『 如来の法身は是 真理也、真理とは是 智火燃え上がる聖油也。
仏像は是 如来の法身也、多羅の油は是 燃え盛る法身の聖油也。
斯くして
行者の心中に燃え盛る智火存する故に
如来の法身と
仏像の法身と
行者の法身と 是 三平等也。
我、此れより仏像にて本尊愛染大聖歓喜自在天観世音菩薩様と
法身 憑依 三身一体と成りて、
如来の大願と
仏像の神髄と
我ら凡夫一統の願いを悉地成就為さしめるものなり
然らば即ち
聖天教教主 兆象大宰
いざ愛染聖天浴油供の御秘法修法の座に挑まん 』
路傍の土くれにも、草木生む仏心是あり。
ならば
一己の凡夫なる我の心中に
仏あらんや。
そう
私は常に秘法に挑む折、
己の心中に、慈悲大愛という智火あるを確め
このように
愛染聖天様と、仏像との法身、憑依、三位一体を実現し
有難き秘法にこの身を焼いて行くのだ。
愛染聖天様の心中にも智火がある。
そして
凡夫なる私の心中にも
確かにそれは存在する
正しき事に
愛染聖天様と共通する心の智火が
確かにこの胸に在るのだ。
その同じ心の在り方は
如来法身たる仏像にて
それは
祈りにより共感を
果たし
共に溶け合うと
それは
やがて
福智を産む
功徳を産む。
成就を産む
畢竟
奇跡を生み落とすのだ。
つまり
神仏との
修法=祈りとは
要するに共感が必需であり
その共感を超えた
体感心感の領域に至って
初めて
密教の不思議なる果実が
この世に産み落とされて行くもの。
将に『共感』とは功徳の鍵なのだ。
而して
このプロセスは男女の情愛に似ている。
昆虫の交合、
植物の受粉と開花に
それは
似ていて余り無い。
『鍵索鎖鈴』まこと神羅万象、すべての存在は
自然と
己の心中の慈悲を鳴動『共感』させながら
やがて
すべてを一つにして
あらたな生命という
奇跡を
それは生みだして行くのだ。
信徒の皆は
信仰の毎日に在って、
この『共感』が果たして
きちんと出来ておるかな?
御本尊任せ。
教主任せにして
おらなんだろうか?
このような信仰に於いて
一番大事な
己自身の祈りによる『共感』の
参加を
或いはサボったり。
或るいは不真面目にしたり。
はたまた
した事の無い者も居たら
これは大変な不信心なる可奈(笑)
功徳の何事の全ては
この『共感』から生まれるのだから
毎日、厳修しておる
私と御本尊愛染聖天様との
祈りの修法に
しっかりと
信仰、お勤め、祈りを寄せる事で
御本尊と我兆象の『共感』から
こぼれ出すその功徳を
己の『共感』というホースで
しっかりと
己の元に引き込み流し込まなければ
頂けるものも頂けぬ
叶うものも叶わぬという次第になるは
是必定。
またこの『共感』からは
我々信仰者にとって
功徳という形あるものより
より上位にある
それによる
神仏からの悟りという
教えが頂けるもの。
何故なら
人という者は
例えば
家族や
友人、恋人、
曳いては
ペットが
何を考えているかを
長く生活を共にしたり
付き合いが長ければ長い程
阿吽の呼吸でそれは解るはずで、
そればかりでは無い
必ずやその相手から無意識に
人生、生活の様々な事を学び得て
いるものであって、
曳いたそれらは、
物の考え方
人との接し方
社会での在り方等
つまり
まとめれば人生の哲学とも云える
思想、悟りを
伝えてくれているものだ。
そう思えば、
ならば
神羅万象の真理を教化してならない
信仰ならそれは尚更の事なのだ。
祈りによる
神仏との『共感』による
其処から頂く学びは
それは最上にして
計り知れないものとなる。
深堀すれば、
人が一人、
人生に立ちて、
本当に自分の事を日夜祈ってくれる人間に
果たして出会えるだろうか?
それは
親友でも
肉親でも
人によっては
悲しき人の性かな
親や子供さえも
何か出来事が無ければ
祈り合う事さえしない間柄も
特に昨今では多いはず。
しかし我々聖天教はどうであろう。
私達は常に『共感』祈り合い
私と愛染聖天様とそして千宰は
血縁者である信徒の皆を毎日、毎夜
決して忘れる事無く
懸命に祈りあげている。
まるで、
それは尊い我が子の魂を
大事に大事に磨き上げるようにである。
将に我々聖天教で授かりし法縁とは
実に現世で授かりし
親子の縁より、それは深きものと言って良い。
そして
私は聖天教教主として
いや一己の行者、宗教家として
時にその神仏と共に織りなす『共感』による
功徳を、
世の沢山の天災という
負なる事象に遭われた方々、
またそれを生み出した自然たる神仏に対し
広く祈りを奉げ功徳導かねばならぬのが
我が定め。
その私の救済平癒の祈りに
信徒全てに参加を求め、救済の果実なさんと
する一丸祈りの作業を
我々聖天教は、
果たして、本当に長らくの間の
その作業を
決して休んではならぬ
尊い宗教行事、宗教行動として来た。
しかしながら
まこと残念な事に
今年、しばしの間
事情あって、それが出来なんだ。
大祭の前後
私が修法の座に挑むと
必ず天災が起こる。
すると、まるでその血の対価のように
功徳が現れる。
今年はそれがどうも
余りにも大きく
遂に
とんでもない日本で初めてと言える
大山火事が
しかも各地で発生し。
これは中々鎮火せず。
続いて
こんどはミャンマーで何千人も亡くなった
大地震が
とうとう発生してしまった。
これらの天災に未だ聖天教では
廻向の祈りが出来ておらなんだ。
我々は愛染聖天という三千大世界の大神を
奉じ、信仰する大愛の団体である。
これよりもう少しすれば
大祭が始まるが
この夏の大祭は
将に聖天教最大の修法行事であり
他の三つの大祭を抜きん出て
愛染聖天様には大事な大事な
秘法修法のこれは行事である。
故に敢えてこの場をかりて
信徒の皆に教主として申せば
是非信徒の皆に於かれては
この度施行せる
夏の大祭に於ける
この私の、渾身の修法に
将に挑むように
皆一丸となって心寄せられ、
未だ出来ていない
それらの大惨事への廻向を成し、
どうかそれによる
大いなる『共感』による
様々な功徳を得て行って欲しいと
教主として思う次第であり、
その旨、皆にこうして伝えたいと存ずる。
而して
この聖天教にあって、最も最上であり
その華々しくも有難く
そして喜ばしい慶事なる
夏の大祭という修法行事を前に
この教主兆象から
愛染聖天様との祈りの『共感』の
鍵なる教化を皆に一つして
本日は締め括ろうと思う。
御本尊愛染聖天様は
如来の位にありながら
観世音菩薩様でもあられる事は
云う迄も無い事だが
だがそれは何故なら
全てを清らかに見て取り
全ての衆生の至らぬ心、行いもまた
清らかで救わでおけぬものなのだという
三千大世界にそのような
清らかな御心を、愛染聖天様が
存分に示されておられる事がその由縁なのだ。
(その救済の心が少々苛烈なる所が多々ありて
恐ろしゅう面もありしが
それもまた神仏の大愛なのであろう)
理趣経では観世音菩薩を観自在菩薩とする。
つまり
人間の持つ怒りも、貪りも、無智も、
虫や動物が交尾する行為も
人が抱き合い、子を成す行為も
その全てを自在に
清らかに観(み)て取る。
その大愛なる美しき心あるからこそ
愛染聖天様は
『三千大世界一切衆生の救済』
『どのような悪人神仏であっても、帰依する縁者には
例えどのような願いでも叶えて進ぜよう』
という
御請願をお持ちになる事が出来るのであって、
而しのみならず
その
全ての衆生の
悲しみ、怒り、喜び、行為を
どの神仏より
清らかと見よう
また、見えるからこそ
その御心には
全ての衆生のそれらを
哀れとも思える心が
愛染聖天様には
湧き起こっておられる、
その清らかならん自在観より生まれ出でた
神仏故の
有難くも深き、愛染聖天様の
その哀れみあるからこそ
この三千大世界全ての衆生を
愛染聖天様は分け隔て無く
救わんと出来るのだ。
かるが故に
愛染聖天信仰の行者と
そして信徒は
愛染聖天様のこの
大いなる哀れみの神意、御心を知って
置く事こそ寛容なのである。
而して
正にその大愛たる
如来の位ある観自在の清らかに見る眼に
よる哀れみの大悟は
まるで理趣経の性の営みをも清らかなると
する教えを一法輪として
三千大世界という
途方も無い大空間にそれを投げ入れ
獲得した大悟と言って良く
将にそれは大宇宙たる
広大無辺不可得なる大悟にして、
将にそれは
大愛の思想そのものなのだ。
つまり
愛染聖天様の観自在の眼とは
私達が
聖天教の教え
大愛の思想をもって
この世を見た時の
将に彩られたその大慈大悲の世界観が
其処にあると云って良い。
皆の毎朝毎夜勤め上げたる
礼拝作法に
私が訳した
歓喜天陀羅尼があるはず
其処にはこう記されている。
『長い鼻を持った白い光を放つ特に優れた美しさを持つ
女神によって、われは邪見を晴らしたのだ』
と、
つまり
その眼は観自在。
いや
観自在を超えた
三千大世界一の大神力を擁する
哀れみの大悟を受持しまする
それは
三千大世界一の大観自在。
聖天教信徒よ
我々は
その大観自在眼を以て、
この度の夏の大祭に臨み
是非に
伴に『共感』を果たさなければならない。
だからこそである。
その眼あるが故に
愛染聖天様は
不倫や、大変年齢の離れた恋愛でも
見捨てず
導かんとするし
いじめや
まこと細かな悩みをも
決して見捨てぬのだ。
そして
決して見捨てぬからこそ
時に
生死を超えた
輪廻による導きを果たされたり
と聖天様はするもので
その救済のしつこさが
長い聖天信仰の中で
恐ろしいとされているのであって
これは
まこと深い愛情を持った父母が
聞き分けの無い子供を
愛情を持って叱っているのだと
聖天教に限らず
全ての聖天信仰にある者は
その愛情の本性を
理解知らねばならず、
以上
本日私が
縷々教化した事を
大祭に際し、
信徒の皆には
是非学んで於いて欲しいと思う。
最後に
皆にご報告がある
今年、本をまた一冊上梓した旨
その事を伝えたい。
これは旧暦で営む
われら聖天教信徒の
その日日(にちにち)の歩みに
合わせ
私の箴言を当てがった
これは箴言集であり
さらに第二、第三と準備している。
この本は、教え、信仰の
為になる言葉を集めたものだから
後に手に入れたなら
どうか
それぞれの信仰の肥しにして
欲しいものである。
また他の本も既に
売り切れになってしまい
何せ手が追い付かず
しかし
この愛染聖天信仰の賑やかなる事
まこと御本尊様もお喜びと見える次第。
また、
本日は礼拝作法に通じる
祈りによる『共感』について教化したが
思えば
聖天教として
もっと短く且つ寛容詰まった
礼拝作法があれば
より
信徒悉くの功徳と信仰啓発が
成されると
最近は感じ
それを是非果たさねばと
考えている次第で
信徒の皆にはどうか
そのような礼拝作法が出来るまで
現在の礼拝作法を活用
して欲しいと思う。
以上、
この度だけは少しだけと存念しながら
私は話が長いので
またも長く教化してしまった。
年頭の予言もそうであった
今年は自重して三十と言いながら
書き終えると
霊視霊眼が深きを走り、走り、
未来書き終えると
また、いつもの如く
書ききれない程になっておった。
しかしながら
長いといっても
どうか信徒の皆には
為になる教化である。
きちんと呼んで
それを教えの糧と
しっかりと為し
それぞれの信仰と心願を
開花させて行って欲しい。
そのように教主として心から思います。
合掌
聖天教教主 兆象大宰
追伸
『 三千大世界、即ち
この大宇宙神羅万象は
将にこの世の真理たる
愛染聖天様そのものであり、
斯くして
我々一切衆生はその中にて
生を受けている。
つまり
真理の中に生きていると
思召せ。
ならば
我らが歩みたる
この人生も
また真理にして
然らば
聖天教信徒よ
真理たる
その教えを受持す汝らこそ
この世の最たる
既に勝利者也や 』