二〇一七年明けましておめでとう。
既に年も明けてから二十日を数えるまでになった。
世の動き、人の心も、去年の事はもう昔の事ばかりと
前を向いて走り出しているように思える。
毎年の事ではあるが、多忙の為、そのように時移ろうまで
言葉を遅延してしまいた事、恥ずかしく、また申し訳なく思う次第である。
信徒の皆に於いては
さぞ首を長くして待っていた事でありましょう。
特に年頭には
聖天教ではなくてはならない行事の一つになってしまっている
私の一年の予言が掲載されるものであって、
そちらの方は
きちんと31から1日に掛けてのご祈祷の後に
御本尊様にお伺いを立てていたものであるから
神威ほころびの無い啓示であるので安心して欲しい。
それはあとに詳しく書くとして、
去年は、例年にも増して聖天教、そして信徒の皆様にとって
とても内容の濃い一年であったと思う。
沢山の成就、そして
癌などの難病の救済完治、危篤からの生還など
沢山、沢山あった。
地震もあった。
予言も殆んどが的中した。
どれをとってもその奇跡の功徳を受けた最中に心を戻すと
そのどれもが感動的で、常にその人知を超えた神の大霊力を感じ
胸焦がし、目頭熱くなるを止むるを終えない気に囚われる。
その中で
信徒全員と体験した不思議といったら
年末の
聖天教のお知らせの覧に於いて
私が冬の大祭で御本尊様から感得した
地震の予言が、
数日後見事に的中した事であったと思う。
その出来事の中で
信徒の皆様も同じ感想をもっていると思うのだが
被害の状況に私は注目した。
なぜなら
あのような大きな規模の地震に於いて
他の地域の地震は大半が人災が少なからずある中
全くないといっていいほどだったのだ、
そしてその中でも不思議だったのが
一番大きな被害が
ある寺院で仏塔が数百基倒れただけという事実である。
これを聞いた時
誠に我が愛染聖天様のこれは御功徳であり
また、我が聖天教の信徒一丸となっての祈りが
天に通じた結果であり、
本当にそうでないはずが無いと私は思った。
「きっと仏塔が身代わりになってくれたのだ」
そう私は思ったのだ。
津波の時もである。
あの時は千宰が丁度横におり、
「予言で津波がくると掲載したが
こないと私の面目がない」と愚痴を溢したところ
千宰曰く
「無い方が良いのです。
篤信な信徒様方は毎日の手紙の中に
津波が欠かさず祈っていますとご連絡があるほどです。
教主様なのにそのような天災を望むことを云わないで下さい」
と、そうたしなめられた瞬間である
全国に津波が来た
それも全くの被害が無い程度に
津波などそう易々とあるものでは無い。
しかし、全国に津波は確かにきたのである。
あの時も私は感じたのだが
我が聖天教の御本尊様は
人を愛し、我を愛し、信徒を愛し
一切衆生を遍く愛しておいでであると
そう感じ私は不謹慎にも実に嬉しかった。
恐らく信徒の皆様も私と同じ思いだったと思うのである。
全く被害がない天変地異に際し
我々が獲得し得た、
これは御本尊様が下さった。
信仰を通じた愛功徳の共感なのであるからだ。
この共感は大切であり、必要である。
何故なら、一人一人が感じ得た成就の功徳も
それはそれで大変な素晴らしい喜びである。
しかし、成就した者は体験し陥った事があると思うが
新たな心願の壁にぶつかった時
一人の体験は、その状況に於いて記憶が色あせていたりして
その功徳の事実が素晴らしいものであるから
成就したにもかかわらず、
眼前にある心願の事情の次第で
その事実と記憶が自己の中で変容し、
有難い功徳の記憶を苦悩が凌駕し、闇に陥る時がある。
しかし、上記のような予言的中に於いて成される
共感は
誰もがその事実を公平に確認し
繰り返し、その功徳を感じ得る事によって
信仰、心願、人生の迷いを払拭する働きを得る事ができるのだ。
そして
前の言葉にも書いたが
御本尊様は
自己それぞれの広大な心の中の
もっとも清い処に存在する尊い御方だと書いたはずだが
その尊くも清い場所を
この共感の事象に於いて
それぞれが同じ心の位置を
手探り探求し感じ得ているという
まさに
聖天教信徒がそれぞれの心内に於いて
確信的感応同化を及ぼす
獲得を見るからなのである。
私が説く、世界はそれぞれが己の心の中を生きていると説く
要するにこの世界は共通する一つの心という世界に
我々が共生しているのである
であるならば
我らの心の清い場所にある尊い御方は
必ず生きて、この世界のどこかにいらっしゃるのであって
この共感という作用による
共通の心内に於ける御本尊様への
同じ事象による探求の想いは
要するに
眼前に広がる現実世界に於いての
御本尊様への眼に見えない通念になって
広がるのであって
その一気多大なる通念は
確実に御本尊様のお力を増大させるばかりか
沢山の信徒の成就力までも増させる結果になるのである。
信徒の皆さん想像してみて欲しい。
信徒それぞれが心内同じ場所で
差ほど変われない日時に
同じ喜びを胸に感じたその喜びが
眼前にて広がる世界に於いて実相となって
顕われているのだと
誠にそれは素晴らしいの一言だと思う。
故に私は、外れてもいいのだ。
この予言を大切にしたいと思っているのだ。
しかし、殆んどが的中してしまうところが、我が御本尊、そして
それを支える我が信徒のやはり凄い処なのかなと思う。
また、これも年末であったが東北で地震があった時
欄干が大きく揺れた。
私は地震もないのにどうしてかと思い
周りを揺らしてみたり、息を吹きかけてみたりと
浴油終わってから試してみてもその時はびくとも欄干は揺れない。
そうしたならば
その後、その時間に東北で大きな地震があり津波まであったとわかった
事があった。
きっと宮城や岩手には私の大事な信徒様がいらっしゃり
皆秘法受持者であるので
御本尊様が心配して私にその危機を知らせてくれていたのだと思う。
反省しなければいけない事もあった。
去年の年頭の抱負として
礼拝作法を制作する事と
新しい教義の上梓である。
恥ずかしながら、この二つを完成させる事ができなかった
教義に於いては
手さえつける事能わず、なんとも無念な事であって
今年も引き続き私の抱負として
継続して行きたい。
このように去年御本尊様から頂いた
有難い人としての営みを回顧し
私は何を思い今年を生きれば良いだろうか、
それはやはり一つなのだと思う。
たゆまなく編まれる秘法の中で
日々を変わらず、そして更なる成長、達観を求め
信徒を成就導くという
御本尊への求道の道を歩むことなのだと思う。
そして信徒の皆はどうであろうか
聖天教信徒としてどう生きるべきであろうか?
私は思う、やはり信徒もそれは一つなのでないだろうか
たゆまぬ信仰の道をひたすらに
歩み、成就頂く
信仰求道の道を歩む事なのではないだろうか。
聖天教の信徒の皆様方
どうか今年も
私と千宰、万宰、そして本部理事の方々と伴に
素晴らしくも奥深い
信仰、そして成就功徳の道を
強く、強く、歩んで行こうではありませんか。
合掌 聖天教教主兆象大宰
追伸
正月の浴油供秘法の中に於いて
ふと
種々繰り広げられる呪文と印相の重なりに於いて
達観せるはやはり
五智霊性の獲得と宝珠の輝きによる成就なのであるが
その繰り返し深めるをもってあるもう一つの悟りを
私は得る事が出来た。
それはこの世の成り立ちに於いてである。
三蜜に入る前
私は己と世界の成り立ちを
五部法身の磨瑩と供に
念入りに感得、感想しながら
月輪、蓮華、ウン字との迎合に向かう
しかし私は
上記の霊性の深まりの連続の中に於いて
解り易く云えば
全ての成り立ちが
霊性である空に
意志なる風生まれて、慈なる火になり、それが愛なる水になり
その水が姿を成し地になる。
そしてこれに連続性を持つためには
私はそれぞれの五大に
小さきこの風火水地を働かせまるでそれを監督するかのように
全ての悟り知恵としての空を働かせる。
実はこの働きを私は愛染聖天の油として昇華しているのだ。
これにより
私は
意志を生むに
意志の意志なるを生じ、意思の慈なるを生じ、意思の愛なる水をもって
全てに於いて心内で相対す自分もしくは長じて愛染聖天様と霊性
想い想い合いながらそれを深め合い
やがて火 慈しみを生み 愛 水を生む
全ては霊性の想い合いの働きによってこれは成される。
風とは空虚でありながら
霊性のみなぎった、実相は絶対的有の空間の中で
動きだす意志である
それは熱を生む
この熱はただの熱ではない
人を思いやる気持ちからできている。
そして愛染聖天様の慈とは
十一面様のそれである
苦を抜き楽を与えんという火である
このれが空の霊性を悉く燃やし尽くし
不燃物を灰にし
他は清々なる愛水を空間から創り出す
これもただの水ではない
愛の水である
愛は一つ方向に結晶する
その時不純なるものは
この愛水によって
愛の中心に流され
我々が人を本当に愛した時に感じる
我々が人を助けた時に感じる。
我々が他の為に生きる時に感じる。
何とも言えない
あの美しい気高い気持ちをもって
地
即ち姿、形が成される。
即ち、これこそが
万物清々なる還元の姿であって
この時に感じる
気高い気持ちによる
還元の形こそが秘法の成就なのである
そこでである。
私はこのような秘法の繰り返しの中で
これが成されるのは
絶対的に相対す己であり神仏があり
この空から風に移行できるのであり
この繰り返しの大きな力の流れの成り立ちの中で
どれが全てを牽引し
全ての世界がはじまったのだろうかと
考えたのである
意志なのか
慈なのか
愛なのか
私は考えた
考えに考えた。
その時
愛聖天様の御仏像の眼が一瞬光ったように感じた時
その光が
何か随分遙昔からあったように
私は感じたのだ。
その時私は思ったのだ。
霊性とは何だろうと
例えば相手の霊性を感じるにはどうすれば良いか
答えは簡単に出た。
想う事である。
御本尊様の霊性と触れ合いうには
想うしかないのである。
「ああ、霊性とは心であるな」
そう達観した時
いつも皆に説いている
愛は時間と空間を超えるのだと
いっていた私の悟りに同化している事を
思い出したのだ。
「霊性とは心であり
その中には意志と想いと愛が連鎖している
それは時間を超えた存在として
確かに我が肉体と愛染聖天様を一つの月輪の中の蓮華の上に
称えている。
そしてわたしは上記の
意志と
慈と
愛の始まりについて
ようするに世界の始まりについて
まさに愛染聖天様の光った目から
感得したのである。
その答えは
どれもが始まりという答えであった。
要するに
初めから存在し、その存在に終わりは無いという事であった。
そしてそのはじめであり終わりである世界の中心に
愛染聖天様は座し
己の輪廻の膜に閉ざし、時間を作る事によって
不浄を作り、浄化の道を閉ざす世界にいるのが私達であった
きっと三千世界にはこのようなあらゆる世界があるのであって
その世界を救済しようとなさっているのが
神様なのだと私は深く達観した。
そして毎夜
私は愛染聖天様と相座し
世を浄化しているのだ、
信徒は私と伴に愛染聖天に向かい合い
世を愛しているのだと思った途端。
私は大変な感動を憶えた。
考えてもみてくれ
金剛界の如来成長の階梯が
向上門も無く向下門も無く
一つの会に凝縮された姿を。
そしてその世界をさらに
凝縮するように四つの門をまるで
一つの門に括る四部天王は
聖天の四身を体現し
やはりその括りは
永遠の時間の存在
即ち愛を
曼荼羅の空間で表しているとしか思えない。
そこに
胎蔵界の世界という両部が加えられた時
未曾有の愛の空間が完成するのだという事を。
そしてその愛の宇宙が
三千集まった頂点にいらっしゃる御方こそ
愛染大聖天様なのだと。
私はこの達観により
はじめて
秘法に於いて、いや多々ある法に於いて
その前後にある供養の意味と三礼の意味の神髄を知ったような気がした。
要するに
それはどこまでも
時間と空間、次元を超え
神を一体になる事であって
始まりは終わりと等価なのである。
という事は
秘法終わりたるをもって終わるのではなく
秘法終わるをもってして
始まるのであって、
私が秘法に挑んだ日から
私はもう常にその油の上に生きているのだ。
そして私のみならず
秘法受持者もである。
聖天の行者たるもの汚き言葉、行い、
淫欲に傾倒してはならないのだ
己を殺し、命を掛けて他を祈る
まさに聖天そのものを秘法の外でも
人生として展開させなければならないのだ。
まして
愛染聖天の信徒たるもの愛の道を踏み外してはならないのだ。
それは次元を超えた
愛染聖天の愛の秘法の中に我々が常に生きているからなのだ。
そういう縁の中に生きる覚悟の道を歩んでしまっているからなのだ。
私はこの達観から
なぜ秘法授受者の信仰の間違いに
酷い障礙があるのか
私が怠ければ即座に障礙があるのか
なんとなくわかるような気がした。
私が皆に言いたいのは
日々の行いもまるで愛染聖天と浴油の壇にいる心で生きてみなさい
ということなのだ。
浴油供秘法の神髄
そこに全てが凝縮されているからには
それに常に心を感応させる事こそ
虚空からあふれんばかりの功徳を頂く
最上の大事の一つであり
信徒の皆には
2017年このような形の信仰に向かわれてみてはどうかと
思った次第である。
予言は別の項に書くとしましょう。
最後に御神籤の事だが
今迄申し込みを待たせていた者や
また
依頼していたのにまだ引いて差し上げていれない方
明日から徐々に手を付けていくので、
依頼してまだの方はもう一度千宰に問い合わせてみて欲しい。
私もあまり多いので忘れている処がある。
また、聞くところによると
私が言葉を書き終えるまで待っている方が
沢山いるらしいので
その方々も千宰に問い合わせてくれれば良い。
今日から徐々に再開して行きます。
忙しくご迷惑をおかけしたこと深くお詫び申し上げる。