2015年新春の言葉と今年一年の予見



    2015年、無事年を越え新たな一年の門出を迎えられた事。

教主として嬉しく思います。

愛染大聖天様に於かれましては

去年以上のお護りと導き、そして奇跡を下さいますよう

信徒の皆と伴に畏み畏み申し上げ奉る次第であります。

 

愛染聖天様の本当の姿はあらゆる膨大な知恵と莫大なエネルギ-、そして

自在奇跡の想像力をもったこの宇宙を常に創造し続ける無限の愛の根源、

要するに絶対的に強烈な愛の塊である。

その塊は、宇宙全体そのものでもある。

この奇跡の愛の力に、我々人間が同調した時

愛染聖天様の奇跡が頂ける。

 

私が沢山の行者、能力者がいる中で、何故世に稀な奇跡を起せるのか?

とよく沢山の人に聞かれるのだが、

私には何の力も自分では感じたことは無いのだ。

逆にまるっきり無いのだとおもっている。

恐らく、私が起してしまい、自分でも驚かされてしまう事の不思議な成就や、

奇跡、霊的現象の数々の力の出所は、私ではないのだ、愛染聖天様なのだ。

そしてその愛染聖天様の愛のお考えの在り方に、同調する心の在り方を

知っているからなのだと思う。

確かに私はお人好しと言われるが、ただそれだけではない、

我が御本尊様から頂いた心の在り方を日々実践している一人だからなのだと

御本尊様は私に祈祷を通し、直接語り掛けられるのである。

確かに私の先祖は中条家長といって埼玉県のある歴史ある大きな聖天様の寺院を

開いた人間の血族で、その寺院の隣にはご先祖様がお住みになっていた館が史跡になって

観光地になっている。

岩手にある南部家の聖天様の祈願寺も私の祖母の実家が一門の長として創建している。

そして千宰の先祖は私の先祖を謀殺している。

話が千宰の先祖までに及ぶと論点が少しばかりずれてきてしまうのだが、

これは魂の因縁であって、功徳を頂けるものとは全く関係が無いのだ。

神仏の世界、ようするに次元を超えて

この宇宙には人も物も

何一つ分け隔ては無く、あるとすれば個々のもって生まれた形であって

その形の意味は全て愛染聖天様の愛の塊に帰属する愛そのものであるのであって、

これに気が付き一瞬でもその愛の心を開花させた者は、

当然ながらこの世全てが愛の塊である愛染聖天様の姿なのだから

今まで自分のあらゆる方向で別け隔てを作っていた

皆の心に愛染聖天様の大きな愛と智慧と自在が流入しすれば

たちまちに成就を得、幸福を獲得するのである。

万物もしかり、己は愛の賜物という、全てが協調しあい、愛し合い共生していくために欠かせない

役目があるのだとう事知り歓喜しだすと、それは突然に輝きだすのである。

太陽、月、星々、銀河の藻屑にいたるまで、それを知れば、また知る度に

その輝きを増させるのである。

科学では協調しあい宇宙に星々が浮かんでいる事は重力だけでは説明がつかないというが

星々もそれぞれに魂があり、その役目は愛の共生なのだという

愛染聖天の説かれる真理からこれを見てみると、

まるで愛し合い、助け合う如く浮かんでいる星々への疑問がたちまちに霧消し、

理解できるのではないだろうか。

これを祈祷にて知らしめ大宇宙の愛のを体現させる作業が

加持という行為なのである。

 

私は今年の師走またも不思議な体験をした。

愛染聖天様に聖天教を御守り下さるよう深く祈願した日の事、

就寝していると男天様が宇宙の星々の中からインドの王様の服を来て

雲に乗って、左右に蛇行しながら飛来し、一杯のりんごと蜂密の飲料を飲み干せと言われた。

飲み干した私が目を覚ました時。家中にガタガタとうるさい音がしている事に気付いた。

私は目をこすりながらその音の発源に向かうと、それはシュレッダ-だった。

眠りまなこを擦りながら私は止めにかかり不審に思った、

この機会のスイッチの位置はどうみても物凄い力がないと

偶然では動かないはずなのに。

私はそう思いながらも寝所に戻り二度寝をしたのだが

また夢を見た。

今度は見知らぬ高僧が現れ

「お前は象の神様の霊魂に取り憑かれているんだ。」

と、その方が叫んだ。

私は驚いて三体の厨子の真ん中を見たその時

黄金の厨子の扉が開き、そこにはまた男天様がいらっしゃたのだ。

そしてあれよあれよと私を厨子に吸い込こんだ。

そして吸い込まれたと思ったら私は目が覚めたのだ。

起床後浴油を済ますと、シュレッダ-の直後、おばけかもしれないとメ-ルをしていた私に

千宰から電話がかかって来た。

私は千宰に一連のくだりを電話で説明をしながら、

今度ははっきり目が覚めた状態で

先程勝手に動いていた

シュレッダ-のスイッチになんと無く

目をやってみると、思わず驚愕した。

何とひとりでに動いたスイッチの場所には、

「正転」

セイテンと書かれていたのだ。

この摩訶不思議な体験の深層は私の悟る心のみぞ知る処だが、

確かに愛染聖天様がご自分の存在を私に知らしめられたのは事実である。

そしてこのような愛染聖手様の御来臨がなぜ私に起こるか?

その種明かしは、上記に記した愛を護持する事で出会う事が出来る愛染聖天様との

自然なる邂逅なのである。

しかし人は中々それが出来ない。

しかしそれが出来る人間ばかりが存在する理想郷、

全てがそれに開眼する事が愛染聖天様の御誓願の目的なのであるから

それを実現するべく下された思想が

聖天教の思想なのである。

その実践を繰り返し、何度かの昇華を体験しなさい。

向き合う信徒に愛染聖天様は無理を言わずに道を引いてくださる。

何より私が間に入りその人に合わせた引導をする。

この私が開眼し、実践し、また愛染聖天様に導けと言われるておる

自在のを成す真理、思想は愛染聖天様の御誓願の最大の核心なのだが

それを実践しようと一念発起できれば必ずや

私の体験する数々の愛染聖天様との邂逅を実現する事がきっとできるだろう。

その真理とは

敵をも愛する心である。

愛染聖天様は怖い神と言われる。

しかしその実態は、愛の塊であり

その抱き合ったお姿は万物万有、生きとし生ける者すべてを愛するお姿

そのものでその魂はそこから一つも迷う事のない輝かしい信念の光を発する

ダイヤモンドのような美しい玉魂なのである。

ではなぜ愛染聖天様は愛であり、宇宙、次元、あらゆる世界そのものなのに

この世に地獄を創ったか?この世に苦しみがあるのか?憎しみが

あるのか?

そして調伏という祈祷が愛染聖天様には存在するのか?

という疑問が湧くと思うが、

それに答えれば、

愛染聖天様は宇宙そのものであり、宇宙を産んだ根源である。

今もこの瞬間も宇宙を創り続けている。

その始まりは無限に広がるどこまでも清らかで私達の宇宙にも

現在も満ち溢れる意識に観音のような美しさが映しだされ、

その意識の隆起は命の光を産み一瞬にして愛の昇華を遂げると、

その昇華により放出された愛水は

空間を冷やし、三千世界を作ったからなのだと言いたい。

それ故に皆が愛の意識から愛の炎の命を沸き立たせ、慈愛の水、血液で

それぞれ万別が出来上がった姿は愛そのものなのである。

しかしながら愛とは不完全なのである。

尊く、安らかで、愛おしく、労わり合い、感謝し、求め、喜び、幸福

であるのだが

それ故に

愛故に、そこに不完全なる影が生まれるのである。

全てを愛し救おうとする愛染聖天様には憎しみの心などは無い。

そんな大きな愛が陰を見つめ救おうと思ったらどうするだろう?

愛染聖天様はどうするであろうか?

その陰を強烈に救済しようとするのである。

しかしその救済は陰から見たら恐ろしいばかりに見えるのである。

皆の周りにいる悪人と呼ばれる者を思い出してみて欲しい。

その者が一番恐れる事は何か考えて欲しい。

その者が一番つらいだろうなと思う事はなんであろうか?

それは真面目になって改心する事なのである。

形は見繕えても、愛染聖天様の求める愛の救済は

心底からの改心なのだから、長い輪廻を通しての業を

取り払うべく、この世や地獄、三千世界を創出し

修行の場を与え、宇宙のあらゆる万物万有の浄化の

救済をなさっているのである。

 

故に調伏する時は愛染聖天様と同じ気持ちで

敵に対し、愛をもって導くつもりで

私は調伏をするのだ、

 

この敵をも愛する心を聖天教では大愛とさだめている。

 

それ故、我が愛染聖天様の教えでは

真実の地獄は無い。

地獄という名の愛染聖天様が創った

の愛の修行場があるのみである。

 

よく色んな術者、行者と呼ばれる人たちがいるが

調伏も、復縁も、

なにも不思議を起せないものがほとんどであり、

起こせたとしても、次は起こせなかったり、

良い事があっても

悪い事があることを繰り返す人間ばかりである。

それは何故かと言うと

上記の愛染聖天様の大愛が備わっていない故に

神々の強烈な救済の力に行者も潰され引きずられてしまっているので

このような事態が起こるのである。

よく聖天様はやがて見放すというが、愛染聖天様に限ってそれは無いのだ。

どんな苦しみを信徒に与えても

魂を浄化させようとする大いなる愛が愛染聖天様にはある。

それを恐ろしいと考えるのは

人それぞれの受け止め方次第である。

 

不思議がまた上記のシュレダ‐の事件の二日後に起きた。

千宰が拝みに来たときに私は自分の奇跡譚に饒舌し、

自分でも心に謙虚さを失いがちになっているなと感じていた。

千宰が帰り、私も所要を外ですまし、帰宅すると

鍵が無い。

私はドア前で愛染聖天様のお堂に向かって自分の心の至らなさ。

敵をも愛する大愛を誓いながらどこかに微塵でも

憎しみの陰を創ってしまっていたのかを回帰反省し

助けて下さいと心から願い手を合わせた。

するとガチャリと勝手に玄関のドアが開いたのである。

中に入り愛染聖天様の前で、私は心を正し、もう一度大愛の行を誓った

そして大愛を試されたのですね?

そうお聞きしたら。

一番大吉の御籤がでたのだ。

 

大愛を誓い祈祷、人生に挑む私にさえ

常に浄化の導きを下さり、戒め、お試しになる、愛染聖天様とは

そんな強烈な愛をお持ちの御方である。

 

御神籤と言えば今年も年頭の御神籤を教主の務めとして

お聞きした。

発表する前に付け加えれば、スタップ細胞は何度お聞きしても

絶対にあるそうである。

報道がどうであれ、これだけあると愛染聖天様が言うのだから

私は信じる。

 

言い張るが、絶対にある。

また去年は足がしびれ、二三枚しか御神籤をひかなかったお陰で

年の後半は大分気候が荒れたが

私がお聞きしなかっただけだ。

それ故今回はしつこい程きかせて頂いた。

 

今年は、エボラのような怖い病気が蔓延すると言われている。

これは正月前からおっしゃっていて、

今年後半災害が連発し、そういえば64番の御神籤が事ある事に

でていたのを怠惰の気持ちでやり過ごしていた事に気付き、

その反省からお聞きしたお言葉なので、この言葉を見て防ぎようのある

お仕事についている方は是非、力を入れて対策して欲しい。

 

また地震は東日本で大きな地震が起こる。

 

台風、水害は、三月~十月迄度々起こりうるが六月までの前半が

注意が必要と出た。

西、東に去年と同じような推移が見られると出た。

しかし、去年と同じなら、何故何度も激しさを増すはずの

後半では無く六月までの前半をなんども何故おっしゃるのか

そこが私も不安で判らなかった。

 

政治経済は

日本経済は横ばいで上がることはないが、下がろうとする動きを政府がよく対策し、今の景気が続く。

アメリカ経済は大統領が人事で明暗を分け、うまく行けば良し、失敗すれば波乱を招くと出た。

日韓関係はお隣でこれも人事において変化あり

この影響でちょっとしたきっかけが出来、良好に向かう年になるそうである。

また東南アジア諸国国境海域と日本国境海域のいざこざも去年と変わらずだということだ。

 

しかし、よく考えると去年少しの御神籤で国境線で一悶着あるという愛染聖天様のお言葉を考えたら。

災害は私がお聞きしなかったが、

去年の国境海域でのイザコザと事故は的確であった事を振り返ると

愛染聖天様の妙智の力に涙がでる。

 

以上が恒例の予見である。

悪い予見は私が懸命に祈祷し無くなるように祈願する。

やもえず起きた時は救済の祈祷を共に祈って欲しい。

本当に切に祈る。

 

今年の最後の祈祷は時間を少し遅らせた。

何故なら、私は常に寒い日や、熱い日

路上で生活している人にお金を布施しにいくのだ。

「今日は寒いですから、何か食べて頑張って下さい。お体に気を付けて」

「今日は暑いですから、これで水分を取って下さい。頑張って下さい」

というふうに。これも大愛を常に不動にするための教団の思想実践と

考え、その行為の一動作に、本尊の教え、愛があるよう意識する。

この行為を重ねた日なぜか信徒に良い兆し、成就があるのだ。

そして今年の大晦日は特に恵まれない方が、寒さに震えていたし、

祭日に一人凍える寂しさをいつもより深く私は心に感じた。

その為、一人でも救済しようと、道すがら目で探しているうちに時間を

超過してしまったのだ。

日々の私のこの行為を愛染聖天様が愛でいてくれるのなら

どうか起こりうる災害を止めて欲しい。

 

そして何より私の信徒の苦を抜き、楽を与え、奇跡の光を

浴びさせてやって下さい。

 

新年、私はそう大きく愛染聖天様に叫び祈りたい。

 

信徒の皆さんどうかこの2015年も

供に愛染聖天様との信仰の道を

共に支えながら歩んでいこうではありませんか。

今年も宜しくお願い申し上げる。

 

                      合掌

 

追伸

  大愛と不倫は反比例するのでは?と思う信徒もいると思うが

それは否である。

我が愛染聖天様が説き、引導する愛は

敵をも愛す。星も、土も、全ても愛す。

真実の愛なのである。

私は浴油の時に愛染聖天様に皆からのあげものを差し上げる時

一つ一つの捧げ物を加持し、例えばお酒に例えばお団子に

あなたは愛染聖天に捧げられるために生まれてきた仏なのだよと加持し、

開眼させる。

すると自分の本来の役目と歓びを知った

それぞれの捧げものは愛染聖天様のお口に入る時に

まるで心から愛する恋人に身を任すように

歓喜、昇華して行き、愛染聖天様もまるで自分の赤子、真実の恋人を

抱きしめる時のように歓喜、感涙し、捧げ物を胎内に

入れるのである。

まさに愛の抱擁、結合である。

これは捧げ物の有難さ尊さを言っているのではない。

捧げ物が加持され求めた者はなんであったか?

愛染聖天様が求めて結合し輝いた愛、光は何であったのか?

それは真実の愛に他ならないのだ。

そしてその二つの愛の結合の度に星々と皆の願いが光り輝くのを

私は祈祷で常に感じるのである。

 

不倫は人の道に非ずと人はいう。

 

しかし、

真実の愛を求める道は神の道なのだと、

愛染聖天様と私は説くのである。

故に私は

沢山の真実の愛を今年も成就させて見せよう。

 

最後に愛染聖天様の名誉の為に付け加える

よく愛染聖天様をいやらしくいう間違った行者がいるが

愛染聖天様の愛とは男女の肉体的交歓に非ず、

非常に美しい万物万有人種を問わない全ての人々に対する

深い思いやりの愛、無二の愛なのであり。

見る者の心の不浄を焼き尽くす。非常に美しい真実の愛である。