教主様令和参年春の大祭御法話

 

※現在、宮城福島で起きた大地震は

未だ懸念が残る状況です。ですが

そのような中だからこそ

三宝様方の御法話を読んで

信仰の糧による

心に力を蓄え、皆で不安を

乗り越えて参りましょう。

 

 

 

❖御法話❖

 

いよいよ歓喜童子大祭が始まろうと

している。

本日はその抱負を述べたいと思うが

縷々とした

この大祭の意義詳細は

既に充分に千宰が趣旨に於いて

教化、説いたと思うので

敢えて私はそのような説明的な

話は大胆に割愛し

別の側面。

つまりもっと大きな視野である

現在の聖天信仰、

そして私達『聖天教―愛染聖天信仰』

に於いて

この私が説く

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

を一人の西洋哲学の巨人の論を

通して語り大祭とは如何なるものかを

教化したいと思う。

 

私が聖天信仰に出会った時

もう既に

『聖天信仰』

その全ては末期的症状を迎えていた。

近代化された末世で

生きた行者達は

快楽を止めず

享楽に耽り

大寺は誇らなければならない

連綿と続いて来た

歓喜天の純真なる神の思想の

継承を説かず。

富と権力ばかりを誇り。

その功徳を語る時は

過去の大功徳を大いに

喧伝。

今を語る事は皆無であった。

 

私も人間である。

『全ての歓喜天は死んでしまった』

という風潮だけでは無く

真実、些末な功徳さえも無い現実の聖天信仰を

周りで見聞きし、

あるのは強烈な罰。

つまり、その修する行者の精神と魂の

頽廃は

かつては大変な救済力を誇った

大歓喜天をも既に

荒玉悪玉に変えていたのだ。

 

私に歓喜天の秘法を授けて下さった

方の奥様で

神仏とお話が出来た故人の

御子息に至っては

聖天行者として前途を有望視され

人間的にも最近には

まず見られない

素晴らしい行者様だったにも

関わらず

浴油祈祷中、何故か卒倒され

天に召されてしまった。

しかも故人は

他のお子様も不幸なお亡くなり

方をしていて

山の水で生活し

何一つの贅沢を捨て

13歳の時から肉魚一切を断ち

神仏と会話まで自在に出来る

そのお方が語る事と云えば

いつも

『既存の聖天信仰』により

子供を失った悲しみばかりで

あった。

 

そして他に語る事が

あるとすれば

『あなたは歓喜天と大変縁のある御方だ』

『過去世も来世も何度生まれ変わっても

いつもあなたは歓喜天と伴に居る人だよ。

そう聖天様が言っている』

そう言って語る故人は

決まって、誰も居ない空中に向って

良く聞こえるように耳に手を添え

『うん、うん、そうですか』

と言ってその歓喜天のお言葉を

私に伝えてくれるのだった。

 

私はその頃はまだ若く

内心この故人の言葉を聞く度に

『ぼけておられるのでは?』

という若年に有りがちな青くさい

どこか反論的な感情をもった事

もあったが

事実は違った。

 

私に対する歓喜天の愛は凄まじかった。

祈れば何でも叶った。

その奇跡は普通では無かったのだ。

私のような人間が会えるはずもない

大変な方々に知己を得、

それまで私が味方すると必ず負けていた

弱い勝負運も

野球からバスケット、ご近所の

運動会に至るまで

悉く心で念ずればそこに勝利が

降り注いだ。

すると

私に祈願を頼む者が自然と現れ

しまいには

とある旅館で

私の部屋の襖越しに

一日中

『聖天様。聖天様』と

拝まれる不思議を体験するに至り

後日私を導きし

唯一の奇跡を起こせし

生きた歓喜天

『愛染聖天』が御降臨されるのだが

 

しかしどのように

どの聖天信仰者、行者でさえ

体験した事の無い功徳を頂いても

私の心は

絶望していた。

 

そう私は世に神を心から

求める者に共通した

強い絶望を己の心に抱えていた

人間だったのだ。

 

私はどうしようもない

汚く、おぞましい心をもった

弱く、ちっぽけな、私こそ

死ぬべきゴミのような存在であった

のだ。

 

幾ら功徳を頂いても

癒す事の出来ぬ絶望。

 

私はその当時

現在破綻してしまっている

現在の『聖天信仰』の

二つの悪点の問題点の一方に埋もれ

正に心の底から絶叫していた

のだった。

 

二つの悪点とは

つまり現在全く破綻してしまった。

『聖天信仰』には

『全ての歓喜天は死んでしまった』と

その人々に云わせる如くに

絶対的存在である

『歓喜天』という神の存在が

完全に存在しないという絶望が

当時もそして

現在も

既存の『聖天信仰』を志す者の心を

蝕んでしまっている事実という問題。

 

そして

私のように例え大いなる神の存在を

確信出来る功徳を頂いたとしても

決して癒される事の無い

絶対的思想の不在という問題。

 

私はこの

現在既に破綻した『聖天信仰』の

二つの問題点に

かつて励んで読んだ

ニーチェの著書

『ツァラトゥストラはかく語りき』

の全くの酷似と

そして克服の両面を

見てとったのである。

 

その正に西洋哲学の傑作である

著書の中で

ニーチェは

ツァラトゥストラという山中で

悟りを得た一人の人間の口を借り

自分の思想を語り尽くす。

 

ツァラトゥストラは説く。

 

現代に生きる私達の心に在るものを

 

それは

科学的文明の進歩により

それまでの神という絶対的真理は

失われてしまった事による、

それによる

大いなる不安と絶望であった。

 

それ迄の西洋哲学には

哲学と称しながら

絶対的真理としての神の存在

が素地基本となっていました。

例えば

プラントンにしても

ソクラテスにしても

その思想は全て

神が持つ絶対的真理を

解き明かす為の論理であり

思想だった。

 

しかし

ツァラトゥストラは

その有名な言葉な言葉

『神は死んだ』という言葉と

ともに

絶対的神の存在を

死滅させ

この世にある真理も

つまりは消し去ったのだ。

それは

東西を問わず

世界のそれ迄の全ての

哲学だけでは無く

宗教思想までも否定したと

言ってよかった。

 

しかも彼は

その神という存在の殺人は

私達が人間が成したものだと

説いた。

科学の発展と伴にである。

 

どうであろう

このツァラトゥストラの説く

絶対的真理、存在である神の殺人の件と

それによる

人々を襲う、不安と絶望の現代を生きる

人間の心の悲惨な状態。

これは全く現在既に破綻した

既存の『聖天信仰』で囁かれる

『全ての歓喜天は死んでしまった』という

常態と酷似していないだろうか。

 

それに照らし合わせると

全くもってその経緯までも同じである。

 

放埓な行いで歓喜天を荒玉悪玉に

貶めたこれまでの行者は

つまりは

ツァラトゥストラの云う

神殺しであり

それにより

『全ての歓喜天は死んでしまった』

と限り無い不安と絶望に苛まれる

その信仰者達の心は

正に

ツァラトゥストラの説く

それと同じなのだ。

 

そしてツァラトゥストラは

このような状態を

 

ニヒリズムと提唱した。

 

絶対的真理を失った人間とは

どういったものか

それは神を基本として

出来上がって来た

社会への不振にもつながる。

何故なら

絶対的神という真理が裏付けて

来た、正義や善。

愛が無くなるのだから。

それにより

それまで絶対と思われていた

親兄弟への愛。

恋人との愛。

友人への友情。

勤め先への信頼。

当たり前に

生きて死ぬまでの道程

その全てが

今まで当然と思われていた

真理や価値、信頼を

失ってしまった

らどうであろう?

 

そこに在るのは

何を信じていいのか?

全てに価値を見出せないばかりでは

すまない

不安と絶望がそこに広がるのみ

なのだ。

正に自分という存在さえも

全く意義を見出せず、

苦悩に苛まれるこれは状態である。

 

彼は説く。

 

このニヒリズムに苛む人々は

この心の在り方から

是非とも脱却しなけらばならないと。

 

何故なら

このニヒリズムの心が悪化した

先にある最終的かつ

最悪な心の末路、形態である

『末人』と呼ばれる人間に

成る事を避けなければいけない

からである。

即ち

不安と絶望のあまり訪れる

全てに無関心である

希望も抱かず

ただ流されるままに生きる。

簡単にいえば機械のような

心の在り方の人間に

なってしまうからと云うのです。

 

そこでツァラトゥストラは

末人にならず

ニヒリズムから脱却する

唯一の手法であり

ニヒリズムに喘ぐ

世の人々を救う哲学史屈指の究極の

人間の到達概念を私達人類に提唱する

 

それこそがかの有名な

『超人』である。

 

超人は三つの段階を経て成り得る。

 

即ち第一に

『駱駝』という精神の修行を獲得し

『獅子』という全てに於いて創造と前進に溢れた精神。

『幼子』駱駝と獅子への変身成長によって獲得された

全ての悩みや拘りから解放された自己肯定の悟りと

真の自由精神。

 

この三つの成長を絶対的真理の無い世界で

成し遂げる

それが超人への道なのである。

 

つまり超人とは

全ての自己否定を止め

完全なる自己肯定の世界を獲得した

今という自分だけを最大限に楽しみ

過去に一切捉われない

超越した肯定の精神を持つ人間をいう。

 

これは誠に大変な作業である。

何故ならそこに行き着く為の

具体的答えは無く、その為ニーチェ自身も

はっきりと明確な概念を説いていない。

 

しかしながら

その超人という概念に到達しなければ

ならない意味付けとして

彼は一つの世界観を説いているのだ。

 

その世界観こそ

『永劫回帰』である。

これは輪廻思想に近いが

そうではない、人生とは同じ事が

永遠に続く不思議な

繰り返しの世界観の中で

生き続ける事だという概念である。

 

つまりツァラトゥストラは

人は未来永劫に繰り返される

その世界に生きるのならば

心に様々な不安や絶望をもって

生きるより

どうせ永遠に続くのなら

常に自分を肯定し、全ての悩みから

解放された超人となって

生きる事を選ぶ事が

最善だ。だから超人の道を

歩めとしたのである。

 

また、その永劫回帰の中で

見事超人に成長した人間の

獲得する愛こそ

自己の全てを愛し

その運命の全てまでも肯定

愛し続ける愛。

即ち『運命愛』だと説いたのだ。

 

そして私は

絶望の中にいながらも

唯一人

歓喜天の大変な功徳を頂く中で

その永劫回帰という

ニーチェが説いた世界観を

当に克服していた事を知ったのであった。

何故なら

絶望しながらも

絶対的神という普遍的真理を

知っている私にとって

彼が否定し殺してしまった

その神と真理こそ

永劫回帰という

ツァラトゥストラ即ちニーチェが

説く絶対的世界観

そのものであると

私のそれまでの信仰経験が

如実に悟り得る事が出来たからだ。

 

愛染聖天の御経でもそれは

明確に述べられている。

 

神とは三千大世界そのものであり

輪廻転生そのものなのだと。

 

つまりはツァラトゥストラ

絶対的存在を否定しようとも

自己の思想を説く為に

やはり絶対的存在に頼ったの

であって、

彼の思想の中には

絶対的神と真理が

実は息づいていたのだ。

 

しかし

彼の思想の全ては否定される

べきでも無いし

全てに於いて素晴らしい。

 

例えば仏陀の教えの中で

人間の実相とは

虎に追われ

崖から垂れさがる一本の綱に

ぶら下がりながら

下方の海面には

三匹の龍に狙われ

頼る命のその綱は

ネズミに噛まれいつ落ちるかも

知れぬ状態。

ネズミを振り落とそうと

左右に揺らすが

崖上の木から滴り落ちてくる

甘い蜜に気付くと

その一滴を味わおうと

揺らす努力を人間はやめてしまう。

 

この話は人の人生の

無常を説いているのですが

 

ツァラトゥストラもまた

超人の実相とは

動物と人間の間に渡る

一本のロープを

綱渡りするようなものだ

と説いています。

 

しかし彼は無情という言葉で

その危うい状況を諦らめるように

悟る事を説きません。

 

全ての絶対的真理が無い状態

である心は危うい。

まるでそれは

動物の心でもあるし

それ迄の人間未満であるとする

心境の中で生きるからである。

そして

その実相を表した

綱渡りの構図の中で

敢えて彼は超人になる事を

私達に説き、見事その思想的

結実を導きだしているのです。

 

そして私は遂に

大きく悟り、また大きく

覚悟したものである。

私は彼の世界観による

思想の行き詰まり

つまり永劫回帰という思想

から見えた矛盾を知った者。

そしてその超人思想という

素晴らしい人を

絶対的肯定思想に誘う

理論を

更に開花させられる者だと。

要するにそれは

絶対的真理を殺さず

超人思想を実現する行為を

実行する者。

 

それはつまり

以前の私のように

神の存在を知っても

尚、絶望する者を救済する

大いなる思想。

 

それを

私は

私なりの超人への道を

歩みながら

探り当て

遂には皆の完全なる救済を

実現したい。

 

あの日

そう思った私の信念は

今実現したかどうかは

自分でも解らない。

 

しかし

私の心の中には

あの若かりし時のような

絶望など今は無いのだ。

 

愛染聖天様が御降臨され

私の身の上に

いよいよ

奇跡が光のように

如実に現れ始めると

私はあの

私を聖天様へと強く

意識させて下さった

故人のように

神と自在に話が出来るように

なった。

私に頼るもの

血縁を持つ者に

裏切りが無い限りは

『生きた神の存在』を

功徳をもって知らしめる

事が出来るようになった。

 

そしてそのような歩みの中で

生れたのが

愛染聖天様のお導きに

よって生まれた

『大愛の思想』であり

それを実現する為の具体的手法

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

なのである。

 

愛染聖天様の説かれたこの思想は

まさに

愛染聖天信仰を辿る事によって

ツァラトゥストラの説いた超人に

なり、そしてそれさえも凌駕できる

教えがそこにはある。

 

何故なら

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』とは

『愛染毘奈耶迦順世の法』という

愛染聖天様が持つ神力とその教えを

殉じ辿る事。

即ちその中から

四つの価値を探り獲得する事によって

得られる最高の奇跡と悟りの

実現なのだ。

その四つの価値とは

つまりそれは

第一に心願の価値、

第二に信仰の価値、

第三に存在の価値、

第四に輪廻の価値なのであって

 

この思想の結実にあるもの

それは

『大愛の思想』の真の結実に

ある。

 

これをニーチェの

『ツァラトゥストラはかく語りき』

超人思想と照らし

合わせるとすれば

 

第一の心願の価値は

心願追及による自己創生である

これは、超人思想では『駱駝』であり

第二に信仰の価値は

自分の歩む道に絶対的自身を持つ

云わば超人思想で云えば

『獅子』であり

第三の存在の価値に至っては

その自己の存在の高尚さを

知る事は

これは正に絶対的自己肯定の完成

であり為に

これは超人思想でいえば

『幼子』である。

 

そして

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』には

超人思想には無い

四つ目の段階がある。

それこそが輪廻の価値であって

これは

ツァラトゥストラが説いた

永劫回帰という絶対的普遍的

世界観を

辿り己のものにするという

もので

この点に於いて

私達聖天教の説く

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』とは

あのニーチェの説いた

人類哲学史に巨大な功績を残した

強大な肯定思想を

凌駕した事になるのである。

即ち『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』

には超人思想には無い

この四つ目の成長過程があるからだ。

 

そしてその

『愛染毘奈耶迦順世帰命価値論』の

結実にあるものこそ

それは

『大愛の思想』の結実であり

これは

『ツァラトゥストラはかく語りき』の

超人思想最大の到達的思考

『運命愛』を

まるきり

超越した愛が

そこには在るのである。

 

この思想の

詳細は近直発売される

私の著書に書いているので

信徒の皆にはよく勉強して

欲しいが

 

今日私が何を皆に説きたいのか

その一番の心を説くとすれば

 

私達聖天教は

既存の既に崩壊した

神力不在

『全ての神は死んでしまった』

と言わしめる程の

既存の『聖天信仰』と違い

 

往年の聖天信仰の功徳を遥かに

超える功徳と奇跡力を

唯一この世に示し続けている

 

しかしその中でも

それぞれの成就の道筋に於いて

何故功徳が頂けないのかと

右往左往される方もいる

 

また

私が見るに

成就功徳を頂いている人であっても

尚心に悲しみを持つ人が

沢山いる。

 

そのような悲しや不安を

取り除くのは

私はやはり

上記の聖天教の思想。

愛染聖天様が説かれた偉大な

思想を勉強する事。

つまり

ニーチェの云う

超人になる事を目指す事なの

だと思うのだ。

 

そして大祭とは

その超人になる為の

信徒それぞれの

実践の場だと私は思っている。

 

私がここに至るまで

つまり

上記での絶望を感じながら

愛染聖天様の招来を実現し

その負の思いを払拭できるまでは

大変な心の苦労があった。

 

それまでの歩みは

良い功徳も悪い功徳も

全てが人智を超えていて

私はその度に

恐ろしくもなり

なんども逃げ出そうとした。

しかしその度に

愛染聖天様は

私を

ある時は苦しめ

ある時は功徳の雨を

下さりながら

神の仕業としか

考えられない経緯を

もって、私は

この聖天教を開基するに

至った。

恐らく

歓喜天の信仰宗教を開いたのは

この日本で私だけのはずだ

それだけ

不思議な事が

私に起こり続けたのだが

 

振り返り

その苦労や功徳の果実

の果てに

気付けば

私は、私の全てを

肯定し

幸せな気持ちになれる。

 

そのような

私がずっと求めて来た

本当の境地。

 

それこそが本当の功徳。

 

功徳を頂く心に

全くの肯定こそあれ

絶望の皆無なき

そのような

心境に至れたのは

やはり

自ら常に

心の糧を信仰に求めていたからの

だと私は思うのだ。

 

その追及より

自然と奇跡が生れて来たのだ

しかも

とても良い奇跡がである。

 

信徒皆よ。

明らめるな。

幸せになれ。

 

ツァラトゥストラになるのだ。

超人になれ。

 

いや我等が唯一生きし

大神の力と教えで

超人を超越するのだ。

 

その為に皆が真実真剣に

なれる期間。

それが大祭であろう。

 

そして皆が

あのツァラトゥストラのように

悟りを得

山を下り、我が大聖天の教えを

世に高らかと説法をせんと

心から思ってくれた時

我等の教えは大成し

世の人々の心に

強く強くそれは鳴り響くであろう。

 

最後に先日愛染聖天様の感応の

お言葉が下った事を

信徒の皆に伝えたい。

 

私は今年年頭の予言で

コロナは治まると予言したが

御本尊様の新しきお言葉によると

鳥や豚のインフルエンザが変異した

ウイルス。

もしくは

強いインフルエンザや

コロナの変異体が

中国から伝わり、韓国、日本をはじめ

世界で大変な数の人に被害を

及ぼすかもしれない。

そしてそろそろ大地が揺れ始める。

という事である。

 

また私が今年年頭で予言した

仮想通貨の予言だが

私が予言した横にすると

目になる三文字の仮想通貨

ADA(はじめのAを左に倒し、Dはそのままか

自由に位置を変えてもいい。

そして最後のAを右に倒すと見事に

目になる)が年末を待たずして

大高騰を見せているという。

現在世界の仮想通貨で既に

急激に高騰を見せ、時価総額

第三位にまで成長しているという。

さすが愛染聖天様の予言霊験である。

その通貨は元々カジノ専用の通貨らしく。

愛染聖天様から頂いた

感応による私の抱いた想念は

その三文字の目のコインが

パチンコ若しくは

スロットの機械

に投入され

機械の取手(レバー)が

倒されたその瞬間。

世界の全てが周り出し

すると

その目のコインは

突然立体的になり

右のAと左のAを両翼とし

真ん中のDが起き上がり同体を

形作ると

それは火の鳥。

つまり偉大なフェニックスと

なって天空に駆け上がり

世界を制覇したのだ。

驚く私に向い

聖天様曰く

『見よ。あれが世界を操り司る最も

力ある尊い大王のコイン。火の鳥のコインだ。

世界はやがてあの火の鳥が席巻するであろう』

そう云われたのだった。

 

そして予言は

また見事に現実となった。

 

そして

今日聞いた処によると

私が大変気に掛けている

愛知の信徒様の事だが

以前よりいじめていた

調伏相手の

若い社員が遂に子宮癌に

なり手術する事になったという。

恐らくもう子供は無理で

あろう。

私がそうなるようにと

祈願はいちいちはしていないが

何かの神意があっての事であろう

事は解る。

その人間の菩提を私は祈りたいと

思うし、成就させた信徒と伴に

そうしたいと思っている。

この調伏は二年近く懸ったが

やはり我が愛染聖天の調伏は

必ず相手を滅ぼす。

ただ注意して欲しいのは

去年から今年に掛け

既に調伏だけで六人の願いが

叶ったのだが

その内の一人の信徒の事であるが

長く調伏の祈祷を修してやり

それが奏して

その相手は絶えず悪性の腫瘍が出来

る体になり

手術を繰り返すようになったのに

関わらず

私に依頼した事を

本人も忘れているのか

知れぬが

『調伏の功徳を頂いて良かったですね』

といったら

『あーわかりません』と言った者が

あった。

調伏の願いは

忘れた頃に成就したりもするが

しっかりと年頭に置いておき

お礼と

調伏相手の菩提を弔わねば

必ず自分に返ってくる。

皆もこういった信徒にはならないように

して欲しい。

 

 

 

聖天教 兆象大宰

 

追伸

 

気持ちの高揚は

人に様々な可能性を引き出す

切掛けとなりうる。

 

しかし時として

高揚とは

心の箍を緩ましてしまうものだ。

 

高ずれば

思ってもみない

汚き言葉まで発してしまい

自分でも驚いてしまったりもする。

 

これは

私達が怒りを発する

早き血流鼓動の様子の時と

酷似している為

体と心が錯覚するからだ。

 

私は私の著作

『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』

では、

そのような時

大金剛輪陀羅尼を唱えれば

その行い、心は正され

それだけでは無く

より一層様々な功徳に心輝やかす事が

出来るとある。

 

では大金剛輪陀羅尼とは

なんであろう。

 

答えは簡単である。

神様と同じ心になりましょうと

いう事だ。

 

それこそが最高の悟りなのだ。

 

そして愛染聖天様の心とは

昼に夜に

日月と

全てを捨てて

全ての生命を照らし導く

全ての神々さえも

憧憬やまぬ

最高の神の心に他ならない。

 

 

信徒の皆様

遅ればせながら

旧暦明けましておめでとう。

これからが本当の令和参年。

勇んで信仰にこの霊験の道を

伴に歩まん。