続けるという事



よく信徒の方の中に「どうすれば愛染聖天様に対し熱心になれるんですか?」という質問をなさる方がある。

これは篤信な方や、成就、またはいつも功徳を頂いている方には、縁遠い質問と思うし、

中には何という愚問を御本尊様にと思う方も少なくないと思う。

要するにこのような質問は、愛染聖天様に頼んだのは良いが信仰心まで愛染聖天様と

私任せという事で、どこかおかしい感想を持たざる負えない。

私はよくこのような方にはまず大変怒る。

それは愛染聖天様の信仰は、

御本尊様へ愛を持って向っていく信仰であるからである。

それでも、それでもと愛をもって向かって行かなければ駄目なのだ。

結果、その格闘のような愛染聖天への信仰が成就たらしめるのだが、

上記の質問は、要訳すれば私はぜんぜん満足はしていない。

毎日のお勤め、決まり、御約束を私は守れない。

信仰心をどうしても持てないのは愛染聖天様はじめ他人のせいだ。

本部のメールが遅いから、私の心がかわいそうになって熱心になれなくなり、

それが悪循環になり、私にいいことがないのだ。

付け加えれば愛染聖天様、私は自分で何も動きたくないし

みんな誰かが自分の為にすればいいし

イライラしたら全部人のせいだと思っいてるぐらいの人間なのだから、

つまり己の心の衣服

ご飯の世話まで愛染聖天様あなたしなさいよと云う事なのだろうが

皆様はこのような質問に対し、色々観想はあるとは思うが

皆一応に思われる事は、

非常に幼いという感想ではないだろうか

あまりにも心が幼いゆえに、

すぐ飽きてしまう。

いつも補助を頼みにし、よく赤ちゃんが母親に世話をして貰っているのに

その手を我儘に振りほどいてみたり

はたいてみたりするのと同じで、

そしてまずまずこの幼さの特徴は

例え好きな事であっても決められた事に集中、

継続が出来ないことである。

だからこそ小学、中学、高校と授業の長さが

段々成長に合わせ長く教育して行くもの。

つまり上記のような惰弱な質問は、子供のように御本尊様に飽き

イライラし、簡単に云えば投げてしまっているのである。

 

そこで今日は私が皆様に、ご祈祷、修行を通し、悟った事を書き教化する事で

今日の題目である「続ける」という事で得られるものを教えたいと思う。

つまり子供のように、ましてや御本尊様までも投げ出さないで

思い続けるという大切さを教えたいと思うのである。

 

私は基本的には自分で愛染聖天様のお供え、下げ物の作業をする。

ましてや、浴油の準備からその片付けも

それは毎日に及ぶものであり、言ってしまえば簡単ではあるが

しかし篤信な毎日のお勤め、また私の開眼した仏像を

毎日熱心にご供養なさっている方なら

お判りだと思うが

毎日続けるというのは簡単なようで実は

かなり大変な事だ。

皆様のお勤めで云えば

たったお水一つ、たった真言百回を御本尊に捧げる事さえ

毎日続けると億劫(おっくう)になり困難を感じるもの。

成る程、億劫(おっくう)という言葉は

仏教で大変長い時間を表す言葉で、つまり続けるという

事はそれだけで大変だという事なのだ。

故に私も心の中では、あー面倒だ、あー早く休みたいなどと

要するに心の億劫を多々することがあるのだ。

しかし、億劫は、決して投げてしまう億劫ではない。

あくまで信仰の波のサイクルの中の一つなのである。

人の心は、コロコロなどといって、波が多少はあっても当たり前である。

ある時間は人を思い、ある時間は空腹に襲われ、ある時間は正しくあれと思い、やがて眠る。

信仰の波も同じで、ある次期は面倒に感じ、それが過ぎれば火のように

熱が入る時期が来る、そしてそれが来たかと思えば

生活が楽しくてそれどころではなくなり、次はどうすれば簡易的に

御勤めを済ませられるかなどそればかり考えたり、

かとすればどうすれば仏像の御機嫌をとる為に

お供物を増やしてみようか

としてみたり

私の心を含め、皆様の心も

様々流転するものなのである。

そしてこの流転流動する心に共通して言える事は皆途絶える事の無い

連続。

つまり信仰しようという意欲が、途絶える事無くその流転流動の輪を作っている

という事だ。

 

そしてその信仰のサイクルの道筋を振り返ってみると、

 

去年の私、その前の私より、より一層御本尊様を近く感じる事ができているのである。

例え去年はあんな荒行に挑戦しようと思っていたのに

今年は骨が折れて難儀になってしまったなどという惰弱な心であっても

その御本尊様に近さを感じた事。

つまりそれは正に信仰の成長なのである。

されば篤信な信徒の方々も

そっと胸に手をやり

己の信仰の道を振り返ってみて、

その道筋は例えムラがあった道筋であったとしても

その道筋を作ってきた事自体に、その轍に

何とも云えぬ深さと神々しさ、

もし言葉で軽く表現などされたら冗談ではないと思う程の

誇り高い、成長した信仰の心がそこには在るはずだ。

 

そして例え余りにもムラがり、今まで

あまり熱心でなかったとしても

続けて来たという

その信仰の轍は

まるで高く積まれたビルの如き信仰の道筋の山を自然と築いており、

今だけ深く祈ろうとした者の功徳の引き出しを

軽く超えてしまっているのであります。 

 

そこには必ず信仰に於ける自信がある。

 きっと愛染聖天様は私が好きであるという自信。

愛染聖天様は絶対に微笑んでくれるという自信。

私がよく皆様に早く成就する者より遅くのほうが私は良いと思うと

言葉にも書いているのは、このような事からもいえるのです。

人生は長い。

一つの悩みが終わると

また一つの悩みが生まれる。

しかし「続ける」という事で

その信仰の道筋が築いて来た山は

その長い人生のあらゆる悩みを絶対に深く、そして高く、解決し、

御導きして下さる大切な対価となるのである。

このような深い信仰を現出する事ができるのは

畢竟ひとえに愛染聖天様の他の仏とは違うご性質と存在であるのだから、

誠にありがたく、聖天の信徒様が世に名を成す方が多数だというのも神仏を崇める人間の方からみても誠に納得させられる理である。

 どうであろう私ばかりでなく皆様の「続ける」という信仰は、

このような自信という悟りを我々にもたらしてくれているのである。

 

真言を例に挙げても

真言を唱え続ける事は、神仏と邂逅

出会う為の所作である。

 

祈り続ける事。神仏を求める続ける事。

信仰を歩み続ける事を私達は絶やしてはならぬのである。

 

 

故に

「どうすれば熱心になれるんですか?」という愚問を

云われる方は、

その「続ける」という大変な宝果実の道筋に

立つ事さえもしていない。

つまり立つ事を自ら拒んでいるのである。

 

私は信仰というものは

「続ける」という信仰の道を歩む

云わば愛染聖天様に会う為の旅だとある意味思っている。

 

凡そ神仏の中で最高の現世利益をもたらすと古来から言われる聖天。

その八百万大小天の帝であり全ての神々の主であられる

愛染聖天様の息吹を、私は「続ける」という旅を

伴に歩む中で、私は是非に感じて欲しいと思う。

その息吹の無い信仰など私は嘘だとまで思う。

だからこその中身の濃い成就

軽率でない成就を私は喜ぶ。

 

 

 

合掌

 

私の祈祷で愛染聖天様は必ず皆様の近くにいらっしゃっておられる。

しかし、その近くにいる愛染聖天様を感じるには、

近いようで遠く、遠いようで近い。 

上記の愚問もそうだが

もし愛染聖天様に私は功徳を真剣にもらいたいのです

という気持ちがあるのなら

熱心に信仰してみるのです。

私は、御本尊は、頑張る。頑張る。 しかし、当の本人が挑戦

要するに続けること、やってみる事を投げだすのならしょうがないことなのである。

それでも駄目なようだったらお辞めになればいいと思う。

私も御祈祷を辞める。 

もし信徒様の中で私は言えなかったけどほんとは今日のような質問をしたかったという人がいたならこれを読んで頑張って欲しい。

そうしてくれれば本当にうれしい。

 私の目指すところは全員成就である。

だがどうしても 一割落としてしまう。理由の如何はどうあれ

この一割が成就しない。

残念である。非常に残念だ。

今日はあまりうまくいっていない人の為にも書かせていただいた。

 最後にこれだけは間違えないでほしい。

私は九割の成就者の為に祈祷するのではない。 

一割の者の為に、昼夜、祈祷をし、

そして米を絶ち数々の断ち物で飢に日夜さいなまれているのである。

であるから、私ももっと頑張る。みんなも泣きながらでも頑張ろう。 

そして成就した者は自分だけの喜びに浸らずに、

毎日のお勤めの中でも、

この一割の方の成就を祈って差し上げるようにして欲しい。 

 

 

 

合掌