愛染聖天様は御気性が荒いご性格をお持ちである。
(だからといって怖いだけではないきちんと約束事、
また人が当たり前のきちんとした、また心のこもったお付き合いをしていればた
どのような聖天並びに神々を超越した絶大なお守り、功徳を下さる。)
それだけに信者の皆様にはしっかり心得を読んで、
愛染聖天様の信仰をいよいよ深め、襟を正し、信仰に臨んで欲しいものである。
私が何故このような事を言うかというと、最近 恐ろしく愛染聖天様に対する信仰の形に
間違えて接している方が多いことに気づいたからだ。
新しい信徒様は良しとして。
しかしそれにしても
私が驚いたのはもう何度も愛染聖天様の素晴らしい奇跡に触れていながら、
その度に御自分の心の嵐のせいで全てを壊しているにも拘わらず、
しかしその度に愛染聖天様と私の不眠の努力で
何度もの奇跡による成就の機会を与えられて来た者達の事である。
まずこの方々は(自分で心あたりはよく見ておくように)自分だけが
不幸であると、あからさまにご自分がしでかした
一般生活上、または信仰上の
数々の事件に付いて
言葉だけは反省しているが
よく聞いていると、何かしらの都合の良い理由を持って来ては
反省が全くない。
また不安でいっぱいなのは解るがその際、今回のお題にさせていただいた
努々唾する事なかれ(ゆめゆめつばすることなかれ)
というその御言葉にあからさまに反し
まるで愛染聖天様の存在など全く無視し、
ただどうすれば心願の異性と連絡が取れるか
自分の思い通りになるか
ただそれだけに主眼を置き過ぎ
その良き過ぎた利己的思考は
愛して已まないはずの心願の異性に対しても
まるで血も心も通っていない人間
人形扱いであり、言わずもがな其処には
御本尊様の教えなど全く不在なのである。
これでは、
この方達(あなたですよ)にとっての
御本尊様の存在とは
まるで都合のいい時に利用する道具、機械のようになっていまいか?
これを聞いて古い信者様、また新しい方でこれからという人は
きっと私と同じに思う事だろう。
ゆめゆめつばするなというのは、たとえ心の中でも私を馬鹿にするな、
叶わないと思った時点で裏切りであり、罰を与えるというその御言葉は
何もただ厳しく、そして無理やりな威圧をしておられるのではない。
誰しも経験なさっていると思うが、
まず至らない我々はよく悩みすぎて、
御仏の前で願うことすら動悸などがしてろくにできない時がある。
しかし全て愛染聖天様に預けた、うまく行くんだと半分強制でも思う事ができたら
どうだろう(愛染聖天様はそれで本当に叶うのだから不思議である)
そうすれば不思議と雑念は消えお作法に於いて
皆、真剣に時間を無駄にしないで御仏の法、
行者の法と伴に成就を願えはしないだろうか?
そして、この愛染聖天様への感謝、また信じてついて行くという姿勢は
人間を信じ、なんの利得もなく愛す、裸のまま純白の心で
想い人を愛すという姿勢に通じないだろうか?
よく愛染聖天様だけに留まらず
あらゆる神仏に向かう姿勢はその人の生き方の姿勢に通じると言われるが
愛染聖天様はこの御言葉によって「私を無償に愛し、
その姿勢の如く想い人に臨め」と私共にいっているのではないであろうか?
誰でも自分を性の捌け口や人形のように扱われたり。我儘し放題の相手にされるのは嫌なのである。
しかし愛染聖天様は御自分に全てを捧げて付いてくる者は
全てを救うという考え、誓いをお持ちの大神様でいらっしゃる。
では私が今日私が主題にあげた方々は
その特有のいつものカッとなり荒れ狂う癖、泣き叫び心願相手や友人迄も
なじる癖を見せる前に、
心に愛染聖天様を思うことを忘れてはいまいか?
そのような時こそ
何度も奇跡を見させて頂いたからこそ愛染聖天様を思い出し、
心に浮かべようとするべきではないだろうか。
愛染聖天様は信仰する者に限りない愛を下さいます。
その愛そのものであられる偉大な方を思い浮かべた心で
想う相手を攻撃、憎めるであろうか?
いや、逆に愛染聖天様がが下さった愛を思い出し
相手にも同等の愛をあげようを捧げようと思うはずではないだろうか?
思うはずである。
愛染聖天様は願を叶える代わりに、その成就の課程において流す心の汗、
学ぶ愛を大切にします。
そのように血縁者に仏性を開花させるという心願をおもちの大神様であります。
そして私もそれを活動の主眼においております。
ですから愛染聖天様の思いをお汲みし
愛染聖天様のその大愛から生まれる奇跡を間違ったものにしないためにも
形の信仰もさることながら、心の信仰にも励んで欲しいものである。
そうすれば成就は間違いないのである。
そして今日言われた人は、決して気にしてはいけない。
気にせず生まれ変わりなさい。
わたしもそういった指導に気を配っていなかったのだから。
皆様はまだ信仰でいえば赤ん坊と同じである。
どうすれば御本尊様に近づけ、どうすれば功徳を頂け、
どうすれば御本尊様に喜んでいただけるかは
これからこうやって学んでいけばいいし、学ぶ幅が多いということは、
もっともっとお守りをもらえるに等しい、
つまり伸びしろがあるのだから。
昔の信者はよく私に泣くまで怒鳴られたものである。そして皆めげないで成就なさっていかれた。
今日書かれた沢山の方もそうあって欲しいものである。
愛染聖天様は絶対に見捨てない。私もである。
合掌