令和四年教主年頭の言葉

 

 

令和四年教主年頭の言葉

 

 

我が言葉通り、厳しい東風に迎えられながら

いよいよ幕を開けた、この新暦令和四年。

信徒の皆に

私、聖天教教主兆象大宰より

如何にこの近年稀にみる

凍えたるあめつちに際すれど

其を融解立ち向かう程の

大愛の気概と祈りを込めて

新年の挨拶をばさせて頂きたい。

 

とは云っても

元日より

既に旧正月に手が届く程に

間を開けて幾久しく

これもみな

常ながらとおぼしながらも

殊には

我が血縁たる

信徒一人一人ばかりか

この三千大世界一切生命の祈願

怠らんと修法欲しての

教主としての厳しき務めが故と

信徒の皆には

どうか御理解頂きたい。

 

そしてその間

二つの天災が起きた。

つまり

トンガで起きた大噴火と

大分宮崎で発生した大きな地震

なのだが

これは正に私の発した

先年の感応の予言通りに

発生したものであり

 

勿論この二つの天災のうち

千年に一度の大噴火と言われた

トンガでの天災に対する平癒の祈祷は

現在も継続中なのだが

信徒の皆は篤信にも皆一丸となって

今日まで祈りを寄せてくれている。

 

誠に篤信な姿勢である。

 

そして寄せてくれる皆の

その祈りの手管と云えば

我が聖天教の

愛染大聖歓喜自在天観世音菩薩礼拝作法

が主であろうし

それこそが正道に能いする。

がしかし

時間の無い方は短い礼拝作法でも

それは構わない。

勿論祈念の時間でも宜しいだろう。

 

ただ出来得る事なら

愛染大聖歓喜自在天観世音菩薩礼拝作法

を無理は解るが

出来る限る時間を見付け

正法をもって修されるほうが良かろうかと

は思う。

 

何故なら、我が秘法修法が威力、実利が

感応、届き易い人間。

つまり功徳を頂き易い人間とは

やはりこの正道たる作法を

懸命に修している人間が多いのが事実であり

見ていて、殉教の度合い、教義による人間的成長も

それは各段に違うと見えるからだ。

しかしながら

正道であれ、短きにあれ、祈念の時間であれ

そのどれもが祈りには変わりは無く、

そしてそのどれもにも信徒の真剣な真心が流れ

ているのだから尊い。

 

真剣と云えば

一つ私が常日頃持つ矜持を申せば

 

私は、己を聖天教教主として、

稀有なる神通力を持ち合わせる

一己の聖天行者、

そして祈りによった救済者として

その在り方は

常に生死に臨む

一人の剣客であると存念している。

 

故に私の修法は常に己の生を捨て死を捨て

そのはざまにたった

乾坤一滴の秘技と心得て貰いたい。

つまり私の常なる境地は

愛染毘奈夜迦順世帰命価値論によれば

既に『才人』の域を超えているのだ。

 

八百万大小聖天並びに

世の様々な神々の怒りや障礙、呪いを受けた

信徒を

私が納め切りの秘法にて救済に及ぶ時、

 

私は如何に相手が神であろうが

愛染聖天様との感応を心掛け

平常心を保ち、その姿勢を崩さない。

それが悪魔、魑魅魍魎の類であり

または誠大勢の悪霊であっても

常に恐れを抱かず、惑わされず

怒りに捉われず、欲に翻弄されず。

ただただ内心に

信徒の救済を湛えた凪たる

大愛の大海を

愛染聖天と伴に無心に見つめ

敵が息を切らし

その情動に隙が表れるのをじっと待つのだ。

神々から悪魔まで

人外の大きい力、霊体は

並外れた霊験によって

人を呪い、その怒りは霊力が大きければ大きい程

中々赦してくれるものでは無い。

特有のしつこさを持っている。

しかし皆、その大きさ故に

障礙を及ぼす相手を侮るばかりか

納め切りに及ぶ、一人間である行者である私に

対しても、この魂を簡単に喰らうてしまわんと

激しく増長しているもので

そこに隙がある。

そこの活路がある。

そこに信徒を神々の障礙災難から救う勝機があるのだ。

だた己より強大だからと怯むのでは無く

一己の生死を超えた境地を持ち

聖天行者という一人の剣客となって

敵の短所を冷静にあらゆる救済の心を持って

端然と見つめ、

敵が油断するのをじっとじっと待つのである

それは長丁場になれば半年一年にも及ぶ事がある。

そしてその隙が敵に現れた刹那

全身全霊を持って、愛染毘奈夜迦明王の大剣にて

敵を切り離し、浄化滅却せしめるのである。

 

これは調伏も同じである。

であるからして、私はどのような相手であっても

そのように挑む。

己より霊力の弱い、相手が人間であっても

決死て侮らず、

常に平常心を持ち、内心に大愛の海を忘れず

じっと怨敵の隙と霊魂弱るのを待って

勝機を見付けたなら、全力を持って

輪廻を超えた救済の剣にて

その魂を屠るのだ。

故に

調伏に個人差があるのはこれが理由なのだ。

 

愛縁の法も然り

常に驕らず侮らず、心揺らさず

決してその愛縁の法に毒が入らぬよう

怒らず、欲を起こさず

一切の悪心を起こさず

願う信徒のその魂を

御本尊と伴に見つめ

思い人の魂を誘引する。

その際、心願の人間の心の醜さ

信徒の隠れた汚き不信心を見てしまっても

決して、心が怒りで折れそうになっては

ならない。

どんな状況に於いても目的を忘れず

強靭な精神を常に保ちながら

小手先の矮小な心に頼らず

絶対に偏らず、

思い込みの一切を捨て

それでいながら

己がこれ迄

日々の修行により培って来た

一切の霊験の成果

あらゆる善心の在り方を

信徒それぞれの多様な状況に合わせながら

愛染浴油祈祷という大神の技を持って

見事成就に及ばせるのである。

 

この時、絶対に行者は

信徒の心や心願相手、その人間達が

関わって来た、様々な神々や、まじない

悪霊、神官や行者の世界に

心を引き寄せられてはならない。

 

一切の興味を断ち

振り向いてもならい。

常に己が培って来た霊力が創る

道場に立て籠もり

我本尊となって、あらゆる法を

主導しなければ負ける。

即ち愛縁の法にもこのような

闘いがあり、それに打ち勝ってこそ

初めて奇跡成就があるのだ。

だからして私は

他の御札やお守り等禁止させているし

だからこそ

お約束事を厳しくさせていると言ってよい。

破ったら不成就になるぞよとは

この闘いを知れば充分わかるはずだ。

そして私がこの闘いに於いて

常に心掛けている事とは

心願相手の連れてくる上記のような悪縁と

我が信徒の悪縁が

打ち込んで来ても、引こうとしても

また、相打ちになっても

はたまた相対していても、全て

あらゆる大愛の心の在り方をもって

それらの悪縁を覆い包むように

常に何事も、心の先手をもって

主導することを心掛けている。

つまり冷静なる精神と修行により

培った沢山の心の智慧をもって

どのような出方を敵がして来ても

相手の自由には絶対に

させないという事だ。

 

そしてこのように

常に納め切りに於いても

調伏であっても

愛縁であっても

成就勝ち続ける為には

 

やはり日々の弛まない修行と研鑽が

必要なのである。

常に修法から離れず

霊験を身に付け

その努力により

心を磨き、心清らかに濯ぎ

大愛の境地を増々身に付けてこそ

我が矜持する一己の聖天行者という剣客なのである。

 

そしてこの教主である

私に続き

日々の教えの鍛錬を信徒がしようと

するならば

それは正に信徒の祈りの手管である

愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝か

短い礼拝作法、

そして祈念の時間になるのであろうが

 

では、この長い礼拝作法と短い礼拝作法

また、祈念の時間、

それぞれに於いて

例え修する時間に差がそれぞれあっても

それを如何にすれば

完全な差は埋められないにしろ

各々の許された修法時間内で

此れ迄とは違う

より一層の深い感応を獲得し

夫々の礼拝、祈りの形式に於いて

己が信仰、修行研鑽の

充実なる手管と成せるか

 

それを指南しようとすれば

それはやはり

愛染聖天様が説かれる

聖天教の

凸と凹(トツとヲウ)の思想の

実践をもって修する事であろう。

 

これを誠に僅かな教えと

受け止められる方もおられると

思うが、

しかし実は

確かに教えとしての体格は

小さいながらも

そう思いきや、知れば大きい

それは修法の基本中の基本

でありながらも

また修法全体に亘る

曳いては

殉道教えの実生活にも

通用する

凸と凹の思想とは

そのような修法の

極意なのだ。

 

何故なら、この思想は

愛染毘奈夜迦順世帰命価値論の

中に在る

その実践に欠かせない

愛染聖天様が我々に下賜された

思想であり、

 

愛染毘奈夜迦順世帰命価値論

という愛染聖天信仰に於いて

四つの価値の探求をはじめ

その全ての教えを辿るという

能動的思想全編に於いて

行いの基本となる考え方でも

あるからだ。

 

それだけでは無い、

その素地にあるのは

実は、密教でいう

身口意の三密加持なのである。

 

密教では、この三密加持を見事に

完成させた者は

あらゆる心願が叶うばかりか

生きたまま仏になれる。

つまり即身成仏になる事が出来ると

している。

要するにこれは

密教の思想の根幹と云えるのだ。

 

だからして

この身口意の三密加持を素地とし

その三密加持が果たせない程の

真理を加え

愛染聖天様が私達に説いて下さった

聖天教の凸と凹の思想とは

私は既存の身口意の三密加持を超えた

真の三密加持だと確信している。

 

それだけに

これを体得すれば

少しの時間しか祈れない祈念の時間や

短い礼拝作法も

誠に充実を憶えるだろうし

正道たる長い礼拝作法も

長い修法の甲斐があったと

きっと実感出来るものになると思う。

 

そして

信徒の皆に於かれては

令和四年の年頭に於ける

この私の大事な教化として

この思想実践を我がものとして

しっかり体得し

それにより、教主である私が

御本尊と伴に修法発する大神力、

愛染毘奈耶迦順世の法を

より確実鮮明に感応得られるよう

邁進して欲しい。

 

何よりそれが出来れば

それぞれの心願成就ばかりか

愛染大聖天の大神力に秘められた

大愛の心により

三千大世界に生きる

他一切の生命にも功徳を授ける事が

出来るのだから。

それは誠に、われら聖天教の成就であり

我兆象大宰並びに聖天教三宝

そして何より愛染大聖天の本懐に間違い無く

是非にも信徒の皆に於かれては

だが為に体得されたしと願うものである。

 

また忘れてはならないのが

我々の御本尊様に捧げる祈りとは、

いや、祈りばかりではありません。

信仰に殉じる

その生活全ては

愛染聖天様が説かれし、

聖天教の能動思想

愛染毘奈耶迦順世帰命価値論であり

常にそれを念頭に置いた

我々の生活全ては

価値論の実践としなければならない。

 

故に

令和四年に限らず

毎年有りきその時々の

信徒それぞれのその年の抱負の内には、

つまりその骨子、土台には

常にこの価値論の実践への

求道心が無くてはならいのであり、

そしてこれは抱負に留らず

祈りを超え、己の悉くの全ての行動、精神に

常に持ち合わせていなければならない

聖天教信徒としての矜持であり

信念でなければならない。

 

このような我等が教えの教義の主要を

私がどのような教えを説く時も、

果たして

この新しき年の始まりに於いても

聖天教信徒達は、

そのそれぞれの

心にて、充分過ぎる程

この事を

心得て於かなければならず。

また、努々忘れてはならないのだ。

 

話は逸れたが

それでは説きたいと思う。

 

我が聖天教に入信を果たし、

また、入信を望む者は

皆、大なり小なり

密教の知識を齧るなど

していたからこそ

我が愛染大聖天の教えと

邂逅を為されたのだと思う。

 

そして

その密教には

基本中の基本。

身口意なる

三密加持の教えがある。

 

これは修法に於いて

神仏と真の合一を果たし

即身成仏になる為

神仏と同じ

身と、口と、意を

模倣するもの。

 

即ち

 

身密とは

手に印を結び

神仏の身から発する

行動のその断片を

模倣し合一を目指すもの

 

口密とは

口には真言を唱え

神仏の言葉を模倣し

合一を目指すもの。

 

意密とは

神仏と同じ心を

持たんとし合一を目指すもので

ある。

 

この身口意の三密が

人間の身口意の三業と

完全なる合一を果たした時

即身成仏が完成するというのだ。

これを三密加持と云う。

つまり

密教の最も大事な教えが

これは成就する

三密業とは瑜伽行為なのだ。

 

故に聖天法に至っても

他あらゆる密教修法次第は

全ては成就法、

つまり、その修法次第の

本尊と長い三密業を行い

密教の教えの成就である

即身成仏を成就させる瑜伽次第

なのである。

 

では聖天教の凸と凹の思想

つまり

真の身口意の三密加持とは

どのようなものなのであろうか?

 

それは端的に申せば

此れ迄の身口意の三密を

表と裏、表面と内面。

つまり

『発する心=凸=外面』

『受け入れる心=凹=内面』

の二層に別けて

三密瑜伽を行うというもの

なのだと理解して欲しい。

 

※『発する心=凸=外面』

『受け入れる心=凹=内面』

と表現した事からも解るように

密教では、また聖天教では

身や口は、皆心から発せられる

光、つまり心の一部であると定義している)

 

これを聖天教の世界観から

理解するとすれば

『この世は夢の如し』

これは愛染聖天様のお言葉だが

この三千大世界とは

全て愛染聖天様という意識と

その枝葉、飛沫である

我々一切生命という意識が、

それぞれが

絡み合い、重なり合い

そして互換しながら

抱く、その意識の共通観念が

創り出す、正に我等眼前に広がる

世界の実相とは

想像による創造の世界とする。

 

ではそのような意識の互換性をもって

成される心のやり取りとは

どのように為されるものなのであろうか?

 

それはつまり

私が愛染聖天様に相対した時

私は愛染聖天様という

存在から放たれる

心の光、要するにそれは

『発する心=凸=外面』

であり、私はこれを

私の持つ全ての

『受け入れる心=凹=内面』

をもってそれを受け止める。

そして私がその愛染聖天様の

『発する心=凸=外面』を

『受け入れる心=凹=内面』で

更に深く受け止めれば受け止める程

愛染聖天様もまた

その愛染聖天様の

『受け入れる心=凹=内面』で

更に私の『発する心=凸=外面』を

同等の深さをもって

受け入れて下さるという

やり取り、

要するに

一個の存在には

『発する心=凸=外面』

『受け入れる心=凹=内面』

という両面の心が有るとし

この両面の特性がある故に

愛染聖天様という大神を

中心にして様々な意識で出来ている

この三千大世界は

実はまるで、この両面が

凸と凹が隈なく

しっかりと相互に繋がり合う事で

その互換性による心のやり取りにより

生まれる共通観念によって

この世界が想像創造されているのだと

するのです。

 

此処に道端に咲く

一輪の花が在るとする。

それをあなたが

一日目に見かけた時、

その花には、あなたは

何の気無しに見た印象しか無かったとしよう。

そして

二日目に見かけると

何か可愛さを感じてならないようになり

最後に

三日目に通りかかった時は

とても美しく見えてならず

思わず暫し立ち止まってしまったと

します。

これはどのような事が起きて

このようなあなたの心の変化が生れたかと云えば

 

それは、その花を

一日目、二日目、三日目と

日を追う事に、あなたの

『受け入れる心=凹=内面』が

道端に咲く花の

『発する心=凸=外面』を

日を追う事に深く映しだした結果なのであり

 

そしてこの相互の深まりは

勿論、その一輪の花の持つ

『受け入れる心=凹=内面』も

あなたの『発する心=凸=外面』を

日を追う事に深く受け入れていたのであって

 

この一輪の花とあなたとの

二者間の

『発する心=凸=外面』

『受け入れる心=凹=内面』

それぞれ両面の相互の嚙み合わせこそ

聖天教の凸と凹の思想

つまり真の身口意の三密加持の行為

なのであり

このような形が

三千大世界中

愛染聖天様を中心に

意識的にも無意識にも

一切生命が隈なく

噛み合いながらこの世界を

想像創造作っているのである。

 

だからである

歌を歌ってあげたりと、愛情を注げば

花は美しく開花するというが

これは

花の中でも

歌を歌ってあげた人間の中でも

共に

『発する心=凸=外面』

『受け入れる心=凹=内面』という

見事な両面の心のかみ合わせが

出来ていたからこそ

為されたものだと云ってよく、

両者の美しい

凸と凹のやり取りが

その愛に比した美しい花を咲かせた

結果なのだ。

 

だがしかし

この一輪の花との心の相互、やり取りとは

実は象徴的なものでしかない。

 

何故なら

聖天教の世界観から云えば

『この世は夢の如し』

何処までも

この世の意識以外の存在は

愛染聖天様を中心に一切生命の意識が

創り出した共通観念による

想像の世界でしか足り得ない。

 

つまり私達が日常で

何の気無しに出会う、

草、木、花、野菜、果物

至っては

眼前に美しく広がる山や海

天空を漂う雄大な雲

新しく踏み入れる街

そして家、

要するに私達の眼下に広がる

あなたが意識出来

あなたが受け入れるその全ては

愛染聖天様を中心として

私達皆の

凸と凹

つまり真の身口意の三密加持が織りなし

想像創造され出来て来たもの。

要するに

あなたの眼前に広がる生活空間に於いて

あなたに対し素晴らしくも

美しく訴えかけるあらゆる存在は

それがあなたの心を打って

あまりないものであったら

それは確実に

愛染聖天様を中心にした

三千大世界一切の生命の

『発する心=凸=外面』

という意識が

あなたの美しき

『受け入れる心=凹=内面』

意識に向って

見事に美しく応えているものなのであり

悲しく、時には荒々しく

あなたに、何かしらの眼下に在る

存在が訴えかける時

それは、私達の持つ負の

『受け入れる心=凹=内面』という

意識に

愛染聖天様を中心にした

三千大世界一切の生命の

『発する心=凸=外面』という意識が

懸命に、それではいけないのだと

あなたに訴えかけて下さっているのだ。

 

まさに我々が

お作法にて

この凸と凹の思想

つまり真の身口意の三密加持をもって

愛染聖天様並びにその曼荼羅及び

一切生命に願いを訴えたなら

その願いの懸命さに比例し

必ず眼前に広がる世に奇跡が生れる。

密教で云う虚空より

未曽有の宝果が生れ落ちるのである。

恋愛も然りである。

どこぞより理想の異性が現れたり

突然の子宝に恵まれたり

困難な不倫や愛縁の成就を

見事に成すのだ。

それは延命も増益も難病平癒も

自在に叶う。

 

そうである

人はこの愛染聖天様の説く

凸と凹の思想。

つまり真の身口意の三密加持を体得すれば

密教の説く

この三千大世界

あらゆる生命、意識との

膨大な智慧と愛の満足と

相互に行き来により

無尽蔵の喜びを得る事が出来るのだ。

即ち

全ての体、形は心の発する光で

しかないという密教の

思想をそのまま体現出来る。

つまり

修法、観想の中に於いて

既に罪を纏った肉体は溶け失せ

実体なき幽体たるそれは心の光と変容し

自在に己の心の内に抱く心願を

想像創造出来るのであって

故に凸と凹の思想とは

真の身口意の三密加持とは

修法に於いて

長ずれば、肉体を超越するのであって

故に

祈りとは

肉体を超えた

現実世界に実際に作用を及ぼす

何よりの手管であるという

密教の神髄を

これは充分に証明出来て

余り無い

元来、一元的な心の相互しかない

既存の身口意の三密加持に比べ

聖天教の三密加持

つまり真の身口意の三密加持とは

それを遥かに超えた

二層両面の心の加持を実現する

非常に優れたあらゆる成就への

極意なのである。

 

であるからして

これを知り体得すれば

必ずや

例え短い礼拝作用でも

より深い感応を得られるだろうし

祈念の時間に至っては

私を含め、全信徒と感応、

つまり凸と凹を

互換、やり取りし、

真の身口意の三密加持をもって

皆で祈り合うのだから

それがどれだけ壮大であり

奇跡を生む行為であるかが

充分に理解出来るであろうし

正道なる礼拝作法

愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法に

至っては

計り知れない感応を創出出来るのでは

ないだろうか。

すると

この愛染聖天様が説かれる

凸と凹の思想

つまり真の身口意の三密加持を体得し

祈念の時間を含め

作法に挑む者は

やがて

その作法の次第の中にある

神分という階梯の

本当の意義を知るようになる。

いや

実践せずとも

此れ迄の私の教化で

もう皆はそれを充分に悟り得たはずだ

 

神分とはつまり

本尊並びに

曼荼羅の神々そして

一切生命と相互に

心を分ち合って行く事だという事を。

 

神の教えの中には受け入れて

くれる心があり

自分の神への願いの中にも

その教えを受け入れる心がある。

やがてそれは

自分の願いだけを申しながらも

神の教えに教化感化成長がなされた為

願を申うしながらも

他を救い、導かんという

菩薩の心を創出するもの。

つまり神分とは

神との存分なる凸と凹

つまり真の身口意の三密加持のやり取りであり、

そしてこの心得は

実は全次第にわたって

常に念頭に置き

修する事が肝心である。

 

つまりどのような次第であっても

神と相互に分ち合う、

つまり凸と凹、いわゆる

真の身口意の三密加持を

意識し修する事が大事なのであり

このような重層的概念をもって

修法だけに留まらず

愛染毘奈夜迦順世帰命価値論で説く

祈りばかりか実生活全ての信仰の歩みに

於いて、信仰に在る者は

それをもってあたってみるのだ。

 

そうすれば人は必ず

価値論で説かれる様々な

悟りに触れる事が出来るはず。

 

そして私は常に

この凸と凹の思想

つまり真の身口意の三密加持を

あらゆる修法の次第ばかりか

あらゆる教主としての歩みの

その底流に忘れなく秘しながらも

時に、故意に我が内心表層にて

それを浮き上がらせ

深くその凸と凹という

真の身口意の三密加持という概念との

存分なる理解と

それを強く意識した御本尊との

感応を実現すと

その時、私はこう達観し、そしてその悟りの

境地の美しさに

暫し留まり、心魂沐浴を果たすのだ。

 

『人は他を祈ってこそ

はじめて

己の罪業を滅する事が出来る。

他を助けるは己を佑くる天の法也』

 

畢竟

愛染聖天様という大神を

中心に一切生命の意識と意識が

凸と凹という

真の身口意三密加持による互換、心のやり取り

つまり

分ち合いによってのみ生まれる

この三千大世界の一切の事象にあって

唯一人のみが心の壁に向い悟らんとし

成され、また許される事など

だたの一つもこの世には

無いのであって

この三千大世界に在る限りは

例えこの世が愛染聖天様以外

たった一人だけになったとしても

愛染聖天様という大神の意識が

黙っていても

ひとりでに

その偉大なる身口意をもって

汝の身口意に常に問いかけ

その凸と凹を分ち合いながら

三密加持、導いて下さるのであって

そのような作用が成される限りは、

一己の生命として

その導きに応え成長する事が

人としての本義であり、天命なので

あり

つまりは

人は一人の力のみで幾ら

生きんと欲し

また悟らんと欲し

はたまた贖罪を為そうとしても

実は人知れず

愛染聖天様を中心とした

あらゆる意識と繋がり

助け合い、導き合い

全てを分ち合い、

そして教え、許し合っているのだ。

 

聖天教の凸と凹の思想。

つまり真の三密加持とは

まさにそのように

たった三文字という

誠、その身丈は短小でありながら

実に雄大且つ

甚大な智慧を湛えた

その役目を

コンピュータに例えるなら

高性能の半導体と比喩しても

まだ足りない

素晴らしい教えであり

密教の極意なのである。

 

令和四年

聖天教信徒は

この真の身口意の三密加持

を学んだなら

この年をスタートとし

新たな信仰の段階へと足を

踏み入れて行かなければなら無い。

 

また信徒で無くとも

特にこれをお読みの

僧籍に在る方はじめ

神道など

様々な宗教に於いて

神官、教主、またはその教えの

教師の籍を持つ方は

この愛染聖天様が説かれた

聖天教の真の三密加持を

手本とし

それぞれの行法修養に役立て

工夫してみても結構であろう。

 

そして教主として

更に信徒に思う事は

この真の三密加持、聖天教の凸と凹の思想を

知った上は

今年は

その寄せられる知らせの中に

私は今、愛染毘奈夜迦順世帰命価値論の

『心願の価値』を探求していますとか

『御誓願開眼の境地』に私は至ったでしょうかとか

『明王人』に私はなれるでしょうかなど

より価値論に信徒として身を置いた

姿を多く見たいものである。

 

以上の殉教に対する

教主からの皆への要望をば教化の終わりと為し

いよいよ始まる令和四年、

信徒皆々の弥栄ばかりか

三千大世界一切衆生の息災を祈りながら

この年頭の言葉の結びと致すとしよう。

 

 

 

 

教主 兆象大宰

 

追伸

 

一輪の花

万人の釈迦に勝れり

 

聖天教信徒よ

その一輪の声無き姿に

愛染大聖天の

畏き神意を悟れ。

而して

其の底流には

必ずや大愛有りなむ。