生死の秘密を明らかにせんと欲すは
凡そ神仏の道にあらんとす者の
悟り得なければならない一大事である。
(つまり重要な事である)
そして
その答えを
信徒血縁の為の修法の日々の中に
求道せば
宗教家であるならば皆そうである
事と存ずるが
自ずと
我が得心の歩みたるその深まりの中に
一切の欲を捨ててこそ
その秘密を解く鍵があると
そのうような思いを
深く生ずるようになるものである。
いわゆる
無我の境地である
密教修法に身を置く者の
凡そ汎たる在り方。
つまり
それを
愛染聖天様を日々奉じながら
その御力を使役し
信徒万民の救済をその活動
生き方の根幹とする我に照らし申すなら
先ずもって
そのような境地の獲得を
その手法として
己一切の願いを捨てさるを決し。
ただ願い縋る血縁の
心願だけに生きる。
つまり祈祷修法という
神仏との瑜伽の道場に於いて
その感応の実現により
神仏の幸を万民に与えんと
す行為を
生死の大事。無我境地獲得の手法と成し
その中に光明を見出すのが
正道にあらずやと心得る。
然るに
そのような救済の心。
それこそが
御本尊愛染聖天様の本懐。
またあらゆる
神仏の本誓であるとも
信じながら
日々己を捨て
一心不乱と
秘法修行に励んで参った
私ではあったが
その道を求道するに於いて
令和弐年は
この私にとって
大いなる疑問と葛藤が
到来した年になった。
それは去年という年の
禍々しい不吉を
信徒ばかりか日本、いや世界万民の救済の
祈祷に、一年の殆どを
忙殺された日々より生れ出でた。
至らぬ私故の葛藤であった。
二年前
私は殆どの大変大きな水害を
皆が見つめる中
その大自然の猛威を
愛染聖天の大奇跡力をもって
ある台風は消滅させ、
ある台風は逆巻きと返し
封じ込めたが
しかし
ただ一つの大きな台風だけは
被害は封じ減速させたものの
滅却する事が出来なかった。
これは誠に残念ではあったが
内心
この日本に大歓喜天を思い通りに使役し
大自然を操り
しかも人心救済に及べるものは
他に居なかろうにと
実は大変な自負はあり
その自負の炎は
一層燃え盛ったものだった
その証拠に
この年は祈祷による
恋愛成就は日常茶飯事であり
それは
我が愛染聖天の日本唯一の抜きんでた
歓喜大自在力であるので
それを参考に入れずしても
癌を患った者や危篤の者。
また不妊などの人間を数多く救う
奇跡を私は秘法にて現出させていたからだ。
そして
その時点での私の到達していた
この世の秘密である
生と死の大事を悟り得る為の境地。
無我の境地。
に向い得た悟りとは
我の願い一切を捨て
他の願いに生きる事。
つまり
我を捨て信徒の為に祈る事。
厳密に云えば
信徒の願いを叶えんとす
願いだけを心内に残す事だけは
赦して可なるものであり
それこそが
正しき達観と思っていた。
その証左としての
上記の如くの奇跡発現なのだからと
思いを強めてもいたのである。
そして令和弐年という
大不吉の去年である。
私は懸命に大凶星と闘かった。
信徒の皆はじめ
私に注目する国境を超えた方々にとっては
去年の私の大神通は
表向きは華々しく見えていたであろう。
例えば
ウイルスの発生や
地震。
そして台風の発生に至っても
私は愛染聖天様の心魂の力により
その殆どすべてを言い当てたし
何より
愛染毘奈耶迦明王様の
大祭を行い、納め切りの秘法並びに
愛染浴油供秘法の大修法を
修してからは
未曽有の水害に世界が悩み
我が予言通りダムの在り方に
世界が一喜一憂した危険なる状況にあっても
それからというもの
不思議な事に
この日本では
パタリと水害は止んだ。
そしてそれ以降
一度大雪が来襲しただけになった。
だがこれだけの実績を世に
いくら体現しようとも
行じる私にとって
去年の大凶、禍々なる霊障の
波動が及ぼす
われが
修法する度に
正道なる救済の道を
邪魔して止まぬ
その得体の知れぬ頑健さに
己の行の拙さまで
感じずにはいられぬ程のものを
私は密かに
常に感じていたのだ。
それが最も大いなる形で
現れたのが
安倍首相の退任劇であった。
第二次大戦後、国際社会が
最も激動する中
どのようなイデオロギーの人間に
とっても
彼の存在は日本の柱そのものであり
これからも
絶対的に必要な柱であった。
また愛染聖天様も
そう仰せられていた。
しかし日本にとって
もっとも重要な戦後最上の首相は
その最も運気が輝くであろう
11月を待たずして
突然辞任してしまった。
私はこの事で
大変落胆した。
予言が外れる事はある。
しかし
その予言の当らざる意味
の陰にあるもの。
それは
正義の為に
是非とも
日本万民の為に成さなくては
ならない事象を
我が愛染聖天様が
見捨てたという事であった。
しかも
この愛染聖天様を招来し
一心同体である血と魂を分けた
この私の願いが見事に折れ
その後にある日本の政治は
最近の日本は、国中が
不安と焦燥に喘ぎ、
何やら恐ろしくもある様相を
今では見出してもいる。
正に日本にとっての大凶事で
有った事は間違いない。
つまり沢山の天変地異や奇跡を
世に示した去年であったが
私は日本にとって
未来に続くであろう
もっとも大事な事を
お祓いし
守り通す事が出来なかったのだ。
愛染聖天様は仰せになる。
『人智では解らぬ事もある』と
このような愛染聖天様のお心を
理解出来なくも無い。
然しながら
此れ迄世に人智ではとうてい及ばぬ
奇跡を
まるで日常のように成して下さっていた
御本尊様が
この私の去年の一番の肝いりの願いを
絶ってまでして仰せらる
その『人智では解らぬ事もある』
とはいったいどのような人智なのか
私はこの仕儀に至り
『我が心の得心の在り方に問題が
あるからして
このような日本万民の未来に
とって非常に大事であった
我が肝いりの願いが
聞き届けられなかったのだ』
だからして
『人智では解らぬ事もある』
と愛染聖天様から諭されても
例えそこに言葉が無くとも
いつもならすぐに
感応悟り得られる大神の御心も
判る事が出来ないのだ。
私はそうお思った。
またそう思い。
私と愛染聖天様の間に
僅かなる隙間まで
感じさせるに至る
凶星の力に
無力さえ感じた。
それ以降
私は自己の悟りと向き合い。
自己の改善により
信徒の為。
そして教団の為。
何より愛染聖天様の為に
求道研鑽に及んだ。
そしてその求道研鑽は
私のただ一ツの残された
そして最大の願い。
信徒の願いを成就させる事を
捨て去る事。
それこそが
私が云わば凶星に我が願いを
見事に奪われた原因。
つまりそのような大敵に
打ち勝つ上昇たる悟りの
階梯に上り詰める手法に思えた。
私にとっての完全なる
無我の境地に至るには。
私の心に残されたもの。
それは信徒救済の願望成就の願い
の心しかもう無かったのだ。
しかも
もうこの頃に至っては
私にとっては既に
その救済の心が
どこか持っていてならない
妄念のようにも思えてきて
いた。
そのように私の悟りが
更なる心の無我への道へと
歩もうとしていた時分。
即ち冬の大祭結願の時の事である。
大祭中は上中下品、また調伏に
クリスマスの恋愛成就の秘法と
沢山の修法を抱える私は
上記のように
皆の願いを思う事を捨てる
ことこそ
我が残された道と考え
そう
よくよく観想にその達観を
相混ぜながら
修法に及んだ
結願
後夜一座目の
潅油する事
三百数遍に及んだ
その時の事である。
潅油の真言を唱え
熱心に油を潅ぐ私の背に
俄かに一陣の尋常ならざる
冷気を秘めた風が吹き付けた。
『はて?』
そう思った。
私は
油を抄う杓を持っている事から
風が吹き付けた背後には
振り向く事が出来ないので
その様子を伺うべく
愛染聖天様の天座を据える
油据えたる多羅を置く
金色の火鉢に映える
我が背後にそっと目をやった。
そこには何もいなかった。
『物の怪ではなかったか』
安心した私が
さあ、気を取り直し
油を掛けようと思い
愛染聖天様の仏像の前に目を
やったその時の事である。
私の目の前に
見た事も無い程の美しさを持った
象の天冠を被った
この世の者では無い御方が立ち尽くし
おられた。
それはまさしく
女天様であった。
格好は天照大御神のような格好をなされ
天冠の上から垂れる一匹の象の装飾は
その美しさを
さらに神秘的に成らしめて
いた。
胸には神道の鏡が
首元から掛けられている。
その鏡の輝きの中には
まさしく
あの十一面観音様の
姿が映っていて
私はそれを発見した時、
『あーこの鏡は
女天様の心なのだ。
だからその御心に住む十一面様が
映っておられるのだ』
そう思った。
すると女天様が
私の頭を
まるで母のように撫でて下さると
頭を撫でる度に
胸元にある丸い鏡から
十一面観音様の方瓶とそれを
握る手が現れ
多羅にそれはそれは
並々と油を潅ぐ、その注がれる油の中に
私が常に護身法の前に観想する
三千大世界が生れし前に
広大永遠と世に広がる
一切を受け入れし
愛の水面を
私は感じ取った。
その時である
女天様は
『起きなさい』
そう美しき声で
私に仰せらた。
その声は私のどこまでも
深い心に響いたかと思うと
女天様は白い羽の生えた象に姿を変え
多羅の油に姿を溶かして
消えていったのだ。
その刹那である。
『ガーン』
という大音響と伴に
私が握っていたその杓は
見事に私の手から滑り落ち
男天様の頭をしたたかに
打ってしまったのである。
なんという事であろうか
私は寝ていたのだ。
大祭に修した
沢山の秘法により
私の体力は限界に達していたのだ。
そう
あの女天様とその携えた鏡の中に覗いた
十一面様は
私が不覚にも修法中に
うたた寝をした夢枕にお立ちになられた
ものだったのだ。
私は急いで謝罪の為
『我、凡夫にして、恐れ多くも御本尊愛染聖天様の
有難き御髪を打ち付けたる事、、云々』と
浴油供の時、粗相を犯した時の法句を
速やかに述べ。
印を結び
陀羅尼を唱え始めると
するとどうであろう。
私の心内の中に
美しき悟りの世界が彩りはじめたのだ。
その心の感じ方は
あの女天様と邂逅した夢の感触感性と
非常に酷似していたもので
女天様が現れたのは夢では無い。
現実だ。
私にはそう思えた。
私は陀羅尼を唱え感じていた。
十一面様が浪々と注がれた油の海。
羽の生えた
白象に変化した女天様が消えていった
その油の水面に。
一切に及ばさんとす
心が生れた事を
その時感じたのだ。
そうである。
魂とは
命のありかたとは
陰と陽。
聖天教では
凸と凹と云うように
受け入れる心と
その心の度合いに従った
及ぼさんとする心が存在して
初めてこの世に隆起する。
そしてその心がまるで
ブロック、歯車のように
様々な生命の魂と嚙み合って
この世は成り立っているのだ。
例えば
心願の異性を信徒である
あなた様が認識するに
心願の異性が発するもの
つまり
その容姿であり、言葉。
それを認識。
つまり受け入れて
初めて
あなた様のその異性に対する
認識は成り立つ。
そして心願の異性もまた
同じように
あなた様の及ぼそうと
発する心。
つまり
存在、容姿、言葉
その発せられる全てを
その受け入れる心で
認識して初めて
その異性はあなたという存在を
この世に認識する。
まるで噛み合う歯車
鍵、格子のようにである。
その一切を受け入れ、また及ぼさんとす
二つの意識が生れ
この世に魂の存在。
つまり三千大世界の根本たる
魂、意識である
愛染聖天様が生れ落ちた事を
私は観想するに至り
そこから
様々な意識と
様々な魂、一切生命が産まれ落ちた
事を感じた時、
私は悟ったのだ。
私は女天様に起きなさいと
云われて
その結願の修法の場に
目を覚まし
現実に舞い戻った。
そして愛染聖天様の
御髪を打ってしまった
謝罪の陀羅尼を唱えるに至った。
その唱える陀羅尼の中で感じた
いつも私が護身法の前に観想する
この世の始まり。
それは
この世が始まる前に広大無限に
広がる一切を受け入る愛の海。
女天様はその海に飛び込んで
溶け消えていった。
十一面様がなみなみと注いでくださった
その油の海に向って。
私は思ったのだ
起きなさいと言われ目を覚ました時。
その時に
私の中で
女天様が溶けて行った、その一切を受け入れる
油の海に
一切を及ぼす意識が生れた事を。
そして陀羅尼を唱えはじめると
様々な意識が生まれ出した事を。
その一部始終のいきさつを
私はまるで
本当の三千大世界
つまり愛染聖天様の
魂と意識の開闢が
まざまざと投映されたように
思えたのだ。
そうである
私は全く間違っていたのだ。
信徒の救済す心まで捨てる。
それは一切を及ぼさんとす
心を捨てる事。
つまり
この世を終わらす事に等しかったのだ。
私が女天様のお言葉によって
起こされた時に投映感じた
この世の開闢は
人に及ぼさんという
能動
投げかける愛で溢れていた。
そうなのだ。
確かに受け入れる大きな愛の海の
水面に
さざんでいるそれを
大波に変えるばかりか
天地をも飲み込む程の
強い
能動的な愛で
それは漲っていたのだ。
私は捨てるべきでは無い
素晴らしき
能動的大愛の心。
磨きし我が尊い
救済の魂の意識
達観をむざむざと
捨てようとしていたのだ。
全ての宗教家
いや
それはどんな人間であっても
生死の大事。
つまり人の生と死の秘密を
思い詰めれば
やがてその考えは
どうしても
邪念、妄念を生み続ける
欲の根源たる
己の身。
即ち現世の事を
不浄とみなし、
どうしても
肉体が滅してからの
世の事を
崇高と考え
そのようにあの世こそが
魂の本来の学ぶべき
世であり
道があると思いたがる。
斯く云う
この私も、そのような
考えに取り憑かれていたからこそ
無我になる事を
まるで
無の世界に殉じる事だと考えて
しまっていたのだろう。
しかしそれは間違っていたのだ。
何故なら
私が女天様から起こされ
達観した世界。
この世の魂。
つまり
愛染聖天様が生れ出でた
その時。
確かにあの世も一緒に生まれ出でて
いたからだ。
愛染聖天様が
説かれる御経の中で
書かれておられるように。
まさに愛染聖天様はこの三千大世界の
輪廻転生を司る
根源であり、そのもの
つまり輪廻を司るとは
あの世もまた愛染聖天様そのものであり
つまりは
あの世とは
愛染聖天様がこの世の開闢に
一切の受け入れし愛の海から
一切を及ぼさんとす愛の意識が
生れ出でた時。
その魂と意識が生れたからこそ
存在する世界であって
死や無の世界では無いのだ。
私が信徒であるあなた方を救わんと思う
気持ちは間違いでは無かったのだ。
延いては
君達の異性を得んとしたり
出世、増益を願ったりする事も
それは清浄導かれる
に値する内容の事はあっても
全てに間違いなどは無いのだ。
何故なら
私が結願の日に
女天様から目覚めさせられたように
あなた方の目覚めも
その心願あってこそなのだから
何故ならその心願がなければ
信仰に生きよう
愛染聖天様と伴にあろうと思ったで
あろうか?
心願こそ全ての目覚めであり
忘れてはならない
捨ててはならない
尊いものなのだ。
それがなくば
私達は意識が起きる以前に広がる
無の世界に陥ってしまう。
いやこの世は無くなってしまうのだ。
そしてその心願から
全てを美しく磨いて行く事こそ
一切魂、生命のあらなければ
ならない姿であったのだ。
私の達観がそのように
あなた方信徒それぞれの
あらゆる心願の在り方に及び
その一つ一つを美しいなと感じるに
及び
私は
自信をもって
あなた方一人一人の心願を
叶えてやりたいと
そう思えた。
すると何故だろう。
私は心から
月が見たくて見たくて
堪らなくなった。
月とは
愛染聖天様の闇夜を照らさんと
欲す心そのものだ。
その心は
広く一切生命を照らす。
いやそれだけでは無い。
それだけでは
その月の如くな愛染聖天様の
御心の説明には
不備がある。
皆が月を見た時
どう思うであろうか?
その月は
皆を照らしているようであっても
驚くべき事に
どこまでも
あなたの心だけに映っている月。
あなただけの月なのだ。
言い換えれば
いくら一切生命の為にと照らしている
月であっても
あなたの心にその月を映じなければ
ついにあなたは月の存在も知らない。
知る為には心に月を映ず。
あなた自身の心に映じてこそ
あなたは月を感じる事が出来る。
つまり月とは
一切生命の為と謳いながらも
どこまでも
あなた一人の為に輝いている事に
等しいのである。
そうである。
愛染聖天様の導きとは
私の神通の御業による救済とは
万民救済と輝き垂れ給いながらも
その実は
それを願う。
信徒
汝一人だけにそれは輝き
垂れているのだ。
去年の私は
政の在り方を
御本尊に問うばかり
ただ広く万民の為に
あらんとしていたような
気がする。
それは広いのでは無く
もしかして非常に浅いもので
あったのだろう。
そう私は月を思う事で
深い反省を感じる事が出来た。
私はこのようなまるで私の
心の月を遮る心の雲間こそが
本当の去年の凶星の正体なのでは
とふと悟るにも至った。
成程。
そのように反省せば
愛染聖天様が
『人智では解らぬ事もある』
と私に仰せられた
その事象も
私は
広く万民の為に何故そのような
仕儀に至ったかと
御本尊に問い
己を責めるよりも
それと共に
その事象を
我だた一個の
魂に垂れたもうた
愛染聖天様の導きと
受け止め
己一人の信仰の悟りを
追及する心の作業を
成さなければならなかったの
であって
愛染聖天様の
『人智では解らぬ事もある』
というお言葉も
そう考えると
『ひとまずそれは置いておき
もっと別の方向で悟りを解せ』
そう云われているように思える。
私はそう悟ると愛染聖天様の
その短きお言葉の中に
誠に深淵大いなる神の魂を
感じてならなかった。
そしてようやく
結願一座目を済ませた私は
窓辺に実際の月を見るに及ぶと
その美しく万民を照らすも
我一人の心を照らす清浄たるその光に
己ばかりか
信徒一人一人の
その生命は
しっかりと
願いという意識があるからこそ
この世が在る事を感じ
どうして私は
あのように
信徒を思う願いをも
捨て去らんと迄思ったのか?
その考えがその時には
何故かもう何十年も前の
童の頃に思った
古い考えのように思え
そのように考えた自分を
今思えば
真面目一徹よと
わが純真なるその愚鈍さを
おかしくも思えてならなく
私はその時
本当の意味で去年の凶星を
降伏滅する事が出来た。
勝利出来たのだなと
そう思ったのだった。
令和参年の抱負として
今年は二冊の本を出版したいと思っている。
その内の一冊はまさに
完成が間近である。
これは我が教団の思想の概念を
書いたものであり
私や千宰、万宰
また何人かの信徒様の
これまでの信仰の歩みや
体験談等を載せた本になる。
また二冊目は
信仰に於ける箴言集になる。
もし時間が許すなら
現在
あまりにも
私達の礼拜作法は
とても実践的である。
どのような礼拝作法より
それは強力である。
しかし
とても長いそうで。
私もそのような感想を受けて
信徒の気持ちになって
考えてみれば
少し長いのではと思うように
なったので
短い礼拝作法を書き記すと供に
愛染聖天様の恋愛の秘法に
近い礼拝作法を
解禁せねばとも千宰の勧めで考えてもいる。
(私の恋愛の秘法の断片も
取り混ぜたものにしたい)
また
上記でも縷々と書き述べたが
今年は
私はもっと信徒一人一人の
為に深く心を置く事を抱負と
したい。
そういえば昔は
私に怒られた人間の方が
成就するとか云われていた時も
あったようで
そのように若かりし時の発心に
心を再度置いてみる事も
必用なのでは無いかと思う。
(怒る程程熱心であった)
そういえば
今年トランプ大統領が再選され
なかったが
実はそれはそうでは無い。
愛染聖天様は
トランプさんは
もう一つのアメリカの大統領。
もしくはそんな長い間を置かず
大統領になるという。
また
もしくは死ぬ。
これが本当の正しい
愛染聖天様が私にした予言で
実は今年のトランプさんへの
予言は
私の希望を書き
その事で愛染聖天様に
成就を願ったものであったので
私はこの度の結果は
寧ろそうなるであろうと思って
いた。
それより驚いたのは
バイデンさんが就任した事だ。
私は実は本当は女性が
大統領になると霊視していたのだ。
何故ならバイデンさんは
近いうちにこの世から
居なくなる
もしくは精神が錯乱するのは
決まっているからだ。
ただバイデンさんは本当は
心の優しい人だと思う。
私は何故か解るのだ。
また愛染聖天様曰く
この世を影で操っているという
人がいると
トランプさんはじめ様々な
人が云うが
その一番偉い方は実は女性で
しかも大変博愛に満ちた方だから
世界にとって
悪い事ばかりでは無いと
これは既に何年も前から
愛染聖天様が
私に仰せになる事であって
私も何か解らずでもないような
ものをいつも感じている。
ただトランプさんが大統領に
ならなかったのは事実だが
世界がアメリカ大統領と
愛され認識しているのは
今でもやはりトランプさんなのでは
無いだろうか?
何故なら
辞めた今でも
テレビをはじめ
そこら中で
いつもいつも何処も彼処も
トランプトランプである
そういう意味を考えても
やはりトランプさんは
私は本当の意味で
再選したのだと思っている。
話がまた逸れてしまった。
話を戻すと
今年は
表向きは不安な事ばかりで
あるが
既に禍々しい不吉は世を去った
確かに上記で書いたように
政治的には安倍首相が退任した
事で様々な影響があるものの
私は良い一年になると感じている。
そういう意味で
信徒の皆に於かれては
去年のように
周りの凶事に
自分の心願さえ願う事も
憚られた年と
打って変わった
己の心願に一心不乱に
突き進む年にして
欲しいし、また私も
それにじっくり相対する
年にして行きたいと思っている。
最後に
私は上記における
抱負について
『発心』という言葉を
使った。
この発心とは
つまり
常々に
心を起こす事であり
初心とも云える
心の在り方だが
これを説くに
この心の起こし方は
汚き心より発しても
先ずは構わないが
心の起き方とは
それは常に成長するもので
ある。
ならば
信仰の道を懸命に
歩む道筋に於いて
その都度
達観せし
その心より生れ起きた心
を発心としなさい。
そのやがて
そのように清浄され削げ落ちた
心の在り方にこそ
神仏が鎮座するもの
我が法を祈った時
我があなたの心に入り込む事が
出来るものなのである。
畢竟
発心とは
常々に発す
『心願』に通ずと
思召しめなさい。
これは心願成就に本当に必要な
ことだと私は思う故
教化して於きます。
またこれが本当に最後になるが
令和参年。
明けましておめでとう。
今年も常に
私は皆の魂と伴に在る。
途絶えぬ
その篤信なる歩みを
皆が止めぬ限り。
聖天教 兆象大宰
追伸
発心。初心とは何ぞ。
それ即ち
愛染聖天様そのものである
三千大世界という広大無辺、永遠なる時を育む
それそのままの普遍的姿、法則を
我等一切生命が限りあるその短き生に於いて
具現証明する道に生きる覚悟を云う。
もし
全ての者がこのような発心、初心の真理を
知り歩む世が出来たなら。
朽ちてはまた生まれ出でるこの生命の世界にあって
個々、それぞれの存在と心は繋がり
一つの永遠のものになるかもしれない。
そして、それこそが真の
愛染聖天様への帰命の実現なのではないだろうか。