魔性 

 

 十年前位前だろうか

19世紀の欧州のファンタジー小説

で「指輪物語」という話が

映画になったが

 

我が愛染聖天の力は

あの指輪に似た

魔性の魅力がある。

霊感のある信徒には

それが誰よりわかる。

だからこそ

引き寄せられ信徒になった

者も少なくはないだろう。

 

 

日々飽くこと無く繰り返される

我が行法に於いて

 

私はまず

三千大世界も遠く及ばなない

不可得なる母なる愛の意識の海を

瞑想し

やがてそれを充分に獲得した刹那

私は一粒の智という不可得の動の

意識が詰まった

しずくが

その大海に落ちるのを感じると

「阿」という世界が隆起し

受け入れる愛と

働きかける愛が伴に共生した

三千大世界の始まりの創出を

達観するのだ。

 

私は

この世の創世記を大日如来

若しくは愛染聖天に成り代わり

辿る、いやそれは

まさに

愛染聖天様なのだ。

 

その道筋は全てが菩薩行である。

 

我が辿る

内実は我にあらず愛染である

 

その「阿」であり「ギャク」に

よる爆発の如き世界の始まりは

 

我が心内に無意識と意識と愛と

形を作り出す。

 

無意識は風であり

意識は火であり

愛は水であり

その三つがまたも輝き

己の姿と並行し

世界という姿が現れていくのだ。

 

その世界は泰然と構えた時

全てが円也と感じ

大きく息を吐くと

全てが平等であると感じ

大きく息を吸うと

全てを愛す境地に至り

その境地は全ての存在を

導く為の光となって

更に輝く

 

その繰り返しが

大宇宙に美しい世界を

創出していく。

 

その全ての行い

事象は

全くもって美しい

菩薩行なのである。

 

やがて長い歴史までの

創出を感じた時

 

愛染聖天一人だけの世界に

一末の寂しさが現れる。

不可得のはずだった世界に

終わりという陰りが見え始めるのだ。

 

すると

その刹那

愛染聖天を包んでいた

愛染聖天自身の世界が

突如女天という一個の神となり

一人であった男天を包み込む

奇跡が起きる。救済の奇跡の

出現である。

此処に於いて

お二人は

真の双身愛染聖天となられ

お二人が見つめ合ったその瞬間

お二人の内心にあった

すべての如来、菩薩

天部の意識が

外へと迸り

この世に現出し

共有する意識達は

三千大世界に

夫々の星を作り出す。

 

夫々の星の中で

愛染聖天の本当の愛を知らない

意識、

要するに

愛染聖天様の中にあった寂しさの部分

の意識が閉鎖された次元を作り出し

救済を願う世界が

悲しくも現れる。

それが三千大世界に隈なく広がる六道である。

 

その時私は感じるのだ

 

この六道の世界は私一人が

創り出しているように見えて

この世界に住む皆が創りだしている

皆が創りだしているように見えて

私自身が作り出している

このようなオウムの返しのような

達観を繰りかえし繰り返し感じている

と、

やがて

私の悟りは

この世界全ての生命の悟りであり

全ての生命一人一人の悟りは

私の悟りだと感じるようになる。

すると

私は目の前に広がる

空間に広がる空気、天、大地、海の中に

悲しさや怒り、嫉み、妬みが

なみなみと潜まれていると感じられ

それが巨大な輪廻のうねりになって

私を苛むに至るのだ。

 

するとその刹那である。

男天様の前に

悲しみや怒り、嫉み、妬み等

愛憎という感情全てが具現かさた

愛染明王がやにわに現れたかと思うと

男天はいとも簡単に

愛染明王を飲み込まれ

己が胎内にて愛染明王を宿すと

その愛憎という感情を

完璧な聖なる愛憎に生まれ変わらしめ

完璧に備えられたのだ。

 

そしてそれを見つめる

女天様の胎内にもまた愛染十一面様が生れた。

こうして

完璧な愛を備えられた御二柱は

ここで完璧なる愛染大聖天として

未だ完璧な愛を備えらず

苦しむ、三千大世界に広がる

六道輪廻の救済を始める。

 

その完璧なる御二柱の荘厳なる

お姿を見つめ。

 

その時私は思うのだ

 

この巨大な悲しき輪廻のうねりを浄化するには

例え我が一人であっても

この小さき心内に

この世の教典たる

愛染聖天の意識を写さなければならないと

 

そう達観した時

 

煌々と照らす

燈明と胡麻油の嗅ぐわいの中で

まるで愛染聖天の神の光を

私が、信徒が

いやこの六道全ての生命が

まるで

待ち望んでいたかのように

私の修する愛染聖天の秘法の幕は

おもむろに開き

そして展開されて行くのだ。

 

 

そして私は感じるのだ

私もそして信徒も

私達人間のみならず

この六道に存在する神々さえも

我らが眼前に広がる

六道世界の輪廻から抜け出せないでいる

要するに私達自身が

あらゆる因縁をもっているからこそ

この世界を伴に作ってしまっているのだ。

 

だからこそどんな過去に存在した

聖人でも

瞑想や荒行により

獲得した境地であろうと

六道の因縁で作り上げられた身に

あるが故に

元の人間に戻ってしまう事も簡単なのだ。

 

どのような聖人も

今日信仰を志そうと思った

人間と

それはいつも同じであり

逆から言えば

聖人と

悪人も同じ煩悩の瀬戸際に

立ち

この六道の輪廻を揺られているの

と同じなのだ。

 

それ故

私はいつも思うのだ

常に愛染聖天の真の姿を

心に映す作業を怠ってはいけぬと。

 

そして愛染聖天の魔性とは

あまりに

美しく偉大な導きの神力の光が

私達六道の悲しみの意識の

眼に映った時

その光を私達が美しく常に

あろうと

良く心掛け見つめなければ

それはたちまちに屈折し

魔性の光に変わるのではないだろうか?

 

魔性とは

常に私達が作りだす、病んだ光なのだ。

 

そして

その魔性に私が気付いたその刹那

 

その時私は思うのだ

私の眼前にも喰らわねばならない

愛憎の権化、愛染明王がきっと居る。

それを我が体内で美しくも昇華出来

愛染聖天様の如くに

完璧な愛憎として

我が体内に備えた時。

その時こそが

我が六道輪廻から脱却し

真の大愛の思想の獲得が

出来る時なのではと達観するのである。

 

 

 

 

 聖天教 兆象大宰

 

 

追伸

 

皆は自分の頂いた

功徳をどう見つめているだろうか?

真の功徳とは

どういったものだろうか?

 

功徳の中には

一時の成就の満足を

感じた後

まるで

落剝するかのように

消え去ってしまう功徳もある。

 

しかし

本当の功徳,

愛染聖天が下さる

真の功徳とは

 

しっかりと

己の身と心

そして運命に

膠着し

離れない

まったくもって

己の身になって

離れぬものである。

 

このような

功徳を頂く為に

聖天教信徒であるならば

どうすれば良いだろうか?

 

その答えは

己の歩む信仰の道を

もう一度見返してみる事にある。

 

道は一日にして成らずと云うが

誠にその通りである

そして歩む道が

多岐あったとしても

身一つの人が

同時に沢山の道を

絶対に歩めはしない

 

人が歩む道は

やはり

一つなのだ。

 

私達は

この

愛染聖天信仰という

一本の道を歩んでいるのだ。

そしてその尊い信仰の

道を日々開拓もしている。

 

その道の上に立ち

心を開いてみなさい。

よくその道を見つめ

悟って見るのです。

 

その行為にこそが

愛染聖天の

落剝せぬ

真の功徳を頂く

近道なのだと私は思う。

 

 

愛染聖天信仰の道とは

私の、そして信徒皆々の

だた一筋の掛け替えのない

美しき人生の道に他ならない。

だからこそ

伴に常にこの道を見詰め

真の功徳の道を

歩んで行こうではありませんか。