先日東北の大震災の鎮魂慰霊祈祷を私が個人的に執り行うという形で
行い、無事結願を迎える事が出来た。
私自身も東北の生まれなのでこの祈祷には毎年心が強く入るのも無理はない。
そんな中、仙台の信徒様で一度対面浴油にもいらっしゃた事のある方が
「私は直接震災を経験したものですから、是非参加させて下さい」
と三万円を寄付なされた。
彼女はとても綺麗な容姿の方でいつも病気がちな愛猫の為に祈って欲しいと
自分の事は捨て置き祈祷をお願いなさる、心まで綺麗な方である。
また仙台の役所にお勤めの方も、御寄附下された。
彼女は本当に真面目な方であり、彼女も篤信の鏡のような方であり
彼女の篤信は私と愛染聖天様の心の支えにもなっている。
また他諸々の信徒様の有志を感じた私は
今回の祈祷に臨み、何故か
「あーこんな方が沢山いる東北の地は、またそこで不本意を遂げた方々は
必ず救われるな!そしてこの方々も必ず必ず救われるな!光あるな!」
そう思った。
そしてその方々はじめ、
沢山の方々の私の慰霊祈祷への励ましの声
このような信徒の深い愛を感じた時
何より私はいつも愛染聖天様を感じて止まず、思わず、信徒の皆へといい
教団といい、海といい、山といい、そしてなにより御本尊さまへと
深い想いを込めて、自然と手を合わせしまうのである。
仙台の信徒様方を始め、心お寄せになった信徒の皆様、
あなた様方は愛染聖天様の教えの誉れです。
まずは無事結願ご報告させて頂きました。
法話、続けさせて頂く、
去年の暮だったか、今年のはじめだったか定かではないが
テレビで、とある高名な尼僧が出演されておられるのが眼に留まった。
この方は宗教家としても、僧籍に入る前からも巷間有名を馳せた方である。
文化人であるこのお方は、人生のある境に
既に故人ではあるが、
元小説家でその後に聖天行者になり、参議院議員にもなられた方に師事し
やがて東北の大寺院の住職になられた。
簡単に申せば、その一言で大変な数の人間に影響を与える知名をもっている方である。
老齢でありながらも、その労を惜しまず、世に常に御自分のご意見、思想を訴えなさる姿勢には、
頼もしい限りであり、また人々の共感の度合いもすこぶる高い。
しかしながら、番組中、
レポーターの方が死期についてインタビューした時
この方はこうお答えになった。
「死んだら、どうなるのかわからないか不安だ、まあ、魂は無くならないような気がする」
私はこの言葉を聞いた時、この上もなく落胆せずにいられなかった。
何故なら、この方は真言宗、要するに密教の世界に身を置く方であり。
加えて、このお方は、日本の宗教界の名士に名を連ね、その顔としても活動なさるお方でもあるからだ、
当然、日々宗教家として人々の救済に身を供し捧げていなければならないはずなのに。
私はその根本が、もともとわからない人なのではないかと思ったのだ。
何故ならば
まず、常日頃私は、皆の為浴油に挑もうとするとき
指を一つ弾指し、心と両眼に深く月輪を感じる。
この月輪とは何か、人によって、宗教、宗派によって
論じ方、その姿の映じ方に違いがあるにせよ。
深く、ヨ-ガの道場によって鍛え抜かれた者であったら
洋の東西を問わず、
永遠であり、愛そのものであり、働きそのものであり
魂そのものであると答えるだろう。
私の愛染浴油祈祷の油をかける姿そのものである。
常ながら云うのだが私の教えは、愛染聖天様との邂逅による会話と
浴油により愛染聖天様と供になったときに体験する教えを
全ての元にしている。
その私個人として毎夜愛染聖天から頂く、素晴らしい世界のはじまりは
意思の始まりをもって一葉と成し、光発する気持ち生ずるをもって一葉と成し、
光深まり己の中にもう一つの己を見つけ、同時にまたもっていかんともし難い
深い愛を感じるに至り、己の心に二者見つけ、愛ある二心ゆえの二葉みえた時
今までの一葉、一葉、二つに見え、
その後は素直に、この三つの成す事を解脱、喜び、如来に使える形と捉える一葉
一葉、即ち二葉と感じ、
八葉を成さしむ、この八葉成さしめた心は三つめの深い愛、一つの心に二者の愛を
発見したが故の八葉、この愛を私は肝心と成し、愛の宝珠を感じる、
であるならば、この八葉が出来上がるまでの
四つの段階にも
またさらに細かい八葉、要するに肝心の宝珠の工程があると
ふと理解した時、
四つの宝珠とその光を八葉に感じる。
そしてその四つの宝珠の光を漠然と統括する白い宝珠を
己の性であり、宇宙の性であると感じた時
ここにもう一つの宝珠顕われ、
五つの光、五智の光を私は感得するのです。
この光、肝心、即ち深い愛ある故に現れ、月輪となし
やがて、
その月輪が
我が、心、我が身、我が魂に映じた時
宇宙の意思、それは身と魂と心を、あらゆる果てしない魂が捧げ救済しあいながら
じつの根本は皆我の感じ取れる月輪一つにおさまるのだ、
如来とは我であり、我とは宇宙であり、月輪の根本である
肝心の中に見える己の中に見える二者が心理とするならば
我は己の中を旅をしているのであり、如来とは何か、それは
我が盲目になり己がわがままな月輪にわが身を閉じ込めた様を
助けたもう現れた、我の中の、また宇宙の中の聖性浄清たる月輪の核であり
それは常に中心にいて、我々を助け洗い浄める、
我も、また我々も、宇宙の万物も
どのような悪であっても、この肝心、月輪を持ち
またその中に存在しているのだから、世を浄化し、愛を成さしむ
輪廻の工程が永遠に続くのだと達観確信するのである。
そして
この身、この大地、空、全て、形に愛を成す形をもち、その働き存在に愛をなし、
意識に愛を持つ、それに違えたものは愛気付くまで
沢山の教えをあらゆる形で受けるのが輪廻なのだと、
これを達観した時に
我と眼前の世に、
五大、三身と、命ある姿がしっかりと顕われ意識できるのである。
即ち、意思である風と気持ちである光、肝心愛である特性は
やがて光と相まって、恵みである水を生成する。
これは魂なら油、心なら血、姿なら水をなす。
そしてこの恵みにより生まれる喜びの形こそ姿なのである。
これが生じた時に
自然と、
身と心と魂にそれぞれ息が吹き込まれる
そしてこれを全て成さしむ始まりは
愛によって生まれた月の輪なのである。
この五大、三身は常にこれに立ち戻っては産むを繰り返す
永遠にである。
我らが明日死んだとしても
即座にそれぞれの愛の深さに応じ、宇宙聖性浄清たる
我らが聖天の性のもと
それに応じた世界に魂はまた生まれ変わり、成長し、
愛を成す為の修行を続けるのである。
故にこれに達観したものは
己を含め、刹那な生き方、考え方はしてはいけない
日々を懸命に生き、今ある事に執着せず、
我ら、宇宙と、そして聖性の中心たる
それぞれの神の性に法り、時の刻みを乗り越え
善を成さなければいけないのである。
信徒も我も、愛染聖天様も
永遠なのである。
そして、それを人ばかりか一切衆生、海、山、川、銀河の星々にまで
至るまで知らしめ、開眼、引導する偉大な法が
愛染浴油祈祷なのであり、
我らが聖天教、御本尊様なのである。
余談するならば、
我らが喜びは、上記の思想を知るためのものであり
我らが願望は、上記の喜びをしる姿そのもの
苦しみ悲しみは、上記の思想、喜びを達観する為の入り口であり
それは常に我が本尊により飲み込まれ、愛の喜びとして
聖性浄清される。
まさに苦を抜き楽を与えるである。
そして何より忘れてはいけないのが
私達が生きているように、宇宙も生きているし
愛染聖天様もまさに確かに生きている御方であるのである
だからこそ奇跡がなされるのであって
これだけは忘れてはいけない事であります。
私は思う、人ぞれぞれがこの宇宙に置いてその姿そのものがそのまま
月輪の愛を成す為の無くてはならない
構成物そのものであり、それが成す行いこそ愛そのものであって
それは意思とともに存在感たる光をはっする
まさに一欠けらも脱落する事の無い愛そのものなのだと思うのである。
それは宇宙の聖性浄清たる性に向かい永遠に懸命に輪廻する。
そういった宇宙に成す、愛の役目という観点からすれば
上記に述べた尼僧の役割はどうであろう?
人々に御自分の体験を通し同じ悩みの方や共感を得たいという方に対し
一服の清涼を、おのが持って生まれた文才、滑舌をもって与える事に
対し、私は素晴らしいと答えたい。
しかし、信徒の皆さん。
宗教家としてはどうであろう?
宗教家とは何か?
私は、上記に永遠の愛を、神とその創りたもうた永遠の宇宙の確実なる
身心魂の息吹の実証により、その救済たる性に哀愍し偉大な力を示し
願い人々を開眼導く事なのではないかと思うのである。
故に宗教家は永遠の愛を、永遠の魂を、永遠の生を
確実なる神の存在の確信と供に
誰よりも知っていなければいけないはずなのだ。
そしてそれを皆に伝え解脱導かなければ
いけないのだ。
このお方はそれを全く知っていない。
師は聖天行者、己も法をしっているだろうに、
法はしっても法の心知らず、
宇宙にあっても宇宙の意思しらず、
神を唱えても、神の息吹感ぜずである。
私はとても残念な気になったのだ。
そして番組中
この方のお住まいには老齢にもかかわらず
お酒を飲む専用の部屋があり、一本十万円のお酒が置いてあった
普通の方ならこれを我儘、贅沢とみるだろうが
毎夜の浴油を通し、愛染聖天の世界でありとあらゆる財宝の本当の意義と
愛の喜びを知る私には
この方のこのお酒を飲む姿が
とても刹那的に覚えた。この方はとても心に苦しみをもって
その苦しみのやりどころをしらなくて、右往左往なさっているのだろう
そう思った。
そして、この方に宗教論を教えて頂こうとあつまった方々も同じように
表層では感じられぬ処できっと不安を感じるであろうなと思った。
何より
私はこの方が今生では凄い地位の方だが
なにやら物悲しく憐れで、
救ってやって差し上げたいと心からおもった。
何故なら、輪廻、因果を通じ
神はこの方の背負っている業を、神仏に報じさせ生かせる事で
開眼させ救おうと、聖性浄清たる有難い性を発動させたに違いのだが
遂にその救いの道は高級酒と高位な地位に消えていったのであろう。
亡くなられた後は、次の世界は、どこにいらっしゃるのだろうと思うと
私は、ふと、浴油の準備をしながら
頬に一筋の涙を憶えた。
余談だが上記において細かな宝珠を肝心と表現したが
皆には教えられないが愛染聖天様には肝心真言というのがある
そしてこの真言を必ず
浴油中開眼する時、本尊讃のあと小念謡として唱えるのだが
その時私は
まさにこれでもかと世に愛を感じさせ導く
聖天様とこの浴油祈祷に感動するばかりである。
※去年、勉強とばかりに
三憲という流派の浴油を少し勉強してみたが
油を掛ける秘密の真言と、この肝心、四無量感、本尊讃における
秘なる工程の工夫が無く、
油を掛けたあと何故か肩が痛くなった。
(よく私が愛染聖天を奉ずる事を中傷する人間がいるが
浅学である、三憲にはないが
聖天の根本の三昧耶は箕であり弓なのである
この弓とは愛のキュウ-ピットの意味を更に深め自在の愛を顕す
要するに
箕により悪を浄化し、自在の愛を成さしむ
その愛の部分を深く、またこれでもかと
秘密秘鍵をもっていらしゃる大神こそ
愛染聖天様なのである。
まさに愛の大神なのである)
話を戻すといよいよ四月一日聖天教春の大祭歓喜童子大祭が始まる
私はずっとこの愛染歓喜童子大祭を何年も前からしたくてたまらなかった。
この愛染歓喜歓喜童子様は
よく御前立てとして寺院においているところもあるが
解り易く言えば
私はこの愛染歓喜童子様を愛染聖天様の魂の意思の宝珠をもった
面と思い、位置付けている。
だから浴油の時は常に私の右前方に扉を開けてお座りになっておられる、
愛染聖天様そのものである。
身は吉祥天(深くは秘鍵だからいえないがケイラ山では吉祥天、この世に顕すからだは
金剛摧天)
一切衆生に限りない息災を与える神である。三昧耶に宝棒、戟、大根、歓喜団を持つが
これは歓喜童子様一体で聖天様一体をも顕している。
しかしながら私はそうありながらも
愛染歓喜童子様に
大根と独鈷杵と輪宝、摧天の傘を感じ、報じ奉り
信徒を一切のトラブルから守り、またあらゆる導きに浴くさせんと
欲し導く愛染聖天様の御意志そのもの働きを感得する。
大根と傘はそれを顕しているし、その発動する中心たる金剛雞羅山を
光を転じ発する輪宝の中心に独鈷杵を突き刺し、それを山脈に見立ている様とし
その中心から発する深い愛染聖天の愛の意思を摂受させるのである。
ともすればやはりそれは
愛染聖天様のお住まいになる金剛雞羅山そのものが御身なのであるから
お持ちの持仏に間違いは無いのであろう。
この神様は誠に有難く、何度も、私も千宰も助けられてきた
誠に不思議な霊験をもった御神様で、
皆の沢山感じた事のある不思議な功徳、特に
こんなことで助かったんだとか、ケガが治った、就職がよかった、
良い人とあう切っ掛けになったとか
息災であるとともに、聖天様の意思であるので
何事の愛においても、まずはじめの切っ掛けをお創りになる
愛のキュウ-ピットのような面もある
だからなのだろうか
非常にお綺麗な吉祥天の姿をしながら、その実お子様の容姿なのである。
だからともいえるがお気持ちも非常に美しく純粋である。
これからも読み取れるように
愛染聖天様のお気持ち、意思は純粋であるから
そうおもって信徒も御本尊に挑んで欲しい。
四月一日、楽しみである。
信徒の皆様も大祭に参加し、是非我が聖天教の愛染歓喜童子と
縁を結んでみて欲しい。
誠に頼もしい限りであることは
間違いない。
いよいよ私の本懐が達せられるのである。
合掌
聖天教教主 兆象大宰
追伸
最後に先日このような言葉を見かけた。
空海の言葉である。
「世の中には多くの宗教があり、仏教一つとっても数多くの宗派に別れている。
だが、それぞれの宗教や宗派の名前には、何の意味も無い。
人が救われるならそれは正しい宗教だし、
救われないなら間違った宗教というだけだ。」
ひと昔前ならいざ知らず、
この現代の世の中で真実、本物に人が救われなければ
私にこれだけの共感を持ち人々が指示してくれるだろうか、
真実に難病、不妊を治し、恋愛を成就させる力が
我と愛染聖天教には確かに存在するからなのではないだろうか、
そして
その信徒であり、法縁で御本尊様をはじめとして固く縁を結びあった
我々はまさに愛染聖天様の子である。
今私はここに於いて、皆様に強く訴えたいのである。
自信をもって欲しい。
そしてこの聖なる教えの道をどんな苦難があろうと
供に歩んで行って欲しいと。
先日、前からの信徒様で今は成就された方が
その方はよくテレビに出演し、占いの本なども出されている
有名な女性行者の処に頼っていたのだが
とうとう人生に拉致あかず我が教団に来られた方であった。
その後、お二人のお子さんも教団に来られてから設けられており
ご自分がインフルエンザに罹ったので子供にうつらないようにと
いう願いと共に
義理のお母様が倒れ緊急手術までとてももたない
手術も出来るかわからない
と医者に言われたので
「兎に角緊急に先生なんとか頼みますと、もう頼みの綱は先生しかいません」と
祈祷を懇願されてきた。
結果、全て満願、
義理のお母様は助かった。
奇跡であった。