甘露の密(蜜)

信徒の皆には、大祭を前にして揚々とした意気込みをそれぞれお持ちになられている時期だと思うが、教主であり、我が御本尊を信徒皆々になり代わり、お祀り主宰申し上げる私兆象大宰にとっても、それは同じことである。

私も忙しさが増す中に於いて、皆と同様、御本尊様の一番大切な行事に際し、緊張と興奮の高まりを禁じ得ない今日この頃である。

夏の大祭は、御本尊の歓喜たるや最高のものになるので、毎年この時期は成就者が続出するので私も楽しみである。

私は尊天との祈祷による同体を感得したい時、尊天のご真言の中で、祈祷中尊天の功徳の御力が天を突いたと感応出来た時、功徳の雨を私の手に降らしたもうというご真言があるのだが、この、即ちこれこそ甘露の雨なのだという、このご真言を唱える事により、我や信徒に、尊天が分け与えてくれた境地による喜びを感得し、次の悦与の真言により悦楽というものを感応する。そしてその後、調和をさせていくのだが、このように我が尊天様は、人を導き、分け与え、昇華し導く事をご誓願とご自分の信念、または、一番の歓びにしておられる。俗にいう聖天は人の欲を吸うのがすきだとか天部は自在で化楽だからしてそうだとか、修行無し、実践なし、経験なしの坊主は言うが、全くの間違いである。それであったら尊天信仰など今まであろうはずがない。

その者の心が神仏の信仰をそのような唯物主義で汚いものに観てしまって

いるのである。

それは、その汚い心に映ってしまい汚い信仰に変容した、なれの果ての見解であって、

尊天の本当の御歓び、性質は、上記の如く、人に喜びを無尽蔵に分け与える事により仏性の歓喜をお起しなされる崇高な神様なのである。

であるからして、私達が尊天の神力を本当に感受し続ける、要するに常に尊天の御心に沿った考え生き方を体得し実践する事にはどうすればよいかといと、上記の私の祈祷の流れから説明すると、常に尊天は人の世に愛とは何かを説かれているのだなと私は見解感受するに至っている。毎日尊天のご供養に際し、尊天は欲を吸うんだとかしか言えない行者が何を考えて日々すごしているのかと思うと寒気がする。そういう行者には何を聞いてもきちんとした言葉などかえってこない、ただひたすらに尊天さんは何々だとかブツブツと同じわからない言葉を繰り返す、それははっきりと自分がわからないからだ。

話はそれたが、それ故、私も悦与の真言に至っては、自分が頂いた分は、また、信徒が

頂いた功徳は、尊天が今私に惜しみもなく下さった如くに、多種の形で世に人に奉仕いたします。そう思い、いよいよの感情を移入して尊天の境地に同体せしめ、我の感想する

善行の姿と尊天の我々に対する愛の功徳の行為が一体になった時、またもって尊天は、己が目的誓願とする昇華によってその仏性の開花の顕現を成した事を祈祷中に確認せられ、大歓喜を発祥されるのである。(但し、私が仲介に頼んだ信徒がどこかしらやましいといつも結果は残念になる尊天は常に万物を瞬時に見透されておられる自在な神なのである)

 

 ここの於いて、私が伝えた、実践愛の重要性と、我が尊天信仰の現世利益、即ち奇跡の

顕現の実行に無くてはならない核であり、それはなにも宗教学としての

思想の体系化だけの理論ではなく、それを踏まえたとしても、我が祈祷の

験、奇跡にはなくては成らない、祈祷においての即戦力実践型の核なのである。

この核を、勿論のごときに持ち合わせている尊天と、そして主宰の私、そして何より、尊天にその心願をお託しある信徒それぞれが持ち合わせている事によりできる秘儀なのである。

よくいたらない坊主が無心というは、その者の言う無心は、なにも伝教せらることの無い情けない無心からなるものであって、

本当の無心とは、このような核をもっているからこその心の土台に立つ無心だと思って欲しい。

今日はその核である八愛の実践、一つ一つの愛に対し、含まれ構成されていなければいけない心の在り方を甘露の蜜(蜜)という名を冠し、教化したいと思う。

そもそも甘露とは、その漢字の如くは、甘い露であり、食物を連想されるが

それにとどまり、汎用されるものではなく、直意である甘い露(雨)を

よい政治の政策に当てはめて、あの王様の時代は甘露の雨がよく降ったなどで表現したり、仏教に於いては、アムリタという、甘く密のような味の食物を呼び、精神的な有難い甘い露の蜜(密)の定義とした。このアムリタはさまざまの苦悩を癒し、長寿をもたらし、死者さえも復活させる甘い霊液であり、常に天人たちはこれを食しているといわれ、いわば不老不死をもたらし、奇跡を起こさしむ霊薬のようなものであると説いたのだ。このアムリタは仏教の思想用語としての代名であるから、いつまでも死なないということではなく、生死を超越するということであり、言葉をかえれば悟りを開くということを起す、精神、心、の甘露の糧ということなのだ。

であるからして、八愛を構成する八つの甘露の蜜(密)を、アムリタという言葉とし、心に糧とすれば、尊天が促す悟りを得られるといってよいのである。

 

そしてこの食物を心に構成し、植え付け、または食し、その屋台骨を持ち現われる八愛こそは、温かく、不思議な、秘密の悟りを促すアムリタ(甘露蜜)により作られているといっていいのだから、また作られていなければいけないのだから、この八愛とはまったく崇高な愛であり、それ自体が秘として有りがたいアムリタ(甘露蜜)をもつ花として咲き誇る神の心そのものだと理解して欲しい。

尊天信仰の同体とは、この尊天の心を写し取る行為といっていいのだ。

信徒の皆は以上の大事な甘露蜜の意味合を理解し、これから唱えるその蜜を享受して欲しい。

 

一、大観蜜(密)

 

これは、愛の発起を見る時に、大きい観点から自分というものを見極め

観察し、自分という者をよく捉え、その愛という本質を良く見極める蜜(密)である。

例にあげると、例えば皆に好きな男性が出来て、その者に対する愛が深まって来た時、何も考えず、何も現実をみず、そして自分の心を視ずに、唯突き進むのは崇高な愛を危険に晒すものである。

皆が皆の親になったつもりで考えれば解り易い。

・まず自分というものはどのような人間関係の上にたっているのか?、(こうではいけないというものではなく、自分という者を確認しておけば、相手に対し、愛という関係を築く際に、言動、行動に於いて非常に有効であるという観点である)

これを、大きな環境に於いて考える。

・相手はどのような人間であり、関係性に生きる者か?(これも上同)

これを大きな観点から見てみる。

・改めて自分の気持ちを確認し、愛という行為に必ずついてまわる

不惜という、惜しまない愛の奉仕に値するか見極める。

注)愛とは盲目である。八愛には環境、自然、輪廻にまで愛が及ぶが

なにもこの盲目は異性にたいする愛だけにはとどまらない、

環境によっても、自分が愛着がある場所に対する愛は、他の人間に

対してどうなのか?これを大観によって見極めることは大切で、ごみ屋敷の問題などがいい例である。

また、異性によっても、相手が本当にいい人間かを見極め、愛を発動しないとこの崇高な人に寄せる不惜の愛が、不惜ばかりに悪人関わり、

墜落の愛になってはいけないのだ

 

続ける

 

 一の大観蜜により覚悟せられ、また確認、理解し、自分のものにする

作業をして後、改めて、更に今までの作業を突き詰めて同じ答えを

見出し行く作業が、

 

 二、小観蜜(密)である。

まさにこれに於いて、人は墜落しても構わない不惜の判断と自分の

思いの正しさに自信を漲らせる事であろう。

しかし、恋愛に留まらず己の考えの正しさを見つける行為は

人の心を揚々と隆起させる作用を持つことを学び踏まえなければいけない。

子供が日中騒ぎすぎると、興奮して眠れなくなるようなものと考えれば合点がいくと思うし、あまりの興奮は、他との差異と違和を生じさせやすい。

行き過ぎた、行動、考えをここで整えるのが正しい愛の生成に繋がると

考えなければいけない。

これによって起せしむ己が情動への働きかけとして、

三、調蜜(密)

心をよく落ち着かせ整えるという。事である

よく、何かする前に深呼吸しろなでと言われることもこの調蜜と

受け止めて欲しい。

座禅、冥想も然りである。

四、省蜜(密)

ここで必ず行わらなけれいけない心の作業である。

上記の流れから、よく整われた愛心の完成に

必ずや高揚から調和、平静に向かう心に、省みなければいけない部分が

見いだせてくるはずである。

例えば、周囲の日照権を妨害すること甚だしい大木を

万象愛からはじまり、他愛(環境に良くないばかりか、決定的に愛すべき隣人に対する影響を考えた結果)という面から大木の伐採を考えるとする。そうすると大小の観蜜を過ぎ自分は周囲に賞賛される行為をするのだという高揚に包まれる、そして調蜜により高揚した自分を落ち着かす。その時の作用により、抽出されるものといえば、

考えられるに、周囲に対する英雄的滅私行為の自覚であり、それは高揚を促すも行き過ぎて、そもそもの人の為と考えた事が、自分の名誉欲にすげ変わり、気持を整える作用により、反省すべきものと自覚する。

まるで環境改善をマニフェストに掲げながら、当選後不遜になり間違った方向に走る政治家になってしまう事に気づく失敗を防ぐのと同じである。

高揚した気持ちの結果、木の伐採方法の考えに、荒く強引な面を調蜜によって抽出し、省蜜によって問題点の修正を実行できるのである。

例にそって考えても、是非なくてはならない省蜜という心の甘露蜜を踏まえ、いざ調い、完成された数々の愛にたしての因子に対し向かうべきは

 

あとは実行のみである。実行とは影響させるという行為であり、

 

他に己を影響さすという行為には、二つある。

実際に外的に言葉、行動とし投げかけ、働きかける行為の

六、動蜜()

次に自己にある思いをじっと内に滾らせる行為によって間接的に影響させていくという行為である

七、静蜜()

であるとと説く

動密とは実際に相手に投げかける行為として、

よく相手を考えた、愛ある、言葉、行動はでありこれが出来ていなければいけない。

否、出来ていなければ愛は成立はしないのであるから、

それをよく心に蜜として存在させるこれは行為である。

憎しみや人を傷つけては本末転倒でる。これを未然に防ぐ蜜でもあるのだ。

また、行き過ぎた言葉、行動、であっても相手に重荷をかけてしまったりもするものであるから、この動蜜の存在は不可欠である。

次に静蜜とは、言葉、態度などのは外向きなるものに対し、愛を内なる心で燃やす行為に求められる蜜であり、その愛への考えである。

これもあくまでも綺麗なもので無くてはならない。

また、場合によっては動蜜をする事が相手への迷惑になる

場合、成就までじっと深い愛をもって見守る行為をも

静蜜に該当する。

この二つの蜜どちらもが、調いできていれば、愛も更に深いものに成長するであろう事は

必定ではある。

そして、ここで、いままでなんども考え、心で模倣してきた不惜という愛の形を

ついに心に蜜としての完成体として到来させることにより、

七、不惜蜜(密)

の発性と働きを見るのである。

惜しまない強い愛を意識する蜜の世界観であると受け止めて欲しい。

またこれは上記の蜜の働きかけがあってはじめて成し得る形であるからして

非常に尊いものである。

 

 最後に

 

 八、本尊蜜(密)

 

これらすべての感情からなる考え、行動、は

歓び、怒り、などの唯、単純な情動に至っても、

我が本尊に深く帰依し、崇め、常に、それらの

根底に御本尊様の姿を存在せしむ事に、この八つの甘露密の

完成を見るのだ。

 

今言った言葉の一瞬に御本尊様に帰依する私はいただろうか?

 

今行ったしぐさに、御本尊様と供にあらんとする自分はいただろうか?

 

今何かを求めた感情に、御本尊様、そしてギャクの字は、その教えは

 

溶けこんで私と一体になっていただろうか?

 

そう何度も改めて思い、本尊に回帰する心の甘露の作業を

本尊蜜とするのである。

これは、日常の細かな、それらにともない絶えず御本尊様を

意識する事によって、私は信仰は最近できてるからとか

私はもう教えられる事はないなどの

信仰に於いての慢心、増長を防ぐとともに、常に意識を

働きかける事による、より一層の御本尊との同体と、

冒頭で書かせていただいた、尊天の歓喜に対する功徳の増大を如実に促しせる最上の甘露蜜なのである。

難しく思う者はまずはこれだけを思っていても、ゆくは他の甘露が後からついてくるであろうほど重要で有難い、なぜなら、唯単純に御本尊様ならどうお考えになられるだろうと

純真に常の多種の行動に己が求問する行為だからである。

この甘露の蜜は、まさに御本尊様なのであるから、不借の愛でなければいけない

不借であるからこそ、無意識の中にも持つ上記でも書いた意識そのものでなければいけないのであり、これこそが成就の蜜なのである。

 

以上が八つの甘露の蜜であるが、本尊愛だけとでいいのだと、信徒として

そんな安易な実践はしないで欲しい。

この有難い、甘露行に支えられた、八愛水を注ぐことによって

成就したものは更なる成就を、まだのものはその願いの昇華を

目指し、良く実践せらるる事をご指導させて貰う。

完璧な愛水の構成は、この八つの奇跡のアムリタ(甘露密)の心の存在に

あるのだ。

 

 昨日浴油の中盤に、尊天様を懐紙で包みながら、胸のところで深く

皆の心願を念じ、お体から油分をよくとるのだが、その時に

一日の御縁日だったからであろう。

大変部屋が揺れたのだ。地震だとおもったら地震は無かった。

不思議である。

今度最秘法の人間でこの油のついた、尊天様を包んだ懐紙で作った

御守りをあげようと考えている。

大変御利益は間違いは無い。

 

 

 

                       合掌

 

追伸、

上記の甘露の密により、私の好きな人間は駄目だからあきらめるの?

など、己が願とするものから蜜の実践により離れてしまうという

人間が信徒の中には沢山出てくると思う。

しかし、安心して欲しい。

そのどうしても欠落落第してしまう蜜の部分を祈祷の力で

変化変容させ完璧な姿として作り変えてあげるのが

私と御本尊の法であり、壊れほつれを願いにより繕い繕い

助け合う、現世利益の絶対神と私、そして信徒の皆さんの

これが尊い信仰の輪廻の姿なのである。

自信をもって成就の道を供に歩もうではありませんか。