教団の定める八つの慈愛

もう五月である。今年の冬は寒かっただけに、小春日よりが、とてもすがすがしい。

こんな陽気のせいであろうか、四月、五月、成就した者が多かったような気がする。

有難い事である。しかし、いかに成就したからといって、教団の思想を実践し

個々の信仰の求道する姿勢により得られた、大なり、小なり悟りを得ていなければ

現世に利益をもって、皆に正心に導かんという御意思をお持ちの愛染聖天様にとっては

とても悲しい仏心の牽引に終わってしまう。

そうならない為にも、前回の言葉でも通達していた如く、昇華を遂げる為に、心に植える尊天様のお性根に、いかに慈愛の水を注し、育て昇華するかを教えたいと思う。

そうすれば、愛染聖天様にはなおのこと可愛がられるだろうし、次第、次第に

愛染聖天様から頂ける功徳の、大きさ、深みも変わってくることは必定である。

何故なら、それがなにより愛染聖天様の御心、御意志に適った行為であり、形で

あるからである。

だからといって、今まで成就した人間は駄目だというわけは絶対ない。

成就した人間は、そこに至るまでの苦労によって、漠然と到達した観念を

今から教える慈愛に当てはめてみれば、そこから浮かび上がる悟りの形が、それなのだと思い

自分のものにすればよいのであり、常々私が言っている

現世での人の望みには限りが無い、その形を変えて浮かび上がる煩悩を

我が教団の信徒は常に、我が御本尊に祈り、

その願いの昇華と供により清く大きな人間に育つ事が出来る事こそが我が教団、

御本尊の存在意義であるのだから一度成就した人間は、二度、三度の成就過程において、

またも深く悟りを得ていけばよいのであり、そうして欲しい。

どうか毎日の行い、お勤めにこの八つの慈愛を常に実践し、

より早く、また深みのある成就による悟りを得て欲しいと存ずる。

 

一、本尊愛

先ずは、何よりにも、我々を何者からの悪心、呪詛から守護してくださり、

その偉大な奇跡力、妙智力で至らない我々の煩悩を満足たらしめ、

その甘露の昇華のご厚意により、仏心を開花させるという、何万とある神仏の中で

唯一このような奇特かつ広大なお力をお持ちになられる、我が御本尊様に対する

深い愛の実践である。

これを思えば、お勤めも欠かすことを控えるようになるであろう。

お約束事を破るなど露ほども思わなくなるであろう。

成就後も変わらぬ仏心を持ち保つ事が出来るであろう。

愛染聖天様は何を求めていらっしゃるか、進んで考え実践するようになるであろう。

 

注)いいだろうか?この行いは、毎日のお勤めにて己のお性根を感想する時に、

自分なりにこの本尊愛を含め、一つ一つ順をおって、愛心を想起し、

性根に注ぐ度にそれがすくすくと発育すると感ずるのです。そして何より、

この八つの慈愛はお勤めなどの、己が心中のみで注す慈愛の水もそうであるが

何よりその、今から次々と伝える慈愛の水の実践を一般生活で実行せしめる行為に

特徴を見つけられるものであり、

お勤め=心

一般生活=体

つまり

心と体の両輪の実践により、愛染聖天様の大いなる奇跡力への邂逅を実現せしめる

有難い秘密の行と理解し、以後通読実践致して欲しい。

 

以下続く、

本尊愛の実践とその愛心の隆起は、やがて、この御本尊の自己への深い愛を想起させるようになるであろう。

皆が自己の願望を満足せる為に求めた神に寄せる思いは、我が神の御誓願の如く

かならずや大愛となって求める者に帰ってこなければいけないものなのであるから

本尊愛の隆起の想念の実践による成功は、正に自明の理として、

本尊の愛を充分に感じる想念に変容し、やがてそれは、御本尊を求めた発露である。自己の根本に回帰せしむ。

 これ即ち

二、自尊愛である。

己の真の姿、願いを尊ぶのであり、その尊びを本尊と照らしあわせ

よく内省しまたもって善悪の未だ混在あるにもかかわらず

その願いを飲み干して下さる。

御本尊の御心の如くにと己を想起し、また願い、

そして、何より、愛おしむのである。

これは、得てして、余りにも願うばかりに

自分を見失う結果を防ぐとと共に、

何より、御本尊様と出会い、その教えを頂き、その功徳を得、

有難い愛の悟りと得る事、また、得ようと発起した発露はどこにあるのか?

それは、各々のその自己の心に発露したのであって、

自己なくして、何も始まらなかったのであるから、

まさに如来の開眼の如くと成す始まりは、いみじくも顧みて有難い

自己にあるのだという、何よりもの根本を改めて、己の心中に確信するのである。

これにより、一層自分の願いを大切にし、信仰におろそかを小じせしめるであろう。

これにより、諦めるなどという、小心を滅却することが出来るであろう。

これにより、より一層、強烈に願望実現への勇気ある行動を発起する事ができるであろう。

この自尊愛を、充分に想起し、帰属せしめた後に現れるであろう

愛、それは、最も大事な愛であり、各々が最も欲する愛である。

ある者は意中の異性であり、あるものは子供であるかもしれない。

この自己心を内省し、尊ぶ階梯により、否応なしに、自分の望みを

確認し、深く願う後に生まれるのは、やはりその先に存在する愛なのであって、それは

三、盲尊愛、

盲目に成らざるおえない相手への愛であり、何より得たい相手への愛である。

純真な愛なのである。

この愛を上記の階梯により発起させたならば、

この相手への愛情は、日々感じていたものよりも、

より清らかで、より輝いたものであるはずであり、

この行為を体現することは、

成就によってとても大切な行為であることは言うまでもない。

これをすることにより、得たい相手への思い、行為が

相手の気持ちに適ったものになるであろう。

それは、己の成就の幸せが得たい相手の幸せに変わる行為、

まさに等価とした愛の成就に向かう為に欠かせない愛水なのである。

そして、この得たい相手への愛を深く確信する作業を、心、また行動に

現すうちに、尊いこの愛心はやがて、自己と得たい相手との愛の

有難さを感じ、愛の繋がりの深さを感得するに至るはずであり、

その有難くも優しき悟りは、即ち

四、血縁愛

家族への愛である。

そして、これはやがてそれ以外の人々、また生き物に対しての

愛に到達する。

即ち

五、他尊愛

である。

そして、生きとし、生けるものに向けられた愛は、その生命を宿す

この現世の森羅万象に、その愛を変容するのである。

六、万象愛。

自然、環境を愛す行為である。

この境地に至り、各々は、必ずはたとして、憐憫の情を発露させるはずなのである。

この愛水の階梯により、隆起し、確認、帰属せられた、大愛。

人のみならず、森羅万象に駆け巡る、思い、思い合う、多種多様な愛の形は

きっと我々の心を如何なく満足せしむものなのであるのに。

それであるのにである。

この世には、この愛から外されてしまったのでは?と思う存在が

人に、動物に、海や山、草木に、存在する事にきずいてしまうのである。

現世、生ある悉くはこのように美しく気高いものなのにである。

そのまるで、完璧な愛の世に欠けたように存在するその悲哀を

救済し、この世を完璧な愛の世に成さんという、まるで愛染聖天様そのもの

の究極の慈愛、大愛を体現する愛への到達、それが即ち

七、救済愛

である。

皆が私と供に韓国の方々の無事を昼夜を問わず祈った愛である。

そして、この愛に到達した時、皆は

全ての存在にある愛の尊さと、全ての存在にある光と影、表裏、成功と失敗、勝者と敗者、

歓びと悲しみは全ての一つの世界に一つの輪をもって

在るものであり、だからこそ、我が願いも、それが例え不倫、略奪愛で

あっても、美しい愛の森羅万象の世界の一員なのだと思い。

その優大な愛水の流れの悟りにそって、必ずや

大いなる生命の輪廻の気づきに到達し、

輪廻という圧倒的な時間軸を、今までの愛水の悟りに加味した結果

過去未来の生命の流れと、それを包具する雄大なまでの宇宙は

これ愛染聖天様そのものであり、今我が思い、

そして求道し、体現実行せしむこの我もまた愛染聖天様そのものであるのだという

偉大な愛の境地に到達するのである。

これが、

輪廻愛

これが沸き起これば、

過去の因縁を理解しようとできるはずであろう。

自分を閉じ込めている何かを払拭できることであろう。

想念だけのこれまでの七つの愛に、魂を宿す事ができるであろう。

何故なら、過去と未来に立ち向かう力を得る事ができるからである。

 

以上が八愛である。

これを、お勤めで実践で性根に注ぎなさい。

なにより、現実世界で実行しなさい。

心で、愛の水による性根を育て、

目を開き声を発するこの世界で、万物が息するこの世界で、

この八つの愛を体現獲得し、生ける悟りを得てみなさい。

 

今度はこの八愛それぞれの心の隆起に必ず構成されなければいけない

甘露の仏性を教え、やがて、昇華の形それぞれをも

語りたいとおもっている。

 

長くなってしまったが、皆も頑張って欲しい。

 

そしてこの教えを実践して欲しい。

 

この教えがあるからこそ、この兆象の奇跡が起こってきたのだよ。

 

私はしっている。

常に皆が成就の為に本尊を念じ、心で願う時に生じる、不安と

疑問。

その答えの入り口がここにあるはずである。

そしてその疑問に答えられるのが、我が聖天教であり、私、兆象大宰なのである。

 

                       合掌

 

追伸

しかし、いつもそこには私だけが知る奇跡が供にあるのである。