも、このように
古来に則った修法で
お祀りしている由縁
からかもしれません。

私達の聖天様の
古来を忘れないという行為は
恐らく
人間に対してなら
あの人の事を忘れない
神に対してなら
ご本尊様を忘れない
という心の在り方に等しいのでは
無いかと思います。
世が進み
西洋の暦に変わったから
西洋式にしようと思っても
やはりそのように
西洋式に
してしまうのは
その人達は
神を心から忘れてしまっている
のと同じなのではないだろうか?

聖天様は
お言葉の中で
行法の全ては
月の動きにあわさなければ
いけないと説いています。

それは即ち
月や天体の影響の中に
聖天様の
恵み=愛=功徳=導き
がある事を
示しているのです。

月が私達にもたらす恩恵
は素晴らしいものです。
海や川の干満をつくり
地球に水流を促し、それは
様々な生命の発生と生育に
多大な影響を及ぼしたり
私達の血圧や精神に多大な
影響を与え、
満月の日に至っては
一切生命の発情を促し
生命誕生のきっかけを作り
それは出産までをも促します。
即ち月は
私達の人間を始めとした
一切生命の発生と愛欲の大体を
驚く程支配しているのです。
つまりは、月の働きには
まさに、
「大聖歓喜天使呪法経偈文」
に説かれている、聖天様の
功徳がそこにはあるのであって
突き詰めれば
月の周期に合わせ修法するという
事は、聖天様の御心
つまり
恵み=愛=功徳=導き
に合わせ修法する事に等しく
それと合わせず
現代化して修法を用いると
いう事は、
例えるなら
人と人、
交際している異性、
夫婦等で
意思疎通をする事を避け
目を合わせず、
口も言わない
関係に等しく、
そのような関係は
つまりは既に断絶しているのであって
それはやはり
上記で申した、神を忘れた関係に
等しいのです。

そして、その事は
聖天様の御心、つまり
恵み=愛=功徳=導き
要するに月の力が
最高潮に達する満月の日には

男女の気持ちが燃え上がり
恋愛が成就する事が多く。
(これは敬愛(きょうあい)の法
の成就ですね)

興奮して殺人が多いのもその為です。
(これは調伏の成就です)

このように、
月の周期、つまり月の
その一呼吸、一呼吸
一挙手一投足に合わせながら
行法を行う事は、
愛染聖天様の
恵み=愛=功徳=導き
の一呼吸、一呼吸
一挙手一投足に
合わせている事に等しく

それは即ち
聖天様との非常に
尊く美しい、その神の
お心との素晴らしい
邂逅を果たしていると
言っていいのです。

そして忘れてはいけないのが
このような完全な
聖天様との邂逅=融合を
実現する唯一の方法である
旧暦による行法を日本で唯一
行っているこの聖天教のご本尊様
愛染聖天様は
その神の御位を申しますと
三千大世界全ての曼荼羅の
主尊にして、八百万大小聖天の帝で
ありますれば、
まさに私達聖天教に在る者の頂く
功徳とは、計り知れないもの
なのです。

ですが、私達は、この愛染聖天様との
完璧な邂逅=融合を果たすには
ただ、旧暦に合わせた行法に
漠然と甘んじていただけでは
とても果たせず、つまりは
果たせないどころか、それでは
一つも頂く事は適わないかもしれない
のです。

では、この聖天教のみが
日本で唯一行っている旧暦での
聖天法の大きな功徳に預かるには
信徒の皆様はどのようにすれば
よいでしょうか?

それは、日々のお勤めの中に
教主である私の教えの中に
千宰、万宰の教えの中に
教団の教えの中に

聖天教の信仰全ての歩みの中に

愛染聖天様の御心を見てとり
その有難い御心に
「心を返す」
という行為を持って成してこそ
これは完成されるのです。

では
「心を返す」
とは一体
どういった行為なのでしょうか?
それは、

例えば、好きな異性に
あなたがプレゼントをしたとして
その異性が
その事について
全く興味や喜びを示さなかったら
どうでしょうか?

当然悲しいはずです。

では何故悲しいと
あなたは思いましたか?

解答するとしれば
それは、その異性が
あなたの
プレゼントをあげた
心、苦労に全く
慮る心の作業を
していなかったからです。

つまり、
あなたの心に対し
その異性は
「心を返す」という作業を
しなかったから
あなたは悲しみを憶えた
のであって、
お互いの心が
このようにすれ違うと
人は非常な悲しみを覚えるのです。

しかし一言で
「心を返す」といっても
様々な返し方があるもので
私達が、愛染聖天様との
完璧な邂逅を果たす為
旧暦の行法に対する
正しい心の働き掛けである
「心をかえす」
という心の作業は
では、具体的にはどのような
「心を返す」という作業である
事が正しいのでしょか?

それは
あなたが異性にプレゼンとをして
またそれだけに留まらず
沢山の思いを
その異性に差し出した時
一番の憂しい
「心を返す」という行為を
考えてみれば解ります。

それは、ただ、
「有難う」という喜びでも
それはうれしいでしょうが
もっと最高の
「心を返す」という行為を
相手から頂くとすれば
それはやはり
その「心を返す」という行為の
中に
あなたのその異性への
深い想いを
深く悟り、学んで貰う事こそ
素晴らしき
心のやり取りになるはずです。

あなたがあげた様々な心に
その異性が
「あーこの人はきっと
こんな事を考えているんだから
私もその気持ちに沿うようにしてみよう」
「あーこの人はこんな事思いをしているんだ
では、私はどうすれば良いか
真剣に考えてみよう」
という風に
あなたの心に対する
「心を返す」作業の中に
このような、あなたの心に沿うように
心掛ける
学びと悟りが存在していたら
どうでしょうか?
それがあなたには充分に通じるはずで
そのような「心を返す」作業の中で
通じ合う時の喜びとは
とても大きく、美しいものになるでしょう。
そして、このような
「学び=悟り」のある「心を返す」という
作業が、あなたのその異性に対する
心に常にあったなら
その喜びは
歓喜と歓喜が相乗する。
まさに歓喜天の喜びになるはずであって

もしこのような
「学び=悟り」のある「心を返す」
という行為が
愛染聖天様とあなたの間で成された時
心願は成就して行く事は必定なのです。

何故なら、そこに最高の
神と人との
心と心の通じ合いが完成するからです。

これを私は
本当の意味での「感応」と
呼んでいます。

今までの仏教では、いえ既存の
「聖天信仰」ではどうでしょう?
お経や、真言を唱える度
ただ、ただ、唱えると「感応導交」
すると言います。
でも本当にそうでしょうか?
そうではないはずです。
一万回の法則といって、どんな素人も
一万回練習をすれば玄人になれると
いう事を書いた方が言いましたが
私も経験していますが
いくら百万回唱えても何も
変わりません。
よく、求聞持法や千日回峰行等の
荒行を終わった後
空海様等の大上人様が体験された
感応を得ましたか?と聞いても、誰も
「何も感じなかった」と言われます。
ですから、そのような方は
もう一度、もう一度と更なる苦行を
求めます。
しかし、私が説く
「学び=悟り」のある「心を返す」という
心の作業を使って
神との「心の返す」の応酬、
つまり神と本当の心を通じさす
要するに
本当の「感応」を目指せば、
何も荒行をせずとも
喜びと功徳を得る事ができるはずです。

なぜなら、私達は心で出来ているからです。
そして神もまた、その存在は
「大愛」そのものであって
私達の姿は、夢の中での姿のように
私達の「心=意識」が創り出した
かりそめのものに過ぎないからです。

「心」と「心」が真に求め合い
解り合い、溶け合ったら
そこには最高の「心=心」の在り方の
理想があるからで、そこから
生れる心の状態であるこの上も無い
歓喜は、私達の眼前にある世界は、
意識の創り出している夢そのものの世界
であるだけに
素晴らしい世界へと自在に
その姿を変えて行くのです。

それが無ければ何万回拝もうと
どんな人間だろうと
何も起こるはずはありません。

心が通っていないのですから。

それは、ただ虚空に向って
勝手な想いを念じているだけなのです。

ではどのように
この「学び=悟り」の籠った
「心を返す」という作業を
ともなう
本当の「感応」が完成するのか?

それは、
毎日の欠かせないお勤めの中で
聖天教の毎日の行事
「祈願の時間」の中で
真言一つ一つの中でも
「愛染聖天様とはどういった
神様なのだろう?」
「愛染聖天様は私に対し
何を考えているのだろう?」
「私は愛染聖天様のこの導きに対し
どうゆう信仰で応えればいいだろう」
「教主様の今日の教化に対し
私は信徒とし何を考えて成長すれはいい
でしょう?」
「千宰様の導きに対し私はよく
信仰が出来ているだろうか?」
等の「学び=悟り」の籠った
「心を返す」という作業を

唱えながら真言一つ一つに対し
お勤めをしながら
その言葉一つ一つに対し
全ての信仰の道を歩みながら
その轍一つ一つに対し
この心の行為を
実践する事なのであって

その実践により

その正体、実相
心の本当の姿をそうやって
探り当て、悟り、理解し
その心と遂には
同じになる事
を目指すのです。

聖天教には、他の「聖天信仰」には
無い、私の教化等沢山の教本が
あります。
そこから常に学び、
この本当の「感応」を成すのです。

少なくとも、私の教えは
よくある聖天信仰のおとぎ話のような
はっきりとしないものばかり
では無く
しっかりとした
私の神通力の証明と
愛染聖天様という偉大な聖天様に
よる、ぶれる事の無い本当の聖天信仰の
教えが、そこら中にあるはずです。

また、その為に私は
このたび出版する
礼拝作法もそうですが
全ての経典を
解り易いように
なるべく現代語としたし
真言を訳しました。

神仏とは本来、究極の愛と慈悲の
生命体であり意識体である
「大愛」です。
その神の心と
真の邂逅と融合を果たす事で
成される、様々な獲得を目的とする
宗教という世界にあって
私は上記で述べたように

ただ真言を唱えるだけ、
ただお経を唱えるだけ
ただ座禅をするだけ
ただ集団生活をするだけ
ただ、ただ、何かを漠然と
成すだけの宗教行為を否定し

全ての儀礼の中に
「学び=悟り」=「心を返す」
という作業を伴った
本当の意味での
神との心の
「感応」を常に心掛ける
この宗教的実践を称し
私は、
聖天教『感応の思想』と名付け
教義の一つとしました。

ただ唱えるだけ。
ただ座禅するだけ。
ただ玉蟲を奉納し儀礼を行うだけ。
ただ、全てを捨て集団生活を
するだけでは、
母の愛、父の愛、男女の愛
性別を超えた愛
国や民族を超えた愛。
もっともっと
沢山の愛を救済する事など
出来るはずは絶対に無いのです。

愛とは心の通じ合ってこそ
初めて成るのであって

神との愛であれば
それは尚更なのです。

令和二年の年頭の言葉にあたって
私は、信徒の皆に
私の提唱する
『感応の思想』を少しばかり
説きましたが、

この『感応の思想』は
とても簡単なものに感じますが
実践してみて
この通りの心の在り方で
真言等を唱えてみると
成程、感動を得るものであって
それを少しでも感じ始めてから
そこからが深いものです。
そのような、この私が説く
『感応の思想』とは
今までの密教や禅宗
神道とも全く毛並みの違うもの
なのです。

最後に私達が「心を返す」という作業
をすれば、
愛染聖天様とは即ち
偉大な「大愛」という智慧の意識そのもの
であられるのですから、
皆が、愛染聖天様に
懸命に「学び=悟り」=「心を返す」
心の作業をしようとすればするほど
その何倍も皆の心に対し
懸命に「学び=悟り」=「心を返す」心の作業を
成さんとして下さいます。
そして「感応の思想」とは
それを成してくれる
私達が愛染聖天様に働きかける
正しい、心の在り方なのです。

私達聖天教は
常に
月と太陽という愛染聖天様の愛の力と
見つめ合う、古来に則った旧暦の法を
修しながら、
その中に
この『感応の思想』を纏い
滅びかけている「聖天信仰」を
立て直す、聖なる天命を持つ
尊い一人一人として
この令和弐年を
力強く渡って行かなければならないのです。

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

現在、聖天信仰は、
その功徳の無さから
まさに息絶えようとしています。

しかし私達の偉大な大聖天
愛染聖天様だけには
皆も見てきたでありましょう
本物の奇跡が
唯一現実に存在しています。

その点に於ける
不思議な事実は

愛染聖天様が
私に対し
いや
私だけでは無く
「信徒にして下さい」
と私との血の縁を結ぼうと
して来た信徒の皆々に対し

廃れてしまった
この世界で最も古い
神の一柱と云われる神の信仰である
「聖天信仰」を
もう一度世に
復活させろと言っているとしか
私は思えてならないのです。

だから私は
私の信徒を
「血の縁の者」=「血縁」
と呼ぶのです。

何故なら
聖天教の信徒一人一人が
廃れてしまった
「聖天信仰」を立て直す
天命を持った
「神の使徒」だと
私は信じているからです。

そう私は
私の魂で感じいるのです。

故にあなた方の
天命、運命とは
普通の人間とは
全く違うのです。

その天命、運命とは
まったくもって
壮大なるものなのです。