※令和参年愛染双身大聖歓喜天大祭(夏の大祭)に於ける
教主様御法話を教化の為、掲載致しました。
またも私が愛染聖天より頂いた
感応の予言がその通りになった。
信徒の皆も記憶に新しいと思うが
五月の連休、それは記録的大雨による
水害という形で現れ日本中を席巻した。
川は氾濫し、死者まで出たという。
今年は成る程
愛染聖天様のお言葉の通り
四月を過ぎ、大変な水害が続いており
梅雨入り等も例年より非常に早いと
報道各社、今年の天候の変異を
一斉に報じていたもので
それだけではない。
イスラエルでは
私の予見通り
核爆弾こそ落ちはしなかったが
まずその内容通りの
騒乱が起き
世界中を騒がした。
国外の地震を始めとする
天災も然りである。
その中でも
一番皆が驚きたるは
私が九州が揺れると申してから
真実そのように
観測史上稀に見る群発地震が
発生した事であろう。
これには
神霊のお言葉を直に承った
この私も
何かもう
言葉にならない驚きを
感じずにはおられなかった。
私の事を知る者は
私を指して
「日本一の神通力者」と評するが
以上のような
私の実績をみれば
そう思うて
然もあらん事と存ずる。
しかしながら
やはり
我がこの神通の御技の
根源たるや
その実相とは
それはやはり
御本尊愛染聖天
に他ならず
我一個、
何処までも
人間の性を定めとす
凡夫の至らなさを
一人顧みれば
やはりそこには
我が愛染聖天の
凄まじき大神力に
ただただ圧倒される
ばかり。
その妙智力たるや
世の全ての歓喜天を
纏めても
軽く凌駕して余り無い、
八百万大小聖天の帝と称せしは
之誠也やと
確信せざる負えない
大神の実像がそこにはあるのだ。
その大神を祝う最も大切な行事
夏の大祭が今年も
早あと二週間ばかりに近付いて来た。
本来ならば
もっと早く
信徒の皆に案内を
告知するべきであって
また、上記の天災の予見的中に
際し、その事、大いに告知し
教主である
私自ら先頭にたって
大雨水害回避の祈祷を
修せしめねばならなかったのだが
全てが遅れ
後回しになってしまった。
それというのも
実は
千宰、そして本部の者の
手を借りて
恋愛成就の秘法をしていたのが
その遅れし原因であった。
願主は
長きに渡り信徒の籍にあり
我が聖天教を支えし人間で
詳細を云えば
成就結実に響くので
まだ云えぬが
私も大変な体力を使った
非常に大きな
恋愛成就の
大秘法修法であったが
見事に乗り切り
その験、大いに現れ
既に八分の成就にまで至る
大奇跡を生んだ。
何よりこの度の奇跡成功の
要といえば
万宰までが手伝ってくれた
事であろう。
万宰には計り知れない霊感が
ある。
千宰にはこの大法を
するにあたり
夏の大祭が近いので
修するのは辞めるように
言われたのだが
では何故私が
この夏の大祭という
聖天教で一番忙しく大事な
行事を控え
恐ろしく体力を浪費する
大法に臨んだかというと
それは
この度修した秘法は
私が以前、西日本豪雨の時
皆の前で
線状降水帯。
即ち
当時の霊眼をもって
云えば、西日本の空を
暴れ狂う
不吉なる悪龍を
水天の法によって降伏した
時のように
不眠等、極めて体力的に
困難な苦行を伴うも
その後の天災消除の祈願に
極めて有効に作用影響する
特徴がその恋愛成就の大法には
あったからだ。
つまり
建物で云えば土台。
赤子であれば母乳。
病であれば投薬とするようなもので
その証拠に
水天の法を修した時のその後は
その後に何度も来襲した
台風を私は見事に祈祷により
消滅せしめている。
つまり
私が何故この時期に
沢山の人間の手を借りねばならない
この恋愛成就の大秘法を
無理を押して修したかと申せば
それは
この恋愛成就の大法を修せば
そのすぐ後に
行われるであろう
聖天教最大の行事にして
最も大切な行事
『夏の大祭』に於いて
この愛縁の大秘法が
基礎となり
母乳となり
投薬となり
やがて開催される
夏の大祭の修法に
見事に良く作用影響
良い結果を促すのであって
水天の法は天災に作用したが
この度修した大法は
恋愛成就の法であるから
これに影響される
今年の夏の大祭は
特に恋愛の願いに対し
強い成就力を示す事は必定。
つまり今年の夏の大祭は
恋愛で悩み苦しむ信徒に対し、
特に恋愛成就の秀でた大功徳を
促す事が出来る大祭に
なるぞよとの
教主としての深い親心あっての
事だったのだ。
そして何より
愛染聖天様は
その名の如く
日本で唯一の
「恋愛成就の歓喜天」
愛の願いに最も秀でた
愛の大聖天である。
故に
その大神の思想
「大愛の思想」から申しても
我が御本尊の実相、本質、本性
正にその正体とは
愛。恋愛成就であるといって良い
のだから、
私はその御本尊様の愛の魂に
この度沢山の人間の力を借り
見事に修め切った
その愛縁成就の大秘法を
修する事によって
夏の大祭を前祝いとして
その神魂に
大いなる喜びと
愛を注ぎ込んであげたかった
のだ。
夏の大祭とは
その主神であり
自在功徳、神力の源である
男天を供養する行事である。
つまり
愛の源の供養である事から
この度無理にと
私が強行したこの
愛縁成就の大秘法は
必ずや
その愛の源に
大いなる
愛歓喜なる甘露注がれ
その事で
今年の夏の大祭は
特に恋愛の願意を持つ者に
強い功徳を授ける大祭に
なるであろう。
また
これは
夏の大祭ばかりでなく
愛の源の一方である
女天を供養する冬の大祭に於いて
も非常によく影響する
であろうと私は確信している。
聖天教は沢山の悩みを持った
人間が集まる信仰だが
今年の夏の大祭は
特に恋愛で悩む者や望みの
ある者はすすんで参加する
と良いであろう。
また大祭と云えば
功徳ばかりを求めては
之は絶対にいけない。
斜陽ある聖天信仰に在って
何故われら
愛染聖天信仰が
斯くも功徳隆盛にして
生きた大聖天と仰がれ
他の聖天信仰のように
仏像から神魂が
消えてしまったり
荒玉にならず
御本尊様が
絶えず
霊験著しく
影現し続けて下さるのか。
それはやはり
この聖天教には
他の聖天信仰には無い
ただ功徳を卑しく求めるだけでは
無い。
神の本意であるその教えに対する
魂の成長
その実践が
我等「聖天教=愛染聖天信仰」には
あるからだ。
だからして
今年の夏の大祭に先駆け
大祭成功の為に
皆に教主である私から
此処に於いて
是非とも
魂の成長を促す教化を
一座説きたる事。
之は誠に道理であろう。
数年前
宗教家では無いが
ある高名な方の紹介で
私は
インドから来た
修行者数名を紹介された。
その方達は
口を揃えて
こう言っていたのが印象的で
あった。
「神は心の中にいる」
聖天様とは
その修行者が奉じる
ヒンズーの前身
バラモン教から端を発した
宗教学的に非常に
古い神様なのだが
その教えの道を歩む者達から
通訳を間にして聞いた
その言葉は非常に感慨深い
といった感想に留まらず
私にとって
その言葉は
誠に理に叶った言葉だった。
何故なら
愛染聖天様の教え、
そして我が行法瞑想の
世界観からすれば
それは全く比して違わぬ
宗教的思想理論であったからだ。
具体的に申せば
私共の世界観は
私達の眼前に広がる現実世界全て
私達の心が創り出した
想像の世界。
曳いて考えるならば
この世には
数え切れぬ程の生命が
存在しているのだから。
その数多の意識が
創り出した想像の世界と
言ってよいこの世は
つまりは全ての生命(衆生)の
共通観念が創り出した
世界と定義する。
掘り下げれば
私達一切生命は御経にも
あるよう
愛染聖天様から生まれ出でた。
つまり
我等の教えからすれば
眼前にある世界は
心の想像の産物であり
どこまでも眼前に確認出来る
体や現実世界は
全て心が創り上げた
産物であるとする事から
私達一切生命全ては
愛染聖天様の心より
生まれた出でたのだ。
この世界観を踏まえれば
われらの肉体の
実体はどこまでも心であり
言うなれば
その愛染聖天様から生まれた
数多の心が常に共通した
観念をもって
己の肉体をはじめ
三千大世界を想像、創造
しているのだから
我々の心は
実は一個一個
分断しているように
思えても
その実は全てが繋がっているの
であって
それは勿論
全ての生命は
愛染聖天様と繋がっている
のは云うまでも無い事であって
愛染聖天様は
三千大世界そのものと
御経で説かれている事を
この教えに更に加味すれば
私達全ての生命は
愛染聖天様の
一個一個の
心の断片に過ぎないといって
良い。
然もありなん。
私達それぞれの心を
振り返って見なさい。
そこには
美しい心もあれば
恐ろしい心
未熟な心もあれば
正義に溢れる心もありと
それはもう様々な心が
存在しているのが
解かるはずで、
その全ての心
どれもが心なのだ。
そう悟れば
私達人間の心とは
愛染聖天様の心の
中ではどんな心の
位置を占めるのか、
それは云わずもがな
恐らく未熟なる部分なのであろう。
何故なら
そのように未熟とせば
私達が己の未熟なる心に邂逅した
時、全くもって己を拒絶はせず
己のその未熟を全くもって
見捨てず、
まして育てようと思うし
時には可愛いと思ったり
総じて見捨ててなるものかと
思うもので
その心と、常に私達信徒を
決して見捨てずに拾い育てて下さろう
とする
御本尊愛染聖天様の私達に対する
慈愛の御心は
私達が心に己の未熟を見て思う心と
実に似てはいまいか。
畢竟、私達の心
その深層を探れば
そこには必ず
御本尊様がいらっしゃるのだ。
そしてこのような愛染聖天様の
教えは
そのインドの修行者達の
奉ずるヒンズーの教えを
やがて凌駕する。
何故なら
私達の共通した観念による
想像、創造した故の
我等の眼前に広がる
現実世界。
ならば
心の神を探す行為は
実は
眼前の現実世界に
神を探す事と
実は等しい事に
真理を見出し
そこに結実していくはずで
あるからである。
つまり
私の入魂する
仏像然り、
何より
我らの元に上記に説いた
予言霊験の数々をもって
実証して已まぬ
我等が御本尊愛染聖天様の
その御神体。
その確かに眼前に存在する
御神体を帰依奉じる事と
己の心の中に
御本尊様を探求する事。
これは全くの等価なのであって
つまりは現実世界に
確かに存在する
御神体は
私達の共通観念。
いや
私達の心の中に確かに存在する
愛染聖天様という存在が
眼前に広がる世界に
仏像として確かに具現化して
現れたと考えられるに
至るのである。
故にそのインドの修行者達のように
常に心だけを見る
一元的なものでは無く
更にその探求を凌駕した、
つまり
眼前に広がる世界にも
その心の在り方の証明を探す
という
心の探求と共に
外的に探求を成す事を
等価とし是とす
そのような
我等の教えの
正にこの優性なる思想の在り方は
これにより
己の心、願いという
心の探求行為と
眼前に据え置く御神体に
その心の表れとしての
油を潅ぐという
眼前に広がる
現実世界への
外的探求行為。
つまり
心と行為。
この二元を
一体と成す事で
心の改変と
それによる
現実世界の改変を
同時に成す。
要するに
それにより
奇跡の出現を
現実に成す秘法行為を
成し遂げる、
この世で
最も優れたるヨガの秘法
浴油祈祷がこの我等聖天教の優れた思想に
於いてだけ、
初めてしっかりとして宗教概念とし
完成出来るのである。
だからしてこの概念と常に
融合してならない
我が愛染浴油祈祷は
他を圧倒する不可思議なる奇跡力を
発揮するのである。
またこの二元的思想は
つまりは
篤信な信徒ならもう気付いたと
思うが
これこそが
私が兼ねてから説く
「凸と凹の思想」の根幹をも為す
世界観だといってよいだろう。
余談だが
インストラクターのヨガは
体や心を癒す行為であり
では何故浴油祈祷が最高の
ヨガかというと
心の願望を現実世界に現出
させるからであって
その目指したる処がまったく
比べ物にならぬからだ。
話を戻そう。
では今日は皆に
まず上記で説いた
我等の教えの探求には
二元。
つまり
心の探求。
もう一つは眼前の探求と
説いたが
それがあるからこそ
仏像や浴油の思想。
それによる奇跡。
そして『凸と凹の思想』
がある。
つまり
密教のみならず
我等聖天教の世界観
だからこそ
生じたのだと
断言出来るのだが
この二元的探求。
つまり
心と身の在り方を
教化するとすれば
まず心の探求に於いては
それはやはり
聖天様の御誓願にあるだろう
そして
その御本尊様の御誓願。
その心と同じくせしむ事の実践。
私はこの大祭に於いての
この実践を
皆の心の探求の課題として
教化したい。
まず
歓喜天という神仏のその御誓願は
『例えどのような悪人であっても帰依する者を導かん』
というものだが
これは
正にその深き慈愛の御心、
広い救済の心を表して余り無いものだ。
(しかし最近はこの御誓願を
布教の中心に据える寺は皆無に近くなった。
その理由として
愛染聖天と違い、一般の聖天というものは
その出自からして下級なるが故に
一度縁付いた者に
仏法開眼の為の功徳を授けるも
その後は、余り授けないばかりか
自分の御心に合わぬ祈願者を悉く
打擲、果ては痛ぶり捨てる。
まして、元々仏法に合わぬ
悪人に対してのその行為は
辛辣を極め
もし功徳授けたる後に
改悛あらざれば、その罰は
苛烈を極める。
まして、近代新人類と揶揄される
風潮の中で育った戦後生まれしか
存在せぬ行者の世界に
儚くも哀れに存在するばかりの
数多現存する聖天達のように
荒魂に変わり果てた故の
その苛烈な導きは
悪魔に等しきものだし、
それは行者や悪人ばかりでは無く、
現代の頽廃した教育の中で
生きて来た人々もまた
一般の歓喜天のそのような
怒りに合いやすいのであって
その殆どが運勢を歓喜天の怒りによって
呪われ失墜させてしまう。
これが最近の聖天のお寺が
声高に
悪人でも救わんと自信もって
言わなくなった由縁であり
つまり
罪無き人間でも不幸を被るのだから
まして
罪多き悪人は歓喜天に近付く事さえ
危険だからなのである。
言うまでも無く
例え罪無き者であっても
仏法に合わぬ、人道違えた心願を持って
願えば
その怒りは凄まじい。
しかしその今は古き無きものになってしまった
八百万大小聖天の大いなる御誓願に
更なる広大無辺なる大愛ををして
我等至らぬ一切生命(衆生)を救わんという御心を
もって御降臨された
三千大世界全ての神々の主にして
八百万大小聖天の帝、
愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩様の
『三千大世界の一切衆生の救済』
『どのような悪人神仏であっても
帰依する縁者には例えどのような願いでも叶えて進ぜよう』
というこの有難くも尊き神聖な御誓願は
これこそ私達が例え無信仰の者でも
この世に生まれ出でた幼き頃より
思い描いて来た
神様の神聖な在り方
つまり神心(かみごころ)そのものである
と言って良い。
ではそれが何故
如何に素晴らしき愛に満ちた
ものであるかを探らば
人は誰でも親であれば
子供それぞれの幸せを願う者。
まして、出来の悪い子供がいたならば
出来の良い子供よりも
至らぬ我が子を先ずは導き
出来の良い子のように
してあげたいと望むもの
まして病気の子供がいたらどうであろう。
どの子よりも先ず
心配なはずであるし、導き守らんと
するものである。
そして悪人とは
一切生命を兄弟としたならば
やはりそれは
実は先ずは救わなければならない
至らぬ子であり、兄弟ではないか。
神からすれば
例え至らぬ子であっても
先ずもって救わんとせねばならない
生命なのである。
つまりは
それが至らぬ私達である。
このような
生命全てを分け隔てなく
しかも
至らぬ者は尚の事
救済せんとす
愛染聖天様の御誓願とは
全ての生命を
正に親として
導かんと立脚する
それは
大いなる母の愛であり
しかもその深い慈愛は
三千大世界全ての世界の生命
ばかりか
神々にまで及ぶというのであるから
その広大な親心、神心を知れば
愛染聖天様だけが
何故全ての神の怒りを
解く、納め切りの秘法を有するかが
見えて来るはずだ。
愛染聖天様とは
御経にもあるように
輪廻転生そのものである。
然るに
時には
愛すべき悪人を
導きの為に残酷に
処断し苦しみを与えるが
それも神の愛。
母の愛の一つの在り方。
このような人間の最も慈愛深き母性を
悪人、神々まで救わんとされる
その神心からも垣間見えるように
それを軽く超越す
その人智を超えた
愛染聖天様の受持なさる
慈愛、大愛を
信徒の皆には
己の心内にて強く意識、そして探求し
この度の夏の大祭に臨んで欲しい。
先にも書いたが
時には愛と称し
悪人を簡単に殺してしまう等
まるで計りかねる大いなる愛を
お持ちである大神愛染聖天様。
その広大な大愛を探求する事は
実は己の欲や肉体までも淘汰し
輪廻の世界を垣間見た時
はじめて解かるものかも知れず
それ故に
インドの修行者も
あのように痩せ細っても尚
悟れずにいるのだろうし
それが心の探求というもので
あろうが
信徒の皆には
是非我が修法とともに
その探求により
愛染聖天様の深き大愛。
その一片を垣間見れるよう修行して欲しい。
そしてその一片にさえ触れる事が出来たら
私は皆の全ての願いが成就出来るものと
思っている。
何故なら
その探求の作業は実は
あなたが夜
大空に広がる
見れるだけの
その本当に無数の星々を見て
その全ての輝きの
真理を掘り下げる作業
に等しいからだ。
その事は
私達の眼前に広がる世界とは
全て私達の共通観念の
産物であるという
世界観を踏まえれば
解り易い。
そして愛染聖天様とは
三千大世界そのもの。
つまり
眼前に広がる世界とは
己自身とそしてこの世界に
存在する全ての生命の心が
創りだした世界である共に
愛染聖天様そのものでも
あるのだから、
つまり愛染聖天様を探求する
行為とは
その眼前に広がる全ての
宇宙世界を
探り当てる作業であり
それはまさしく果てしの無い行為。
しかし、見て見なさい
あの煌々と光る月を。
あの星雲の一欠けらの星を。
もしあなたが
それら大空に輝く星々の中で
特に劣等な光を持つ星を選び
その輝きが説く
愛のなんたるかを
あなたが知った時、
その愛が
如何に愛染聖天様にとって
この大宇宙にとってほんの一欠けらに
過ぎずとも
その愛は私達にとっては
とてつもなく眩しく
そして膨大なものなのかが
解かるはず。
何故なら星の輝きとは
例え劣等な光であっても
三千大世界全てを照らそうと
その星命を燃やし
煌々と照らし続けているのだから。
正にその存在は
大愛そのもの。
だからである。
私の修する浴油とは
そしてその時の心の模様とは
常にその一片に触れているからこそ
台風、水害、神羅万象を動かす
破壊力をもった奇跡を生むのだ。
今年は
私の修した愛縁の大秘法により
夏の大祭は沢山の恋愛の悩みの
成就者を生むだろうが
だからして、尚更
愛願を願うものはこの御誓願の大愛を
よく探求してみると良い。
注)だからといって
悪友と寄りを戻したり、悪人に手を貸したり
してはなりません。
そしてもう一つの
眼前に広がる世界への
探求。
つまり行動によっての
働き掛けだが
これが
この度の大祭で私が
皆に心掛けて実践して欲しい
先の心の探求に続いての
もう一つの
教化課題なのである。
それは
「愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法」
の中に記した
私が日本ではじめて訳した愛染歓喜天陀羅尼
にある。
その訳された意味に是非着目して
欲しい。
その中で愛染聖天様
つまり男天様は
女天様によって
邪見、要するに邪な心を
晴らし
これからは
つまりは上記で説いた
御誓願を果たしながら
生きるのだ。
と説いている。
余談だがこの陀羅尼を
訳せば女天の鼻は長いと
あるが
面白い事に
日本の浴油の伝承では
女天は白い所までは
本当だが
鼻は短いとなっている。
そして私が感応によって
みた女天様は
やはり男天様より鼻は短かった。
戻るとしよう。
つまり
私が何を云わんとしているか
というと
この陀羅尼は
愛染聖天様の
改悛が唱えられているのであって
是非私は
この陀羅尼の御本尊様のように
この大祭に於ける
眼前に広がる探求は
今までの自分より
ほんのわずかでも宜しい
どんな内容のものでもよい
「己の今までを改め
善行を実践して欲しい」
そう教化願うのだ。
愛染聖天様はよく私達に
反省せよと頭をゴツンとする。
しかし私達は
そのゴツンとする行為があってから
改悛する時
何故か
神に対し、気恥ずかしい気持ちをもったり
何故自分はゴツンされなければ
出来ないのか落ち込んだりもする。
しかしそのように
頭をゴツンとされ
云わば無理やり改悛の荊の道に
投げ出されたとして
反省しそれにより心を正せば
御本尊様は必ず
その後大いなる功徳を下さるものだ。
その工程を鑑みれば
やはり眼前に広がる世界への実践は
心の探求の実践と同一である事を
このような私達の信仰の体験が
それは証明しているものであって
皆には是非この夏の大祭は
この愛染聖天様の陀羅尼に
信仰者としての深き感銘を
もって、大祭期間中
是非その改悛の実践を
進んでして欲しいのだ。
以上この心と行動の探求
二つの実践を
教化、いや私からの
夏の大祭期間中の
皆への宿題とさせて貰う。
その実践は必ずや
大祭に行われる
秘密供に感応して已まないだろう。
なぜなら
心に愛染聖天と同じ心を持ち
現実に広がる世界へ
行動として
愛染聖天様と同じ改悛善行を
働く。
これをして
どうして
歓喜天と感応出来ないと
申そうか。
どうして
修する我兆象と
心繋がらずにおけようか。
この私の宿題は
皆々それぞれが
浴油を修しているのと
実は同じ事を体現する行為と同じ。
簡単に思えるようで
難しい、だが
これこそが皆にとっての
御本尊様との
真の感応導交のきっかけと
成り得るのではと私は思う。
恐らく九月。
今度こそ
私の著書が出来上がる。
その書には
私達聖天教の信仰の実践行為が
体系化され説かれている
故に私は皆に
その思想群を良く身に着けて貰う為に
その書が皆の手に届くであろう
その前に
それを身に着ける
心の基礎を是非とも
大祭という場に於いて
皆に実践し、身に着けて
貰いたいと強く願うのだ。
私は、皆も既に知っている通り
日本で唯一
歓喜天と会話をし
その力を使役出来る者。
これは既に周知の事実として
沢山の人間に知れ渡っている
事だが
その私が説くに
歓喜天の功徳を自在に得
そして昇天して行く為の
極意とは
絶対に苦行に非ず。
それは思想の実践。
つまり豊な心の在り方にあるのだ。
私は
その心を
是非皆に習得して貰い
そしてそれぞれが
大いなる幸せを常に手にして
行って欲しいと
真実そう願っている。
非常にまた長くなってしまったが
この夏の大祭にあたっての抱負を
書き上げている
この途中で
たった今連絡が入った。
大吉報である。
上記で申した、
私が千宰、そして万宰の力まで
借りた。
恋愛成就、愛縁の大秘法が
たったいま成就したそうだ。
なんという奇跡であろうか、
あまりに嬉しく
まるで自分の事のようだ。
まさに奇跡である。
実際には今日の二十時頃成就した
らしいのだが
御礼に非常に長いメールを送って
来て下さったというので
そのメール作成の為に
報告が遅れたのだろう。
どうであろう
これが
我が愛染聖天の類まれなる
この現世極めたる
「霊験現世瑞一」
の愛染大歓喜天の稀有なる力である。
今度機会があったら
その信徒様に赦しを得て
この度の成就の話を私自ら
皆に話してしんぜようと思うが
この奇跡成就からすれば
この恋愛の大法の影響する
今年の夏の大祭は、
遂に大法破れず
恋愛成就に至った。
この経緯を鑑みれば
恐らく恋愛の願いに特化した
非常に
光り輝くものになるだろう。
長くなったが
最後に
私が大法を修している間
沢山の方が予言的中のご報告を
して下さった。
だが
本部の人間迄も総出で
私に手伝ったものだから
告知掲載に至っていない
そうだ。
故に
知らせを下さった方には
今より特別に約束通り
祈祷をして進ぜるので
安心しなさい。
いつも支えてくれます事。
教主として
心から感謝申し上げる。
本当に有難う。
では皆で良い夏の大祭に
しませうと呼び掛け
夏の大祭抱負をば
此処に結ばせて頂きたい。
聖天教 兆象大宰
追伸
成就を望むなら
先導してくれる者を
まず探さねばなりません。
何故なら
問題の解き方とは
答えを知る者こそが
知っているからだ。
人生の悩み、願いも
また然りである。
加えて
馬は生れながら歩く事を知り
魚もまた泳ぐ事を知る
しかし
その行く先に起こる事は知らない。
故に私達は
愛染聖天の導きの手綱を離しては
ならないのだ。
そこにこそ最上の答えが
存在しているのだから。