信徒各位に私から
『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』
の刊行をお知らせしたい。
大祭中の砌なれば、暇を伺う事も覚束ず
今になってしまった事、誠に申し訳なく思う次第である。
本来ならば
もう少し速くに
本部の者らに伝えて貰える事も出来たのだが
この礼拝作法は
教主としてもさることながら
我らが御本尊様ご自身が強く望まれ、その御意向が
大変強く反映された特別な書物だっただけに
私自ら告知をせねば気が済まぬと強き存念を抱いて
おったもので
大祭修法の合間を見付け告知に及ばせて頂いた。
信徒の皆に於かれては
随分お待ちになった事と思うが
その期待通りこの礼拝作法は
宗教家として、また神通力者として、
そして一人の大聖歓喜天を奉ずる者として
現在落魄の道を辿るばかりの
聖天信仰にあって
唯一荘厳往年の歓喜天の大奇跡力を現出してならぬ
愛染聖天という稀有なる大聖天を奉じながら
孤高として第一線で衆生救済行に敢然身を投じる
我聖天教教主兆象大宰が
御本尊愛染聖天様の神言を受け
我が後継者たる兆象千宰と万宰と伴に
記した渾身の書である。
もう既に信徒ばかりか全ての聖天信仰者
いやそのような枠に留まらない
沢山の方々が
私の嘘偽りの無い神通力の証明を
この科学の発達した現代にあって
幾多もしっかりと目撃し
驚嘆認知に及んでいるものと思う。
つい先日も私が予言してから僅か
一週間足らずで
現実に台風は起こり日本を濡らした
そればかりではない
私の神通による愛染聖天との霊言は
予言後
実際に隣国をも揺らした。
斯くして
過去私が祈祷の験力により
大自然を調伏誅して来た事は過去を振り返れば
枚挙に暇が無いはずである。
このように
科学の発展によりあらゆる不可思議な霊的現象が
閉ざされてしまい
神力という世界に於いては
尚もてその存在の影さも望めぬようになってしまった
現代に於いて
この私だけのところに
何故であろうか?歓喜天の花が咲き誇ってならないのである。
その理由に因りては
上げ連ねれば沢山見つかろうが
畢竟
修養勇んで日々遂げたる私が
その山積した要因から唯一つ敢えて
その理由を取り出すとすれば
それは『愛』なのだと思う。
愛染聖天は私にその神の霊言を持って
仰せられる。
『汝への愛は』
膨大な輪廻転生を超えた
真実の親と子の血縁による『愛』なのだと。
それは現世にある人と人との血縁を超えた『御縁』である。
その証拠に
私は、長い聖天信仰の歴史に於いて
初めて古びた因習の中で滅びかけたその神社仏閣の中より
あわや滅びさろうとしていた『聖天信仰』を
『聖天教―愛染聖天信仰』として
現代に生きる私達の心に見事引き戻し
新たな命を吹き込んだ。
このような業績は
私に並々ならない人の縁を超えた歓喜天との『血縁』が
存在してこそ成し遂げられたものであって
私への愛染聖天様の親子の縁だという霊言が嘘では無いという証拠である。
私達聖天教では
愛染聖天様はじめ
教主である私、千宰、万宰、そして教えの兄弟
すべての縁を『血縁』と呼ぶ。
そうである。
皆もまた、愛染聖天様と、そして私と、千宰、万宰、
そして教え兄弟達と
輪廻を超えた『血縁』をもっているのだ。
『血縁』とは『愛』そのものである。
そして私がこの度書き記した『愛染大聖歓喜自在大天菩薩礼拝作法』は
信徒とご本尊が、信徒と教主が、信徒と千宰が、信徒と万宰が
そして信徒と全ての信徒が
『血縁』相ふかしを探り、やがては深い感応の結実を遂げ
それぞれの成就を自在に実現し
『血縁』ある者全てが幸福に誘われて行く事が出来る
最高の手管なのだ。
信徒の皆には
どうかこの礼拝作法により
『聖天教―愛染聖天信仰』に於ける
深淵なる『愛』を感応獲得され
そこからほとばしる
美しくも尊き、遠大なる奇跡成就を
その手に戴いて欲しいのである。
何より
全ての神々の主尊にして
八百万大小聖天の帝
天帝愛染聖天様に『愛』されて欲しいのである。
この礼拝作法は
何より御本尊愛染聖天様の『大愛』に満たされた
礼拝作法である。
何故なら
この書物執筆の始まりは
ある日の事『多くの信じる者を救う為
我の礼拝作法を作れ』という
御本尊愛染聖天様よりの
私が賜った神言が切っ掛けであった。
その信仰の始まりから
行者ばかりがその功徳と秘密を独占して来たという
悪因習の為
現在ではその肝心の行者でさえも現代という科学の大波の中に飲み込まれ
遂には歓喜天のもたらす
功徳と秘密の欠片さえも全く忘れ去ってしまった
現在の聖天信仰の悲惨な現状にあって
絶え間なく修するその秘蹟により
歓喜天=聖天信仰の持つ功徳と秘密を唯一知りうるこの私は
上記の愛染聖天様からの啓示を頂いてより
このような神力不在の聖天信仰の実情の時世にあって
如何な礼拝作法を書き上げれば
在家に身を置く故に
法に無学なる者が
歓喜天との最上の感応が実現出来き、
その事によって
私の修する愛染聖天浴油秘法供と
素晴らしい三力冥合を遂げられるか
そしてその事によって
歓喜天を信じる一人でも多くの者に
真実の力強い成就を獲得していって欲しいという
神の啓示を受けたその日より我が心に生じた
新しき礼拝作法による
渾身なる信徒救済の大愛の悲願は、
遂には
その有難き信徒への大愛に満ちた神意とともに
『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』として
この世に生まれ出でたのである。
つまりこの礼拝作法は
御本尊愛染聖天様の信徒に如何にして感応を及ぼし、
それにより大いなる功徳を与え、そして善道に導かんとする
その始まりに大いなる神の愛の発願が秘められた書なのである。
そればかりでは無い。
この礼拝作法は、御本尊愛染聖天様の口宣により
出来得る限りの全ての経典、呪句の冠頭に
愛染聖天様のお名前が冠されながらして
その有難い大神の意向をもって
今まで在家の信徒には知りうる事の出来なかった
歓喜天の経典と大呪等の呪句の全貌が
全て和訳され白日のもとに表されている。
人と人が愛し合う時、そこに意志の疎通がなければ
愛し合う事は出来ない。
神との愛もそうである。
そこにしっかりとした疎通出来るものがなければ
感応という神との『愛』は遂げられないのである。
(これは私が先日言葉にて教化した聖天教の『感応の思想』である)
つまり
この礼拝作法は、全文和訳し、呪句の意味を表する事で
愛染聖天様との真の疎通と感応
つまり『愛』が得られるよう
愛染聖天様の口宣により成されているのであって
まさにその面かれ見ても
御本尊様の愛深き神意が散りばめられた礼拝作法なのである。
そしてこの書はなにも
『聖天教―愛染聖天信仰』のみに限ったものでは無い。
この書の全てに通じて
冠頭のマカラギャ、若しくは愛染という句をとれば
この書は、『聖天教=愛染聖天信仰者』のみならず
全ての『聖天信仰者』にとって
日本で初めて今まで知りたくても知る事の出来なかった
歓喜天の経典と呪文が訳された最上の経典になるものであって
まさに
私が千宰、万宰と伴、何より奉じてならない
御本尊愛染聖天様と伴に記したこの書は
愛染聖天信仰者のみならず
全ての聖天信仰者にとって最上の礼拝作法である事は
間違いは無いのだ。
信徒の皆に於かれては
よくよくこの礼拝作法に傾倒しその奥義を
修められん事を
教主として心より望む次第である。
加えて申す。
この礼拝作法中盤に、正念誦という次第箇所が
ある。
これは私が修する浴油からすれば
油を掛ける場面に相当する処で
如何にして
信徒のみならず全ての聖天信仰者に
真実の感応を歓喜天と遂げて貰うにはと
私と愛染聖天様が挿入した次第箇所である。
しかもこの正念誦の呪句は
愛染聖天様の口宣により銘記許可された呪句で
冠頭のマカラギャを除けば
山岳系修法で使われる灌油の秘密句であり
天台系等々と一部の真言系では
この呪句を肝心呪の箇所で秘密句として唱えている。
(どの系統に於いても、共通してこの呪句には
聖天信仰の神髄なる秘密があると相伝されているものである)
それを正念誦の呪句として記しているのである。
故にこの『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』
は、そういった挿入されている内実を伺ってもらえても即座に
お解りのように、
既存の流通している歓喜天礼拝作法のみならず
浴油供の次と言われる華水供をも簡単に凌駕しておるもので
つまり、この礼拝作法は
全ての聖天信仰者にとっても
華水供以上、浴油供未満の成就法であって、
これを体得すれば
真実、今ある歓喜天の修法では到底行き着けない境地に至る
世にある最上の歓喜天礼拝作法なのである。
(聖天信仰に長く精通した信仰者なら、諸々意見はあるとしても絶対に
その内容の次第箇所を見ただけで成程と理解出来るはずである)
最後に縷々申し上げて来た
この礼拝作法を総じるならば
この書はまさに
八百万大小の天帝
生ける大聖天『愛染大聖天』との感応により
神言を受けて生まれた
長い『聖天信仰』に於いて
初めて
大聖天という大霊体御自身の意志と言葉から
私の身体を通し
この世に生まれ出でた
神より戴いた誠に有難き
『神意の礼拝作法』
真の歓喜天の礼拝作法なのである。
故にこの歓喜天『神意の礼拝作法』
『愛染大聖歓喜自在大天観世音菩薩礼拝作法』は
その神聖なるが故に
幾百年を経ようとも
そこに『聖天信仰』を信奉する者が存在する限り
唯一
歓喜天の意志と言葉が秘められた
最上の礼拝作法として
常に聖天信仰者の
その篤信の腕の中で
爛々と生き続ける事でありましょう。
まるでそれは
永遠に潰える事の無い
我々『聖天教―愛染聖天信仰』者の
篤き信仰の灯のように。
合掌 聖天教兆象大宰
追伸
美しさとは
山川であれ
花であれ
宝石であれ
絵画であれ
誠の価値を見出そうとした時
より一層その美しさが際立つものである。
そしてその美しさの
価値を懸命に探求された一方も
また嬉しさで満たされるものなのだ。
それは
ともに日々歩み
懸命に努力した
愛する子の結果を
親が愛でるように。
そして愛でる母に子が
感謝するような
そのような様と
まるで酷似する。
親はその結果のみに目をやり
喜ぶのでは無い。
我が子がそれに至るまで
如何に努力したかまでをよく知り
その結果の価値が如何に素晴らしいものかを
心に映す。
子は、日々ともに歩みながら
懸命に導いてくれた
母へ苦労に心からの感謝を憶え
母の喜びを見て
尚一層の喜びを感じる。
深い両者の相互理解は
果てし無い美しさ、
いや美しさだけには留まらない
喜びを相乗してならない。
ここに
『歓び』と『歓び』が掛け合わさった
『歓喜』があるのだ。
愛染聖天信仰も同じである。
愛染聖天様との信心の道を
どのような時でさえも
伴に日々たゆまなく
心通じさせながら過ごしてこそ
そこに
神と信ずる者との
真の『歓喜』が生れるのである。
そしてその
神と信じる者
を深く繋ぎ合わせ
『歓び』と『歓び』を
を創出させる
最も重要な
架け橋こそが
まさに礼拝作法
なのである。